monologue
夜明けに向けて
 



エジソンが試行錯誤の末に「メリーさんの羊」を歌って録音再生した機械は蓄音機として商品化されてどんどん進化しわたしが高校を出る頃には、驚異的な進歩を遂げていた。レコードに収録された音をどれだけ忠実に再生するかに血道を開けるオーデオマニアが大量発生繁殖する時代もあったがその裏でテクノロジーの進歩は凄まじく音楽信号をアナログからディジタルに圧縮する時代が来た。そして栄華を誇ったレコードというアナログのメディアはCDというディジタル信号を扱うメディアに切り替わった。

 わたしはその頃、渡米して歌うことを生業(なりわい)としていたが自分自身のアルバム「カリフォルニア・サンシャイン」のミックスダウンにはアナログのテープマシーンではなくその頃出たばかりのソニーのPCMプセッサーを購入してディジタル録音に使用した。
  アナログの象徴としての蓄音機の時代は静かに幕を降ろしわたしたちの記憶の中にノスタルジーとしてしまい込まれたがディジタル機器はこれから様々な方向に大きく発展するのだろう。
fumio

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気が付かないうちに音楽界は進み、レコードがモノラル録音からステレオ録音になったことに伴い、かつての蓄音機は「セパレート型ステレオ」という大きなステレオフォニック再生装置に変貌を遂げていた。時代に遅れまいと父が買ってきたのはトリオという音響メーカーの家具調ステレオでレコードプレーヤーとアンプ、チューナーが一体化したセンターユニットと、大きな左右のスピーカーがあった。そしてその上にエアチェック用にナショナルのステレオテープデッキを置いた。

  父はクラシックの「新世界交響曲」を買ってきてたった一度聴いた。それだけであとはわたしがその装置をずっと使用することになった。蓄音機はずいぶん様変わりしていた。それは箱ではなく時代の先端を走る装置だった。友達の聴かせてくれたレコードプレーヤーに感じたチャチさはなく、音は低音から高音まで美しく迫力があり立体感、臨場感があった。それからわたしも小遣いでレコードを買う羽目になったのであった。
fumio

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 今にして思えば父がわたしに音楽を聴くために初めに買い与えた道具がレコードプレーヤーではなくテープレコーダーであったことはわたしのその後の人生を大きく左右した。オープンリールのテープを切ったり貼ったりして好きなように編集することは結局プロのスタジオレコーディング技術者のする仕事と同じだった。録音した番組を何度も聞き返し全米のベスト10をノートに付けたり、その頃流行っていた歌詞のわからないイタリヤ語やフランス語の歌の歌詞をカタカナで書き取って真似て歌った。ギターブームの時初めて買ってもらったギターはガットギターだったがエレキギターが流行るとナイロン弦の代わりにスチール弦を張ってテープレコーダーのマイクをサウンドホールに入れてテープレコーダーをアンプ代わりに使ってそれらしい音を出したものだった。

  わたしは蓄音機(レコードプレーヤー)から出る音を聴く、受け手の立場ではなくテープレコーダーを様々に工夫して使い、音を作り録音して聴いてもらう立場に進んでいったのである。
fumio

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 晩生(おくて)というか、わたしが蓄音機の進化形であるレコードプレーヤーなるものを初めて見たのは高校に入ってからのことだった。同じクラスの洋楽好きが集まって盛り上がっているとレコードを聴かせてやるからみんなで家に来いというのだ。わたしは小遣いでレコードを買ってまで音楽を所有したいと思ったことはなく好きな歌を聴く方法はテープレコーダーに録ったものを再生するだけだった。それで別に不満はなかった。その友達の家に集まるとかれはレコードプレーヤーで最近買ったというパット・ブーン(Pat Boone)の スピーディー・ゴンザレス をかけてくれた。終わるとその裏の「愛のロケット」をかけてA面B面を何度もくりかえし聴かせてくれた、だがそれはなにかあっけないような気がした。初めて 見るレコードプレーヤーというものは、重厚で高価な手の届かない不思議な箱という小学校時代のわたしの印象の中の蓄音機とは大きくかけ離れて軽薄で安価な印象になっていた。

 わたしは持参したテープレコーダーで録音しておいたカウントダウン番組「9500万人のポピュラーリクエスト」のテープを聴いたりみんなのバカ話を録音再生して楽しんだ。小学校時代の夏休みの体操につながる蓄音機に対する憧れはこの日消え去ってしまったようだ。
fumio

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わたしはテープレコーダーの仕様書を読んで今度は入力端子をラジオのスピーカーの端子に接続して音楽番組など様々な番組を録音し始めた。音楽を聴くにはそれで十分で依然としてわたしの家にはレコードプレーヤーはなかった。

 そしてうちに母の母であるオバアチャンが遊びに来たとき、テープレコーダーに録音するからなにか歌って下さい、と頼んだ。すると少しはにかみながらなにやら娘時代に歌ったらしい歌を歌ったが再生してみせるとこんなはずはない、とがっかりしていた。だれでも日頃、自分の声は骨伝導で聴いているのでいい響きと思っているのだがテープレコーダーで再生された音はそのままの音を空気伝導でありのままに聴くのでひどいように思ってしまうのだ。それで録音された歌手の声はリバーブやエコー、ボーカルエンハンサーなどなど多くの機材で聴きやすく処理されるのだ。せっかく、歌に自信を持っていたオバアチャンに悪いことをしたような気がした。
fumio


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   ある日、父の友達で機械いじり好きのオマーチャンに向かいの家の離れに喚ばれた。なにかの機械を組み立てたらしくこのマイクの前でなにか喋ってくれ、という。わたしはどうしたらいいかわからずその時チューインガムを噛んでいたのでクチャクチャ音を立て、アホとかなんとかわけのわからない言葉を口走った。するとオマーチャンはわたしの立てた音を再生して聞かせてくれた。それはテープレコーダーという機械らしかった。帰宅した父にオマーチャンはわたしの声を聞かせた。その時わたしはわけのわからないことを口走っている自分の声を人に何度も聞かれるのがとても恥ずかしくなった。

 そしてしばらくして、父がナショナルのテープレコーダーを買ってきてこれを使え、と言った。友達のオマーチャンの自作テープレコーダーに触発されたらしかった。うちでも生活必需品ではないそんなものが買える時代になっていたのだ。わたしはテレビのスピーカーの端子にテープレコーダーの入力端子を接続してその日、映画「禁じられた遊び」が放映されていたので録音した。何度も再生してその主題曲を弾くナルシソ・イエペスのギターの音色に魅せられた。それが自分で聴きたい音楽を自分の意志で聴いた最初であった。
fumio

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やがてわたしが中学生になる頃には時代は進み社会のインフラが整備されて人々の生活も豊かになってきた。「電気掃除機というものがあるそうやで」という母の言葉に本当にそんなものがあるのか、と驚いたことがあった。しかしいつのまにか扇風機、洗濯機、冷蔵庫、などなど白物家電が各家庭に並び気が付くと娯楽の王者であったラジオや映画からテレビがその座を奪っていた。そしてかつて蓄音機と呼ばれた箱はその頃レコードプレーヤーと名前を変えていた。それでも音楽を聴くのにはラジオテレビで十分で特に家で自分が好きな音楽を聴こうとは思わなかったのである。
fumio

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 そんなわけでわたしは蓄音機というものは体操の伴奏のためにある機械だと思っていた。その箱で好きな歌を聴いて楽しむということを知らなかったのだ。わたしたち子供が音楽を聴くのはラジオや映画館だった。1954年に春日八郎の「 お富さん」 が大ヒットして町内の盆踊りの時、何度も何度も流れる「お富さん」に合わせて櫓の周りを延々と廻り踊り続けた。その歌詞は小学校低学年のわたしには意味不明で呪文のようだった。その時、音楽を流す道具としてあの蓄音機が大活躍していたことは知らなかった。近所のオバサンが窓口にいてタダで入れてくれた映画館で見た1955年の東千代之介主演の東映映画「侍ニッポン 新納鶴千代」の主題歌「侍ニッポン」 という歌が好きでよく口ずさんだものだった。主人公の名前は新納鶴千代(にいのうつるちよ)だったが歌では(しんのうつるちよ)と発音されていた。まだみんな生活に追われて友達の家で蓄音機のある家はなく流行歌の録音されているレコードを見たことがなかった。衣食足りて礼節を知る、というが音楽を聴くことに人々が金を使うようになるにはそれなりの生活基盤が必要なのだろう。子供が日に五円や十円の小遣いで買うものは駄菓子かメンコやビー玉くらいだった。それでも十分楽しく幸せだった。
fumio

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 そろそろ子供達の楽しい夏休みが近付いてきた。わたしが蓄音機なるものを初めて見たのは小学校の夏休みだった。毎朝、広場に集まると町内の人が蓄音機を運んでくる。そしてグルグルとハンドルを回転するとレコードを乗せた。すると「ラジオ体操第一」という声が聞こえピアノの伴奏が流れた。わたしたちはその音楽に合わせて体操をして首に提げた出欠表にハンコを貰って帰った。わたしは蓄音機という箱を不思議な気持で見た。時たま今日は蓄音機が動かないからといってかけ声だけで体操した時楽しみが半減したような気がしたものだった。毎年夏休みが来ると蓄音機というマジックボックスに対する甘い憧れの気持を懐かしく思い出す。
fumio

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