monologue
夜明けに向けて
 



カリフォルニアサンシャインその50
*****************************************************
 1978年7月4日、独立記念日、わたしがエンターティナーの仕事から帰宅してしばらくして午前3時くらいに臨月を迎えていた妻が腹が痛いと訴えた。すぐにUSCジェネラルホスピタルへ車に乗せて行った。すると出産は隣のウィメンズホスピタルで行うとのことだった。大きな腹を抱えたラテン系の妊婦で賑わう待合室で妻があせって、もう生まれると言っても看護婦はゆうゆうとしてまだまだととりあってくれない。妊婦の人数がだんだん減ってやがて看護婦が妻を連れて行った。わたしは妻が出産に立ち会ってほしがっているからと立ち会いを頼んだが断られた。立ち会うためには前もってそのためのコースを受講しなければいけなかったらしい。妻はストレッチャーに乗せられて産科に入って行きわたしはドアの前で立ちつくした。受付のあたりで時間をつぶして待っていると午後5時くらいに名前を呼ばれた。新生児室には多くの赤ん坊が紙おむつ姿でうつ伏せに寝ていた。ガラス越しにわが子を探した。他の子よりかなり小さい子がそうらしかった。ラテン系の子はみんな大きく見えた。腕に巻かれたネーム票を確認して看護婦に告げると妻のいる分娩室に連れて入れてくれた。初対面のちっちゃな赤ん坊はキョトンとした顔をしていた。髪がナポレオンのような形に生えていた。宇宙人みたいにみえた。2700gで抱くとずいぶん軽かった。産婦は体調が回復するまで何日か入院するのか、と思っているとみんなすぐに退院するのだという。それでそのままヘトヘトの妻を乗せて車で帰宅した。アメリカの女性は丈夫で自分で車でやって来て出産すると自分で車を運転して帰る人もいると聞いて驚いた。日本では産後の肥立ちが悪くてよく命を落とすという話しを聞いていたのでお産は大イベントだと思い込んでいたのだ。
fumio


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )