monologue
夜明けに向けて
 




今日9月30日は父方の祖父、山下孫吉の命日。
孫吉は1927年(昭和2年)9月30日に57歳で逝去した。
夕食に赤飯を炊いて供えて一緒に食べよう。合掌…。
fumio

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風のサルタンの動画に歌詞をすこし入れてみたがなかなかうまくゆかない。
fumio

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風のサルタンをユーチューブにアップ。
fumio

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のところ、英語圏からスパスシフィカに多くのアクセスがある。英語圏にも意味がわかる人が増えているらしい。気づかぬうちに時代変換エネルギーが生成されてゆく。
fumi

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新曲  


「現代の愛」シリーズの最新曲風のサルタンができ上ったのでどうぞご聴取ください。病院での蜂窩織炎治療中、全く他者との接触を断たれた環境で練り上げたメロデイと歌詞を忘れないように家庭に持ち帰って仕上げたもの。ご愛聴感謝。
fumio

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風のサルタン「とはなんのことかといえば草加市立病院711号室の社会の情報と隔絶したベッドで浮かべたイメージは俵屋宗達の「風神雷神図」の風神。サルタンはアラビア語で「権力(者)」、「権威(者)」を意味して「国王」、「皇帝」という。時代の変化を告げるために一陣の風に乗ってやってくるという。その頃、隣のベッドでテレビでニュースを見ていた患者が看護師にジニン、ジニン」と繰り返しているのが聞こえた。それが「辞任」のことで安倍政権の終焉を意味することを知ったのは翌日だった。それがわたしが入院中に得た唯一の情報らしい情報だった。
fumio

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草加市立病院711号室での蜂窩織炎の点滴治療中、白いカーテンと天井を見つめるだけの生活の中で、ただ頭の中だけで作った曲風のサルタンがやっと完成したのでどうぞお聴きください。ご愛聴感謝。

fumio

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草加市立病院での蜂窩織炎の点滴治療中、部屋が713号から711号室に換わって部屋でラジオテレビなどからの情報に接する機会はなくなり聞こえるのは同室の人が寝入った時のイビキぐらいだになって世間と全く隔絶した生活になったので以前から曲想だけあるけれど置きっぱなしになっていた曲を音を出して確かめるためのギターも音符を打ち込めるパソコンもない環境でただ頭の中だけでメロデイと歌詞を組み立てる作業をしていた。そして先日ついに退院してから家やサテライトスタジオでその曲をパソコンのソフトに打ち込んで形にしていた。「風のサルタン」というタイトルで試行錯誤して現在仕上げにかかっている。ここからが大変かも…。

fumio

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東川口病院の院長バンド、マレットフィンガー(mallet finger)のマレットとは槌のことで指先が突き指などで槌のような形に変形する病気のこと。アメリカでピアニストとして働きわたしたちのバンドと一緒に演奏していた島健がピアノの弾き過ぎでマレットフィンガーになってピアノを弾くのが痛いといって困っていた。かれは現在は日本でプロデューサーとして活躍していてポップ系音楽の製作に携わってそれほどピアノばかりを弾かないで済むようになったので良かった。
そんな楽器練習のし過ぎでなるような病気の名前をバンド名にする院長の感性に感心したものだった。
fumio




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東川口病院は院長が「マレットフィンガー」という名前のバンドをやっていたので病院には珍しくアートに秀でた心豊かなスタッフが集まっていた。
沖縄出身の久貝健士郎OTは小学生時代の授業で蛇皮線を習ったといって同じく沖縄出身の金城療法士とともにある年の忘年会で「海の歌」を演奏した。
わたしの初めの担当だった山我看護師はブロンデイの「タイド・イズ・ハイ」を持ち歌にして「マレットフィンガー」で歌っていた。わたしの手のリハビリを担当してくれた大屋まりOTは「マレットフィンガー」のベースでボーカルとしてアイコの「アイミョン」を練習していた。みんなそれぞれ素晴らしい才能に恵まれていた。病院のスタッフが医療だけにとらわれずアートに心を向けていると思うとうれしかった。それでわたしは東川口病院を良い病院にランクしているのだ。
fumio

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訪問リハビリに来る山岡幸太郎PTにギターの基礎を教えているとONEOKROCKの「C.h.a.o..s.m.y.t.h.」を気に入ったので半音下げチューニングでアルペジオの稽古をしだしたという。それでわたしはやる気があるようだからそれならギターだけではなく歌も一緒に歌った方がいいと薦めた。プリントしたコード進行と歌詞を渡してChaosmythをCで弾いて弾き語りして見せた。弾き語りは初めは大変だがやっているうちに人前でできるようになる。わたしはかれに子供の誕生日にお父さんとして「ハッピーバースデー」を歌って祝ってやれるようになろうといった。すると次の年の子供の誕生日に「ハッピーバースデー」を弾き語りで歌ったとわたしに伝えてくれと山岡PTがいっていたと他のリハビリスタッフが伝えてくれた。うれしかった。
fumio


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2018年のわたしの腓骨骨折後、訪問リハビリの契約して家にやってくるようになった秋山瑞穂OTがある時ベースの弾き方を教えてほしいという。
後輩たちがバンドを作って自分たちはギターを弾くから先輩秋山OTにはベースを担当していただきたいとお願いされたらしい。
それでわたしはアメリカでの仕事に使用していた愛用べース、フェンダー・プレシジョンを弾いて見せた。秋山作業療法士にそのベースを渡して演奏の基本姿勢を教えた。
どうしたらうまくなると問うのでケースに入れて一々片づけないことといった。練習をしょうと思いついた時一々ケースから出して用意するのではなくいつも座っているソファなどに置いておいて思いついた時にすぐにベースを弾けるようにしておく。アメリカのミュージシャンたちもそうしていた。思いついたフレーズをインスピレーションが消えないうちに何度も稽古して自分のものにしてしまうのだ。とにかく楽器と自分を一体にしてしまう。テレビを見ている時もベースの弦を押さえて指先が一旦タコになって剥けてそれから本当の楽器を弾ける皮膚が生成される。だれでもプロになるほどのミュージシャンはその程度のことはやっていると教えた。すると秋山OTは、明日から休みなので練習するといっていた。
訪問リハビリの契約をして家にやってくるようになったもうひとりのリハビリ療法士山岡幸太郎PTはギターでFのコードが押さえられないので挫折したといっていたのだが、ある患者さんにエリック・クラプトンの「レイラ」を聴かされて自分もまた弾きたくなったという。それでわたしはFのコードを人差し指をバーにして押さえるのがむづかしいのでバーにしないで握るように押さえる方法を教えた。みんなそれぞれ得手不得手があって全部の音がきれいに出ないことがあるけれど大切なのは音楽の心を伝えることなのでそれでいいのだと伝えた。プロのギタリストたちはそれぞれ自分流の押さえ方を工夫している。それが個性を生んでアートになる。

fumio

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わたしが腓骨を骨折して入院した時、東川口病院にウクレレ部ができた。それで、リハビリ科OT主任大塚真代作業療法士がウクレレの調弦の仕方を教えてくれとウクレレを持ってやってきた。それでリハビリ室で、スマホに「ウクレレ、調弦、」と打ち込んで検索して出てくるウクレレのそれぞれの弦に音を合わせる方法を教えた。初めてなので初めはむづかしいけれどしばらく手伝ってウクレレの4本の弦がなんとかチューニングできると今度は初練習のチュートリアル曲に決まっている「ハッピーバースデイ」のコードの押さえ方を尋ねるので指板表を見せながら押さえてみせた。他のリハビリ職員たちもどうなるか、興味深そうに見ていた。わたしは一応コードに合わせて「ハッピーバースデイ」を歌ってみせた。
それから大塚真代主任がわたしの自作最新曲を訊くので「虹の歌」と応えるとその場でスマホで検索して聴いていた。そしてわたしの退院フェアウエルライブの日、「虹の歌」を聴きたかったと残念がっていた。他の看護師たちはわたしの声で「ホワイトクリスマス」を聴きたいとリクエストした。みんなそれぞれ勝手なことを言うので面白かった。病院のような場でも、集う者の心次第でそこにいることがうれしく楽しい場になり得るのだ。
fumio


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草加市立病院での1週間の抗生剤点滴治療が終えてその間しばりつけられていた点滴の管から放たれ導尿のカテーテルも尿道から抜いてもらったのでついにベッドから離れることができて車イスに乗れることになった。車イスで初めて711号室の外に出た。部屋から出て病院の構造がやっとわかった。かなり広い病院だった。市民病院と呼ばれていたころは小さくてパッとしなかったが建て直して市立病院という名前になって立派になったと市民がいっていた。ナースステイションの端で待てと指示されてそこでずっと看護師たちの動きを見ていた。見飽きてすこし動くと怒られた。じっとしていないとどこにいったかわからなくなって大騒ぎになるという。とはいっても看護師たちはみんなただパソコンを睨んでいるだけでなにも面白くないのですぐ退屈して動きたくなったのだ。残念ながら車イスの初乗りはあまり楽しいものではなかった。それでもなんとかそこまで回復したのだから世話になった人々にただ感謝するしかなかった。ありがとう…。
fumio



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腓骨骨折治療時の東川口病院時代、それまでなかったリハビリ科ができていて川上政孝理学療法士が主任だった。かれは感性が独特でアートに深い関心を持っていた。わたしのホムページの「祭りの夜」をネットで聴いてびっくりして「ピカソみたいな歌だ」と評していた。わたしはそれがいい意味なのかどうか判断に迷ったがかれはリハビリスタッフたちにメールして祭りの夜」のURLを送ったという。それで一時ネット上で「祭りの夜」がブームになったことがあった。退院時のフェアウエルライブでもかれとリハビリリーダー森岡聡司作業療法士が骨を折ってくれて実現したのだった。それまで患者さんが退院する時なにかパフォーマンスすることなんかなかったと看護師たちは口々にわたしに伝えた。それはそうだろうと思ったがわたしは
きみよ。、しあわせにという歌を今パソコンで作ってるから今度歌います、といってパソコンのヘッドフォンで聴かせた。するとその看護師が胸が詰まって泣き出した。それでこの歌は退院ライブにふさわしいと確信した。すると骨折治療担当の整形外科、小川政明医師がライブの噂を聞きつけてやってきた。パフォーマンスで歌う曲はできましたが国際的に英語にもしてみましょうかと訊ねると喜んで賛成してくれたので日英両語で用意したのだった。そんなことをしてなんの役に立つのかと思われるがただ人を楽しませ喜ばせる。
fumio


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