monologue
夜明けに向けて
 



我々のプロジェクトは総て内発する衝動と決断に委ねる事になっている。生まれて来るか来ないか、今生でこのプロジェクトをあなたがたが遂行するか否かはあなたがた自身の決定なのだ。もう一度生まれて来て今生人間として地球救済プロジェクトに参加する事を決めたのは、あなたがた自身の内発する衝動からだ。5万年待った私、アーリオーンとの出会いも、あなたがたの自由意志で決定されねば何の意味も無いのだ。我々の世界では『自由意志』と呼ばれる内発する衝動が決断の実行力の総てだ。

「ARION語録 」より

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あなたは自分が今生で地球救済プロジェクトに参加していることに気付いているだろうか。
fumio



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以前このブログに連載した宇宙神霊ARIONのメッセージ集「ARION語録」をわたしのホームページようこそMONOLOGUEへ「ARION語録」というセクションを設けて、まとめて収録したので興味がある方はどうぞお読みください。
fumio

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信じるものの為に生命を投げ出せる思いは、百万べん唱えられる反戦の叫びよりはるかに説得力があることを思い出して貰いたい。武力に対して武力で戦うのは愚か者のやることだ。しかし武力に対して花で戦うのは、もっと愚かなことだ。武力に対して効果のあるものは、力だ。本当の力とは、花や微笑みといった、あなたがたの偽善的なフレーズに飾られた額縁の中の絵では無い。本当の力とは、血の滲む愛情だ。自分の生命を投げ出せることだ。
「アリオン語録」より
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紛争の地で本当の力で戦った勇者(さむらい)、後藤健二氏に合掌…。
fumio

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金星は2重構造の星なのだ。あなたがたから見て地表だと思われている所は地表では無い。簡単に言えば『地下に都市がある』のだ。しかもその地下都市の下に本当の地下がある。可動都市とは地下から地表に必要時に持ち上がる都市の事だ。大気の情況に合わせて上下する。

「アリオン語録10」より

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5年前に打ち上げられた日本初の金星探査機「あかつき」は、軌道投入に失敗し、現在、太陽の周りを回っているが、JAXA=宇宙航空研究開発機構は、ことし12月7日に、再び、金星を回る軌道への投入を試みる方針を固めたという。はたして現代科学ではわからないその秘密がどこまで解明されるのだろう。
fumio


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影と闇は違うことを覚えておいて欲しい。影とは光あって存在するもの、闇とは『未だ光の到達しない場』だ。
影の子供達に光を当てて目を覚ます様にしてあげる事はできるけれど、闇の子供達は私達の光に当たるのをとても厭がる。
彼らにとっては私達の光は、致命傷を与えるほどのものだからだ。彼らにとって愛と光は毒なんだ。
これから『闇の子供達』は最終攻勢に入るだろう。世界中で不愉快な事件も多発するだろう。
けれど、これらの事件さえもが闇の子供達の作戦なんだ。
世界の人々を不安に陥れて地球絶滅思考を植え付けようとしているんだ。
彼らがどんなに頑張っても、人間の想念が愛に満ちて未来に光を見いだそうとするなら、彼らに勝ち目は無い。
「アリオン語録11」より

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わたしたちの最終兵器は「愛」
fumio

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光よりの光、オリオンの神の座よりの一条の光として来りて伝える、
我が名はアーリオーン、愛と光の天使

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 私達の秘密としている情報を少し話そう。それは、この日本の神話だよ。日本書紀や古事記、いわゆる記紀は後の世の為に編纂されたもので正しい歴史書とは呼べないんだ。

 まず宇宙には『アメクモ族』と呼ばれた種族が居たことから話そう。彼らは、あなたがたの居るこの銀河系に遥かな昔にやって来て色々な惑星に植民していた。彼らの目的は『人型種族の繁栄と進化』だった。多くの惑星での入植、人種混合そして人型種族の進化を担ってきた。彼らの足跡は『モノリス』によって辿ることができるよ。地球にもやって来た、それは遺伝子操作によって地球原人が発生した後だけどね。他にも宇宙から植民した人型種族は居たけれど、今の段階では私達の流れを話すのが筋だから、他の種族については語らないこととするよ。

 アメクモ族は今で言うアジア中央高原に降り立った。そこから多くの国に向けて陸路と海路で渡って行ったんだよ。この種族は後の世にアメクモ族の名前を残す為に自分達の名前に『アメ』『アマ』、つまりAとMで始まる音を配したんだよ。エジプトに伝わった名前にもあるね?キリスト教では最後にアメンと唱えるね?日本では『アメノ…』という名前が多いね?ラテン語に至っては『アモール』は『愛』の言葉だ。みんな『アメクモ族』の印だよ。

 さて彼らは日本に向けても陸路と海路で渡って行った。(紀元前の話)スサノオとその父フツの曽祖父に当たる男は海路で行くグループの首領だった。陸路で渡った仲間は先に日本に到着した。海路で渡った仲間は東南アジアの島々で数々の仕事をこなしてから朝鮮に渡り休んでから日本の壱岐対馬に渡り、その後出雲に住んだ。スサノオの父フツは出雲でスサノオを生んだんだよ。陸路で先に入っていた仲間はイザナミ・イザナギと呼ばれる人々が有名だね?彼らはヤマト原人を制定し、九州に強い国を築き始めていた。そして海路のグループが携えて来た、いわゆる『十種の神宝』を要求していた。何故ならば、この神宝を持つ者が日本のスメラとなる事が決まっていたからだよ。アメクモ族の当初の予定では陸路と海路との両方のグループが協力して、日本を制定し文化と人頸進化の為に邁進する筈だったが、陸路の仲間は自分達の権利を優先したい為に協力を断る者も出て来たんだよ。そこで首領の血を引くフツはスサノオを諸国制定の雄として送り出すことにしたんだ。その頃、九州にはイザナミ・イザナギの国があった。彼らの長女はアマテラスという名前の、たいそう賢く強い女性だった。

 フツの死後、スサノオは彼の器量を全て受け継いで生まれた第5子のトシを伴い九州を制覇にかかっていた。イザナギ・イザナミはスサノオの強大な力と知恵に恐れを成して、娘であるアマテラスをスサノオに差し出すことによって同盟を申し出てきた。アマテラスは既に結婚してはいたが当時には一夫一婦制の掟はなかったのでスサノオとの婚儀には問題はなかったんだよ。スサノオ、トシの親子は九州を制覇し瀬戸内海沿岸を制覇した。成人し経験を積んだトシはオオトシと呼ばれる様になっていた。既に年を取っていたスサノオはオオトシに『十種の神宝』を手渡し、ヤマトの国に入る様に伝えた。ヤマトの豪族ナガスネヒコはスサノオ親子との親睦を深める為に、彼の妹をオオトシに差し出した。オオトシはヤマトに入り実質上の日本の王となる為に、名前を変えた。『オオトシ(大歳)』から『アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト(天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)』と変えたんだ。ニギハヤヒは奈良に入りヤマトの王としての地位を確立したんだよ。彼の御陵は三輪山なんだよ。三輪山はピラミッド建築になっているよ。

 そして今、あなたがたはこの日本での『アメクモ族』の2000年統治の証とLてのモノリスを振動させるんだよ。これはその時になったら詳しく伝える予定だけど、実際に黒御影石を使ってモノリスを建造する時期になったんだ。大きさも形状も決まっているし、場所も決まっているけれど、これは芸術品として売買できるものでは無いので、その点を考慮して建造されなくてはならない。このことは、いずれ実現されるだろうとしか今は言えない…
                    ---ARION,O∴O---


'89/11/15 01:39
「ARION語録」より
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ここでいうアマテラスとは卑弥呼のこと。

このメッセージを読み返すたびに今が、実際に黒御影石を使ってモノリスを建造する時期ではないのかと感じる。はたして?
fumio


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大方の日本人は輪廻転生を信じている。これは、大昔からの知恵を信仰という形で継承してきた為である。
日本古来の信仰は、かなり宇宙の知的存在についても正直に伝えている。日本の土壌は特別な磁気を帯びた土壌で、この土壌に育まれ継承された物質的生命体は、遺伝という形で大脳の奥深くに、直観という名前で呼ばれる能力を温存してきた。
この直観力こそが宇宙エネルギーの入り口であり、出口である訳なので、この能力の高い日本人の物質的生命体に宿る為に、数々の過去の偉人や天才達が今生、日本に転生してきたのだ。
彼らは、各々の使命を果たすために、霊的な機能に優れた日本人のボディを選ぶ必要があったのだ。輪廻転生を確実に証明する方法は、残念ながら無いが各国にある追跡調査済みの実話をデータとして利用しながら話す方法はある。

「アリオン語録6」より
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日本に今生、転生してきた数々の過去の偉人や天才達とはだれなのか、そして彼らの各々の使命とは…。
果たされつつあるのだろうか。
fumio


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真理とは、宇宙に遍在するエネルギーの事である。

多数の人間の中にあるもの、つまり情熱、愛情、憐びん、恐怖、無常などの感情に訴え懸けるかどうかという事だけが、芸術の意図するものでは無い。

 芸術の普遍性は、宇宙エネルギーの普遍性につながる。


「ARION語録3」より


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情熱、愛情、憐びん、恐怖、無常などの感情に訴え懸ける以外の芸術とはどんなものなのだろう。
宇宙エネルギーの普遍性を絵画、音楽、文学、映画、舞台、などさまざまなジャンルで描き現出して人々に提供することだろうか。時代が進めばIT技術の進化により今われわれが知らない素材やメデイアが登場して新しい芸術を生むのだろう。
fumio


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 人は本来自分以外の生命体を求め愛する事で成長してゆく筈だが現状ではその機能が果たされていない。それは何故だろうか?と考えてみた事があるか?この事を調べていて、自分の生命を分かち与える行為を『愛する』と呼ぶという事が意外に知られていない事実に我々は気付いた。そして残念な事には『命』の意味するところのものを理解出来ていない人が殆どであるという事も判明した。

 『命』とは大きく分けて2つの流れで出来ている。それは『人』の要素と全く同じで、つまり物質的な要素とより精妙な霊的物質とで出来ていて双方の方向性はプラスとマイナスになっている。物質的肉体はその細胞生命維持と保全の為に機能し、霊体はその母胎である宇宙生命の流れに沿って肉体を含む全人格の進化を促進するために機能する。多くの人々は物質的な体の機能のみに拘泥している様子だ。これは大変情けない事だが、人間が物質文明の栄華を追う事に奔走し続けた結果と言うほか無い。物質文明の栄華に奔走した結果、『見えるもの、触れる事が可能なもの』つまり物質的なものしか信じない人種が成立してしまった。太古の昔から綿々と流れてきた精神文明と、その担い手である魂、或は心と呼ばれる人間の霊的な体の方は軽視されているのが現状だ。霊的な体の持つ宇宙指向性が機能していない人間の行き着く先は、人間が最も恐れているであろう破滅でしかない。

 物質的生命の機能が霊的生命の機能を上回っている状態の人間にとっての『愛する』行為は細胞生命維持機能に則したものでしかない。つまり平たく言えば細胞生命の意図する子孫繁栄指向性に裏付けられた行為が中心に据えられたものでしかない。

「ARION語録」より
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人間が最も恐れている破滅を回避するためには細胞生命維持のためではない自分の生命を分かち与える『愛する』と呼ぶ行為を実行するべきなのだろう。
fumio

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(4)シャンバラの中枢センターでは、個人の動きを監視している。しかし総ての人という訳では無く、ある程度の精神レベルに達した人達の動きを監視しているのだ。中枢センターではある程度のレベルに達した人達同士を会わせる工夫をしたりもする。

 シャンバラの帝王は金星の王子と呼ばれた人(?)だ。彼はその体の発するオーラの為にまばゆく輝き、地球の人頬の視覚では、その姿は炎の様にしかとらえられない。宇宙連合は、シャンバラとの連係プレーを行っている。むしろ、シャンバラからの許可が無ければ働けないという方が正しいかも知れない。

 マイ.ミュート・アーテの滞在磁場は、シャンバラの作る磁場なのだ。シャンバラへと続く道は、全部で9ケ所あるが、その内の2ケ所は地球外生命体専用の道である。チベットにある道が地表に近い時には、ある高地の湖に蜃気楼が立つ。その湖は非常に奇麗な薄青緑で、ほぼ楕円系の形をしている。その他、南北極の地下、南米の山脈中、サハラ、北米にもあるが、場所はインディアンの聖なる土地(神々の台地)とだけ言っておく。

 アデプトとあなたがたが言っている人々は、地表に現出する場合は目立たない様に常人の体をする。時々、アストラル・プロジェクションという投影法を使っての対話をする。シャンバラの存在は全く人々に気付かれないという訳では無く、知られても場所の確定が出来ない為に、桃源境とか楼閣とか呼ばれて伝説に姿を遺すのみとなったのだ。しかし、近い未来にシャンバラの存在は多くの人々の識るところとなろう。これからの地球科学は可視・可触の物質科学の域を超えてゆくからだ。そうならねばならない。その為にもシャンバラは教育を続けているのだから。

「アリオン語録」より
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先日4月7日 月曜の朝、午前3時頃、動き出したサナートクマラに関する記事を「アリオン語録」から上に抜書きしておく。
この20009年1月29日に掲載したアリオン語録8その1 で述べられていた「近い未来にシャンバラの存在は多くの人々の識るところとなろう。」という部分が5年後の今現在を指していたようである。「シャンバラの帝王は金星の王子と呼ばれた人(?)だ」というのがもちろんサナートクマラ。地球科学が可視・可触の物質科学の域を超えてゆくためにシャンバラは教育を続けてきたという。それはこのサイトを通じても行われてきたのだろう。もう、シャンバラの存在は多くの人々の識るところになるのである。
fumio


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§出会い、今の共有=存在の共有

 人は人と出会い、各々の『今』を共有する。そこに愛の相互照射が行われ、お互いの自己確認行動が行われる。ここに仮に2本の針金があるとしよう。Aさんという人とBさんという人が居て出会うことにしよう。この針金を、それぞれAさんとBさんに当て嵌めて考えることにする。AさんとBさんとの出会いは針金の一番端に定める。3cm毎順番に、1、2、3…と印をつけておく。この針金が真っすぐで平行の場合にはAさんとBさんの付き合いは成立しない。針金を絡み合わせることでAさんとBさんとの付き合いが成立する。AさんとBさんとの出会った地点を1と定める。2本の針金の両方に同じ力を加えた時には綺麗な弧を描いて絡み合うが、どちらかの針金に力を余計に加えたり、反対に力を加えなかったりすると綺麗な弧は描けない。両方の針金に同じ様な力が加わった場合に、先だって付けた番号も同じ番号の所で双方が接触してゆくのが分かるだろう。力が不均衡な場合には接触場所の番号もズレてゆくだろう。

 『今』の共有もこの針金と同じことで、AさんBさんの両方が『今』を共有しようと望み努力している場合には、一致点で愛が満たされ爽やかな喜びや透明感を感じることができる。どちらかが一方的に望んだり努力している場合やどちらかが自分のやり方を貫き通そうとしていて、相手のやり方を認めることが出来ない場合には一致点に間隙が生じる為に愛が満たされず、何となく不満足感や不透明感が残る。例えばAさんの努力がBさんの努力を上回る時、Aさんの成長進行速度とBさんの成長進行速度とにズレが生じてきて、その分共有時間の『今』の番号にもズレが生じる。針金で考えれば簡単だと思う。AさんがBさんと『今』を共有しようと努力しているのに、Bさんは努力をしない。つまりAの針金が曲がってゆこうとしているのに、Bの針金は真っすぐ伸びたままであるということは3cm刻みでつけた番号の位置も変わってくるということなのだ。

 例えばAの5番目の『今』とBの5番目の今とが重なると非常にしっくりした時間を共有できるが、Aの10番目の『今』とBの8番目の『今』とが重なると2個分のズレがあるために少し不満が残るだろう。共有時間の番号は最初は少し違うだけかも知れないが少しずつ少しずつ間隙が大きくなり、最後には『今』を共有することは全く不可能になってしまう。

 成長進行速度は人それぞれに異なるが、互いに相手を成長させよう、つまり『生かそう』という努力が、『今』の共有をなるべく同じレベルで続け少しのズレで抑えて続けてゆくことができる。


§存在を愛することについて

 存在するというのは、心が状態を認め識ること、つまり心が『今在る状態』を認識することだ。人間は実体を持っている。その実体の状態を曇りなく見詰め、心・魂がその状態をハッキリ認識する時に、存在していることの意味性や理由などのずっと以前に『在る』ことそのものを識るだろう。『今』というのは、その認識した状態の連続する部分そしてそれら部分と部分との間の作っているエネルギー場である。理解の為に少し簡略化して言うと、『今』とは意識と意識の間の部分を含めた連続するエネルギー場である。

『今』
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│意識│間│意識│間│意識│間│意識│間│意識│
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 意識の部分にも間の部分にも実在することが『今』を形作ると言える。意識と間とは、間/意識/間というぐあいに1セットになっているのが普通で、まず『間』の部分で何かの対象を心・魂で感じ取り、それらを実体の大脳神経に伝える。この伝える部分が『意識』の部分だ。実体(大脳)に認識されたものを再び心・魂の部分に映すことで『今』の第1の部分が成立する。そしてこの連続が『今』なのだ。そしてこの連続を認識することが『存在』なのだ。

 存在を愛するということは、自分或いは自分以外の生命体の実体の場と心・魂の場の連続性を認め受け入れることだ。存在を愛することは『今』を大切にすることにつながる。何故ならば何度も述べた様に、存在とは『今』の連続に外ならないからだ。『今』を大切にできない人は、存在を大切にする方法が分からない。存在することを大切に出来ない人は、結局『無』の方向へとつながるエネルギー場に立つことになる。存在の対極にあるものが『無』だからだ。存在を丸ごと認めることの出来ない人は分断された『今』の破片と付き合うことになるだろう。存在を丸ごと認めない、愛せないということは自分或いは自分以外の生命体の『今』の連続性をも無視しかねないことなのだ。この存在の連続が『生命』であることから考えると、自分或いは自分以外の生命体の存在自体を愛せないということは積極的では無いにしても、自分や自分以外の生命体を『無のエネルギー場』へと送り込む行為につながるだろう。そして、この行為は宇宙生命潮流からの逸脱を意味している。

 どんな生命体でも愛せる-もし愛せないと言う人が居るなら、その人は大切な事を誤解しているに違いない。愛は『無』から作るものではない。愛は元々、全ての生きとし生けるものの中にある定理なのだから。生かす、生きて行くというエネルギーの力として、愛がそこに在る。生命、愛の定理は大自然・大宇宙に偏在する生成エネルギーの法則なのだから『在る』わけなのだ。人は人と出会い、その人の中に光る愛を見付けるだけなのだ。

 生命体の個体差によって、見付け易い場合と見付けにくい場合とがあるが、決して『無い』わけではない。この点をよく覚えておいて欲しい。






15 JUL 1989

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 筒状に貼り合わせた紙を見てごらん、創造力の飽和点と破壊力の飽和点は隣合わせているのが理解出来るだろう。

 厳密に言うと、この創造力と破壊力の飽和点の間には『間(魔)』がある。この『魔』を理解することは一般的に必要ではないが一応説明しておこう。『魔』は聖邪併せ持つ場だ。創造力の飽和点と破壊力の飽和点との交わる『エネルギー域』で、これを使うことは普通の生き方をしている状態の個体には無理なことだ。生まれ持つエネルギーの量と質及びその個体の成長過程での訓練度によって『魔』を使いこなせるかどうかが決まる。非常に僅かな個体が『魔』を理解出来る。そしてその中でも些少の個体が『魔』を使いこなせる様になる。自分に素質があると思われる個体は自他共に気付いていることが多いものだ。素質を持つ個体は多くの試練と訓練(グルと呼ばれる師が携わる)を経て『魔』に接する。

 筒状のモデルによって、創造力と破壊力が隣合わせるものだということを理解して貰えたと思う。では先だって設けた中庸点はどこにあるか?そう、両方の飽和点から最も遠くに位置している筈だ。完璧な中庸点は聖邪、創造・破壊、など相反するエネルギーから最も遠くに位置するものなのだ。簡単に『双方のバランスを取る』と人は言うが実は非常に難しい事であることが分かるだろう?

 ここで『飽和点』ということを考えて欲しい。飽和は最大限まで満たされた状態だということは既知のことと思う。では、その飽和から最も離れた『場』である中庸とは、どんな性質のエネルギー場なのだろうか?最大恨まで満たされた状態の反対側に位置するつまり最小限まで空いている状態、未だ創造エネルギーにも破壊エネルギーにも変換するという固定された流れを持たない状態という風に理解できるだろう。

 飽和とは最大限にまで満たされた状態で『充足』とは異なる。充足は欠乏との相互作用のエネルギーなのだ。充足と飽和とを間違えないように。中庸点の性質はこの様に無方向・無性質な為に『空』の状態とも呼ぶ。『空』は『悟り』の状態として知られる言葉だ。多くの人々が辿り着きたいと願っている状態でもあろう。人はこの『空』に近付きたいと思って『聖なる方向』と近付く。それを諦めても聖なる方向性から邪なる方向性へと少し変化するだけだ。その人が筒状の紙のどの辺りに位置しているかも問題だが、要は平面的な思考移動や感覚移動だけでは『空』に至ることは不可能だということを理解しなくては『空』から遠ざかるばかりだということなのだ。禅で『あなたはもう既に悟っている』『空を求めても手に入らない』といった類いの言柴を言うが、先程も述べた様にこの中庸点つまり『空』は無方向・無性格性のエネルギーなので、何かになろう、何かをしようと方向を自分で定めた時に、あなたは『空』から出発してしまうという事なのだ。

 方向を定めた途端に人はある到着点(結果)を求め、定めてしまう。存在とは『今』の連続なのだから『未来』に到着点を定めた途端に、その人の目は『今』の連続する時間帯から『未来の連続する時間帯と移行してしまう。『結果』を追い求めたら『今(存在)』の意味が見失われてしまう。過去・現在・未来という時間の流れは、あなたが『今居ること』を現在だとしたら両脇を流れる川の様なものだ。あなたの右側に『過去』という川が流れ、あなたの左側に『未来』という川が流れている。そしてあなたの前後には『今』という川が流れている。過去は終わり続ける時間、未来は始まり続ける時間。そして『今』は在り続ける時間なのだ。

 未来ばかりを見詰めようとすると『出発』の連続になり『過去』ばかりを見詰めようとすると『終結』の連続になる。だから『今』しかない。『今』が一番大事、『在り続ける今』を愛することだ。これがつまり『存在』を愛することなのだ。『今は駄目だけど、将来にはできる』というのは『今』じゃなくもっと先に出発点を設けているのでいつまでたっても存在しないことになる。どんなに追い掛けても追いつかないのが未来であり過去なのだ。そしてどんなにそこに存在しようとしても存在できないのが未来であり過去なのだ。


 だから『今』できないことは『未来』にもできないし『過去』にもできなかったことなのだ。だから『今』愛せないと、どの時間にも愛せない。今は連続している。あなたの目の前、あなたの後ろ…あなたは一体どの辺りの『今』に居るのか知らない。知る必要もないだろう。『今』が一番大切なのだから…


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存在と時間と愛

『今』のこと

 人は結果を追う時『今』を見失う
 『存在』とは『今』の連続
 『スタイル』は結果である


 創造力の飽和点で創造が行われ、創造力の賜物として何物かが産まれる。破壊の飽和点で破壊が行われ、破壊力の賜物として何物かが産まれる。飽和点に至るまでに膨大なエネルギーが消費される。飽和点に至るまで膨大なエネルギーが消費されるにも拘らず、何も行われない、何も産み出さないのが『無』とそれに付随する関係である。

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§中庸点、バランス点について

 物事を説明する時に人はよく一枚の紙上に図を描いて説明するが、例えば創造力の飽和点と破壊力の飽和点、そしてその中庸点を描くとしたら、どう描くだろうか? 恐らく紙の両端に創造力と破壊力を分けて描くだろう。(A)が創造力の飽和点(B)が破壊力の飽和点だとすると中庸点はどこにあるか?一般的に人は創造力と破壊力の双方から測って同じだけ離れている点を中庸点だと思うだろう。そしてそこがいわゆるバランス点だと思うだろう。

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│(A)創造力   中庸   (B)破壊 │
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 そしてこれが勘違いのもとだ。創造力の飽和点と破壊力の飽和点は、本来拡げた紙という二次元の世界の上で説明出来るものではない。紙を筒状に貼り合わせてみて初めて理解出来るようになるだろう。


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 大衆は飼い慣らされた羊の群れだ。
自分達には何もできないと思わされ教育されて来たが、決してそうではない。
あなたがたが体制と呼ぶ怪物の中枢を握るのは、ほんのわずかな人達で実は体制の本体を支えるのは自分達ひとりひとりだと気付かなくてはならない。それに気付いた時、自分達が動く事で体制を動かせる事に気付くだろう。ほんのひと握りの権力者達の意のままに動かされていると思っているが実は自分達こそ、それを支えて動かしているのだ。
結局は、自分に帰る。


 個の話をするのに全体を話さなくてどうするのか?
個の確立が無い限り、全体の確立はあり得ない。それだからこそ、私達は、個人レベルのことを大きな命題としてとらえる。全体をとらえようとすれば、個の問題をこそ突きつめてゆかねばならない。しかし、盲点がある。個の問題を突きつめるという事は個の問題にこだわるという事では無く、ましてや個の問題に終わらすという事でも無い。

 この点を取り違えたのが欧米社会である。個人主義と利己主義の取り違えにつながるので大いに注意を促したい。個の問題の向こうに横たわる全体の問題を常に横目でチラチラとみながら、つまり常に全体を意識して個としての問題という風にとらえなくては意味がない。個の問題から全体へとつなげる為にも。

 命とは個の問題であり全体の問題である。ほんの少しでいいから命の尊厳について沢山の人が考えてくれるなら、この地球はずっと良くなる。




5/22
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 今日は『愛する事』について少し我々の考えを伝えておこう。

 人は本来自分以外の生命体を求め愛する事で成長してゆく筈だが現状ではその機能が果たされていない。それは何故だろうか?と考えてみた事があるか?この事を調べていて、自分の生命を分かち与える行為を『愛する』と呼ぶという事が意外に知られていない事実に我々は気付いた。そして残念な事には『命』の意味するところのものを理解出来ていない人が殆どであるという事も判明した。

 『命』とは大きく分けて2つの流れで出来ている。それは『人』の要素と全く同じで、つまり物質的な要素とより精妙な霊的物質とで出来ていて双方の方向性はプラスとマイナスになっている。物質的肉体はその細胞生命維持と保全の為に機能し、霊体はその母胎である宇宙生命の流れに沿って肉体を含む全人格の進化を促進するために機能する。多くの人々は物質的な体の機能のみに拘泥している様子だ。これは大変情けない事だが、人間が物質文明の栄華を追う事に奔走し続けた結果と言うほか無い。物質文明の栄華に奔走した結果、『見えるもの、触れる事が可能なもの』つまり物質的なものしか信じない人種が成立してしまった。太古の昔から綿々と流れてきた精神文明と、その担い手である魂、或は心と呼ばれる人間の霊的な体の方は軽視されているのが現状だ。霊的な体の持つ宇宙指向性が機能していない人間の行き着く先は、人間が最も恐れているであろう破滅でしかない。

 物質的生命の機能が霊的生命の機能を上回っている状態の人間にとっての『愛する』行為は細胞生命維持機能に則したものでしかない。つまり平たく言えば細胞生命の意図する子孫繁栄指向性に裏付けられた行為が中心に据えられたものでしかない。


 あなた方プロジェクト要員は、プロジェクト遂行の為に如何なる努力も惜しまないであろう。しかし、いつもこの本来の意味においての『愛する』という事を念頭においておかなければならない事を覚えておいて欲しい。あなた方が霊的にも物質的にも愛し合い励まし合う事、つまり全人格的にお互いに関わり合う事で、我々とのコミュニケーションも円滑に行われひいてはプロジェクトもうまく機能するのである。全的に認め合い、受け入れ合う事がコンタクトの意味するところであり、コンタクトとは部分接触では有り得ない。少なくとも我々の方法では無い。我々は、あなた方の全人格的な成長を軸にプロジェクトを遂行しているからである。以上の事をコンタクト第2期の年頭の今、よく考えて貰いたい。

 そして、もう一度コンタクトの一番最初の自分の意識状態を思い出し現在の意識状態と較べてみて欲しい。

              宇宙連合・銀河連合地球救済計画進行委員会






1988年3月26日
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