monologue
夜明けに向けて
 



カリフォルニアサンシャインその27
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1984年に製作された「カラテキッド(The Karate Kid)」邦題「 ベスト・キッド」という映画が世界的にヒットしたことがある。息子は空手が習いたい、と言いだし、映画で実際に指導していたのは寸止めではない出村先生の流派だったけれど近くのピコ通りにあった沖縄小林流空手道場に入門した。試合を見に行くと出村先生の流派のほうが優勢だった。
するとしばらくして前作のヒットを受けて続編「The Moment of Truth Part II(The Karate Kid, Part II)」邦題「ベスト・キッド2」が製作されるという噂が流れその作品に出演する本物のカラテキッドたちのオーデションがあるということだった。未成年なのでオーデションを受けるにはまず写真を持っていってどこかの芸能事務所に所属しなければならなかった。学校の成績がオールB以上という制限もあった。息子を連れていったオーデション会場には市内の多くの道場から少年たちが集まった。べつに空手を披露して見せるわけではなく、見かけで選び息子の通う道場で通ったのは息子だけだった。撮影の日に行くと午前中は撮影所の一角に別に設けられた部屋で補修授業を受けさせられた。そうしてハリウッドの映画界は学校に出られない子供達の学業が遅れないようにサポートしていたのである。やっと出番が来ると助監督が指揮して沖縄に似せたセットの坂道を歩かせた。ついていったわたしたち夫婦もその他大勢のエキストラとしてセットをうろうろと歩いた。空手道場の場面はなく一日中祭りのような雰囲気の中で歩いただけだった。撮影が終わると主役のダニエル ・ラルフ・マッチオが「おまえたち空手がんばれよ」と子供達に声をかけて車に乗り込んで帰っていった。子供が出演する映画は親も付ききりで大変なことがよくわかった。沖縄県人祭りで会ったパット・モリタは「アイ・ネヴァー・ラーンド・カラテ」とわたしに笑いかけた。
そのころのアメリカは子供の誘拐が流行っていて物騒だった。ミルクのパッケージに「ミッシング・チルドレン」として行方不明の子供たちの写真が印刷されていつも市民の情報を求めていた。それで親たちは自衛のためにキンダーガートゥンや小学校に子供を送り迎えしていた。わたしたちも息子の幼稚園小学校時代、送り迎えしていた。空手道場は小学校二年の子供が歩いて通うにはガラが悪い地区なのでその道場にも車で送っていった。映画「カラテキッド」の影響で道場は盛況だった。地区のせいかラテン系の生徒が多かった。そしてつぎにコリアン系が多く、黒人の生徒はひとりだった。わたしはいつも窓から稽古風景を見学していた。するとだんだんかれらの勢力図が見えてきた。先生のいうことをなかなかきかないラテン系のリーダーがいてみんなをしきっていた。どこにでも悪ガキはいる。
ある日、そのラテン系の生徒に練習をまかせて先生が休んだことがあった。わたしがいつものように息子を連れて行くとかれはみんなで遊び始めた。空手ではなくレスリングのようにつかみ合いして投げ合うのだ。わたしを子供の送迎をする甘いただの「親ばか」とみなしてべつに目の前で遊ぼうが平気だったらしい。
先生のいないのをいいことにわたしはその日初めてその道場に上がり、道着を貸してもらった。十数年ぶりに帯を締めてみんなにかかってこさせた。本気でつぎからつぎにつかみかかってくる生徒たちを全部柔道でひょいひょいと投げると、かれらはどうして歯が立たないのか不思議がっていた。わたしは中学高校と6年間柔道をやっただけだが日本でなんらかの武道の修業をした人にとってそんなことは不思議ではない。海外にいる日本人をみかけで判断するとえらい目にあう。かれらはサムライの魂をもって海外で活躍しているのだから。
fumio

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