monologue
夜明けに向けて
 



カリフォルニアサンシャインその21

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 わたしの妻となることになったこの女性は日本で教習所に通って自動車運転免許証を取得していた。運転免許はこの国では身分証明書として頻繁に必要になるから、わたしごときが人に教えるのはおこがましいけれど米国の運転免許取得のためにと、日本とのルールの違いの認識や安全確認の重要性を力説してしばらく稽古につき合った。すると78点で合格した。運転もうまいといわれたという。良かったことは良かったけれどなんだか気が抜けた。当たり前だけどわたしの場合ほど心配することはなかったらしい。
 わたしたちは結婚式場を探した。どこがいいかさっぱりわからなかった。日本人の牧師さんがやっている教会に頼んでみようかと相談してセントメアリーという教会を訪ねた。しかし信徒さんでなければだめです、と期待は虚しくあっさり断られた。それでイエローページを調べて日本の芸能人がよく結婚しにやってくるという ガラスの教会を見つけた。そこは寄付金(ドーネーション)を納めれば良いということだった。電話すると土日の寄付金が一番高くて金曜日が割安だったので1978年2月17日(金)に決めた。結婚記念日はそんな経済的理由で決まった。
 そのランチョー・パロス・ヴァーデス地区にある太平洋に面した丘の上のスエーデンボルグ系の教会、Wayfarer’s(徒歩旅行者)Chapelは帝国ホテルの建築家、フランク・ロイド・ライト(1869-1959) がなんと日光東照宮大猷院(たいゆういん)を模して設計したものだった。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその20

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やがて当然のようにマリポサ通りのアパートを借りてふたりで暮らし始めた。
 そのうち、ふたりが結婚することは学校中の衆知の事実のようになった。ある日、クラスにふたりで帰ってくると突然先生も生徒もみんなでサプライズ!コングラチュレーションズと叫ぶ。サプライズパーティが始まったのだ。贈り物やカンパの金を渡され、なにか歌えと所望される。それで「♪恋が計算通りにできるなら、こんな女(男)に惚れたりしなかった。あれこれ迷ってそろばん 弾き、それでもやっぱりこいつに決めた~」と日本語だったけれどふたりで自作の歌を披露した。今にして思えばあのイスラエル軍パイロット出身の男はキューピッドだった。名前はもう忘れてしまったが今頃どこでどうしていることだろう。わたしたちの名前も忘れてしまっただろうか。そう、縁結びの神は海外出張して多くの糸の中からふたりを選り分けて結んでくれたのだ…。
fumio


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カリフォルニアサンシャインその19
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 「今度入った日本娘きれいだぞ、フミオ、」イスラエル軍のパイロットだった生徒がある日、ニヤニヤする。その娘はわたしの後ろの席に座った。それが一生の伴侶との邂逅の瞬間だった。今もそのとき覗いた瞳の輝きを鮮やかに覚えている。いろいろ学校のことや英語のことを尋ねてくる。わたしは隣に移動する。妹夫婦の結婚式に喚ばれて式に出席したのだがせっかくアメリカに来たのだからしばらく滞在して英語を覚えたいから入学したという。授業が終わるとサンタモニカのアパートへ車で送った。サンタモニカ方面の道はヘビー・トラフィックで慣れていないので運転初心者のわたしにはとてもこわかった。
 それから現在までかの女は毎日、わたしとともに過ごすことになった。 昼休みには車で食べに出た。一番頻繁に通ったのは学校に近かったラ・ブレア・タールピッツ にある美術館博物館群のひとつLAカウンテイ・ミュージアム のカフェテラスだった。その頃まだアメリカには余裕があってそれらの施設の入場料はタダだった。画学生たちが名作の前で何時間も模倣している。世界最高級の美術品をじっくりゆっくり堪能できた。そのカフェテラスのサラダは一人前をふたりで食べても食べきれないほどの量があった。
fumio

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