monologue
夜明けに向けて
 



 そして、アルバム「PROCESS」 は80年代初頭には一部の支持者以外には全く理解されることなく20年の眠りについた。ふたたび目覚めるきっかけはわたしがアリオンの主宰する世紀末フォーラムに参加したことであった。そこで知り合った佐藤邦明氏の尽力によってCD化 されたのだ。デジタル化されたおかげでホームページ上にアップロードすることができたので不特定多数の人がその気になれば聴けるようになったのである。

 どうもアルバム「PROCESS」はわたしたちの受信力を見込んでアリオンたちがアートライン・プロジェクトの一環としてあの時点で預言的アルバムとして下ろしていた気配がある。時の封印が解けたとき、その意味がアンテナの高い人に理解される。こうしてわたしに当時のことをあれこれこまごまと記させることにもなんらかの意味があるはずである。
fumio


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 1980年の終わりにアルバム「PROCESS」は完成して、そのころ流行の媒体、カセットテープの形でリリースした。翌年、仲間の芸術家集団の援助と要請をうけてジャズクラブ『処女航海(MAIDEN VOYAGE)』において1981年1月18日(日)午後9時、入場料5ドルでこのアルバムの収録曲をライヴ演奏した。

 クラブ『処女航海』は昼間はバンドの練習スペースとして貸していた。それでわたしたちが到着した時アマチュアのバンドがまだ稽古していた。入れ替わりにジャズのクラブはこんなふうになっているのかと思いながら仲間と楽器と機材のセッティングをして開演を待つ。島健はピアノはスタジオミュージシャンとして手伝ったけれど自分は正式メンバーではないからと客席で見ていた。

 ごく普通にまるでいつもの仕事のようにライブは始まり普段はジャズの演奏を聴きにくる聴衆の前でわたしたちは全く異質な音楽を淡々とくりひろげた。楽屋では仲間たちがドライアイスを買ってスモークマシーンに入れたり用意してわさわさしている。ライヴの後半、の曲で宮下富実夫が中国銅鑼その他のパーカッションを打ち鳴らし舞う際、舞台機材店で借りだしたスモークマシーンでステージがドライアイスの煙に覆われて真っ白になった。そのあとエンディングの「HOME TOWN」 を歌うと、冷たいガスがのどに入ってむせそうになって危うかった。ライヴではなにが起こるかわからない。演奏の稽古は充分したけれどドライアイスの煙を吸わないように歌う稽古はしていなかった。

 はじめからアンコールを求められることなど考えていなかったのでアンコールの声が沸いた時、困った。応えられる曲数があまりなく知っている曲をやりつくしてファー・イースト・ファミリー・バンドの曲「セイ」まで演奏してごまかした。そしてすべてが終わると「You are different!」と聴衆が叫んでいた。
fumio

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 1980年11月4日、その日、わたしの一家は朝からピクニック気分でおにぎりを作って用意した。インディゴランチ・スタジオの中では昼食は買えないということなのでエンジニアの分まで作って持っていった。宮下富実夫の家族、島健の家族とみんなで曲がりくねった坂道を宮下家の大きなヴァンに乗り込んで登って行った。着いたところはUFOが飛来するという噂にふさわしい趣(おもむき)のあるスタジオだった。わたしたちがスタジオに入っている間、家族たちはロビーや丘陵の広い庭で過ごすことができる環境であった。

 スタジオに入って24トラックの元テープをまわし、まずドラムスの音から音色を決めてゆくのだがそれに一番時間がかかった。他の楽器やヴォーカルの音決めはあまり問題なく進んだ。それから一曲ずつ各楽器と歌のバランスやリバーブ、エコー、エフェクターなどのかけ具合など時間をかけてミックスしてステレオマスター・テープを作ってゆくのである。


 初めの録音時、杉本圭がまだ不慣れなためにいわゆる白玉全音符でコードを押さえていただけのストリングアンサンブルのパートを宮下がこのミックスダウンの際に演奏のリズムに合わせて調整卓のフェーダーを上下してリズム感を出した。

 昼食はアメリカ人のエンジニアも和気藹々とおにぎりを食べてくれた。午後も集中してミックスを続けついにマスター・テープができあがってスタジオの壁に埋め込みになっている大スピーカーから出る音をみんなで聴き直していると「ドラゴン・ライダー」 でスタジオ全体が飛んでいるような錯覚に襲われた。今もあの時の感覚がわたしのどこかに残っている。
fumio

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 ミックスダウンとはトラックダウンとも呼び、8チャンネルトラック、16チャンネルトラック、24チャンネルトラックなどに録音したばらばらな楽器や歌をひとつにまとめ作品に仕上げる作業のことである。そのとき、各楽器の音色を調整し音量のバランスをとり、エフェクターをかけたりヴォーカルにエコーやリバーブをかけたりする作品完成のための最重要な作業なのである。

 プロデューサーとしての宮下富実夫はガナパーチのPARANAVA STUDIOはレコーディングには使用してもミックスダウンにはふさわしくないと判断し最新の機材を揃えた有名スタジオインディゴランチ・スタジオ(INDIGO RANCH STUDIO)に予約を入れた。

 インディゴランチ・スタジオは70年代に英国のバンド、ムーディブルースが始めたスタジオでマリブの丘の上にあった。ニール・ダイアモンド、ヴァン・モリソン、ビーチボーイズ、ニール・ヤングといったミュージシャンがレコーディングに使用し、オリヴィア・ニュートン・ジョンはアルバム 「Totally Hot」 を78年にそこでミックスダウンしている。
fumio

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 そしてこのあと、この24チャンネルトラックスタジオ(PARANAVA STUDIO)で録らなければならないのはドラムス、パーカッション類とピアノであった。プロデューサー、宮下富実夫はその日ドラマーとしてレコーディングルームに入った。わたしたちは調整室から指示してダメだしする。ドラムスのレコーディングはOKが出るまでパターンを変えて叩き直すので重労働だが宮下は最後まで元気でへたばらなかった。

 宮下の打楽器関係を全曲録り終えて、最後に島ちゃん(島健)のピアノを青春 ふるさと の2曲レコーディングした。かれは日本でもスタジオミュージシャンとして活躍していたので簡単なコード譜を渡して打ち合わせするだけで曲に合ったフレイズを紡ぎだした。当時の世間の最低賃金は1時間2ドル50でエンターティナーのペイの相場は一晩で50ドルなので50ドル支払った。とにもかくにもレコーディングはそれで完了した。あとはミックスダウンで完成である。
fumio

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余談だが宮下富実夫が自身の8トラックレコーダーで時間をかけてレコーディングしてきたシンセの多重録音の曲「嵐(STORM)」を24チャンネルトラックにコピーする際、エンジニア、ガナパーチと揉めた。宮下は嵐のすごさを表すために50ヘルツ以下の低音をインジケーターの針振り切れッ放しにして録音していた。ガナパーチはエンジニアとしてそれを非難した。それでも宮下はアーティストとしてゆずらず論争になったがそのままコピーさせた。エンジニアは電気、物理の法則に忠実に仕事するがアーティストは常にべつの可能性を求めて無理でも試そうとする。アルバム「PROCESS」ができあがって大音量で聴くと、その部分にさしかかると部屋の窓ガラスが震えてずいぶん効果があったのだがのちにCD化された時、自動的に50ヘルツ以下の帯域がカットされて再現されなくなって残念ながら宮下の苦労は水の泡になってしまうのである。
fumio

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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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7月17日(金)~7月24日(金)
ヒット数: 1,212件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(2)<2>ごめんなさい
第2位(1)<1>水面に書いた物語
第3位(3)<3>あやかしのまち
第4位(4)<6>女優(スター)
第5位(15)<15>オーロラの町から
第6位(11)<5>軽々しく愛を口にしないで
第7位(7)<4>はるかなるメロディ
第8位(12)<8>ときめきFALL IN LOVE
第9位(9)<11>それってⅨじゃない
第10位(6)<10>しあわせになれる
第11位(5)<14>素顔のマスカレード
第12位(18)<18>まことのひかり
第13位(8)<12>マイ・スィート・ライフ
第14位(10)<7>ラスト・ランデヴー
第15位(14)<16>わかりあえる日まで
第16位(16)<9>Stay with me
第17位(17)<17>Sentimentallady”M”
第18位(13)<13>恋すれば魔女
第19位(19)<19>NEVER GIVE UP!

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 「ごめんなさい」がしばらく独走していた「水面に書いた物語」をかわして首位に着いた。ご愛聴感謝。
fumio










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 ベイシックな楽器の音録りを終えて24チャンネルトラックスタジオ(PARANAVA STUDIO)に入ってヴォーカルを録る時、エンジニアのガナパーチ(GANAPATI)に英語の発音のダメだしを頼んだ。

 アバはスェーデン式発音をキュートな訛りと感じさせることができたので大成功した。日本でも東北出身歌手たちが訛りを武器にしているように訛りも魅力になれば素晴らしいのである。芸術関係はなにかひっかかりがあるほうがいい。

 とはいえ、なにを言ってるかわからないと困る。ガナパーチはありがたいことに厳しくてなかなかOKをださない。日頃英語で歌う仕事をして会話も問題なく通じてもネィティヴスピーカーの耳で聞いてもらうとやはりかなり「ダメだし」が多くて矯正にずいぶん時間がかかった。何度も何度も歌いヘトヘトになってやっと終わった。これで一応ネィティヴスピーカーにも歌の意味は通じるはずである。
fumio



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その頃、中島茂男の住んでいた長屋式集合住宅に杉本圭(KEI SUGIMOTO)という青年が住んでいた。
かれは日本でミュージシャンをしていたが渡米してガーデナー(庭師)の手伝いなどをして暮らしていた。そして自分達のバンドを組んでベースギターをやっていた。中島はかれにレコーディングへの参加を打診し、やるならストリングス系の音がほしいと言った。わたしはかれのベースアンプとベーススピーカーを買い上げた。それで杉本はその頃、発売されて話題のアープ社のストリングスアンサンブル(STRINGS ENSEMBLE)を購入して参加したのであった。
 
 ローリング・ストーンズの元メンバー。ビル・ワイマンのローリング・ストーンズへの加入は、かれが立派なベースアンプを所有していたからだという伝説があるように必要な楽器の所有はメンバーとなるための大きな条件となるものである。
fumio

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 チャイニーズシアターの向かいの老朽ビルに入ると、ところどころ工事していた。全体を取り壊すわけではなく特にひどいところを修復してリフォームしているようだった。その中の24チャンネルトラックスタジオ(PARANAVA STUDIO)はガナパーチ(GANAPATI)というインディアン名をもったエンジニアがやっていた。レコーディング料金は格安で防音もきちんとしているし心配なら工事していない時間に録音すれば問題はなかった。
fumio


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友達関係仲間内の「なあ、なあ、」に陥らないためにプロデュース料を1000ドルに設定してアドヴァンスに500ドル、完成後に500ドル支払った。それでプロデューサーとしての宮下富実夫は真剣に仕事としてわたしたちのアルバムのプロデュースに全力で取り組んだのである。

 まず、リズムトラックとして宮下の自宅スタジオのティアック8トラック・レコーダーにリズムギターとベースを録音した。このティアック8トラック・レコーダーはファー・イーストファミリー・バンドを脱退した高橋正明(喜多郎)も購入してシンセサイザーの多重録音によってNHKの「シルク・ロード」 を盛り上げた名機種である。ビートルズの時代にやっと4トラックレコーダーができて多重録音が始まり、この頃の自宅スタジオは8トラックが主流になっていたのだ。

 そしてドラムスは出る音が多くて8トラックではとても対応できないし肝心のヴォーカルとピアノはまともな音で録るために、24チャンネルトラックレコーダーのスタジオを探した。有名スタジオはどこも高かった。ハリウッドにチャイニーズシアターという有名な映画館があってその向かいに老朽化したビルがあった。取り壊して新しくするという噂だった。その中の24チャンネルトラックスタジオのレコーディング料金が工事などの関係で安いということだった。
fumio



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 「そろそろ、ふたりで仕事を始めて二年になるから記念にアルバムを作りましょうか」
と中島茂男が提案した。それから毎日の仕事中、曲の構想を練り演奏しながらコード進行や互いのフレイズを練りあげていった。宇宙創生から現代までを語る歌詞は規則通りの教科書英語より生きた表現につとめた。やがて数曲、形ができてくると宮下富実夫にプロデュースを頼むことにしたのであった。
fumio

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 ある日、宮下文夫が「今度、30才になるから改名する」と言い出した。日本にいる母親が、これまでは文夫で良かったけれど30才からは字画がもっと多いほうがいい、と言ってきたという。それで姓名判断で「富実夫」に決まったのであった。こうしてわたしたちの名前はずいぶん似た字面になった。だれがfumio miyashitaとfumio yamashita、 宮下富実夫と山下富美雄、こんな同じような名前をもつふたりを中島茂男という中の島を介して同じ時期に同じ場所に招き、同じ仕事をさせる計画を立てたのだろう。のちにわたしの誕生日(2月6日)が宮下富実夫の命日(2月6日)となることもすべて経綸(しくみ)であったのだろうか…。それはただの思い過ごしだろうか。
fumio


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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
**********************
7月10日(金)~7月17日(金)
ヒット数: 1,063件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(1)<1>水面に書いた物語
第2位(2)<3>ごめんなさい
第3位(3)<2>あやかしのまち
第4位(6)<4>女優(スター)
第5位(14)<12>素顔のマスカレード
第6位(10)<18>しあわせになれる
第7位(4)<13>はるかなるメロディ
第8位(12)<6>マイ・スィート・ライフ
第9位(11)<19>それってⅨじゃない
第10位(7)<10>ラスト・ランデヴー
第11位(5)<5>軽々しく愛を口にしないで
第12位(8)<5>ときめきFALL IN LOVE
第13位(13)<9>恋すれば魔女
第14位(16)<8>わかりあえる日まで
第15位(15)<15>オーロラの町から
第16位(9)<14>Stay with me
第17位(17)<16>Sentimentallady”M”
第18位(18)<11>まことのひかり
第19位(19)<17>NEVER GIVE UP!

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 「水面に書いた物語」がやはりというべきかまだ首位を続けている。
夏休みに入ったことだし、しばらくつづくのかも…。
ご愛聴感謝。
fumio








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 ライヴで使用するアンプの話しになった時、「島ちゃんがヤマハの初期のギターアンプをもっているから喚ぶ」と宮下が言った。島ちゃんとは本名、島健 で、ミッキーカーチスのバンドで渡米してそのままアメリカに滞在し、チック・コリアやジャズトランペッター、アル・ヴィズッティーのバンドに参加しているピアノ、キーボードプレィヤーだった。やってきた島は「昔、ギタープレィヤーだったからそのギターアンプをもっているんだ」と言っていた。
 
 「宮下のシンセとヴォーカル、中島のギター、島のキーボード、わたしのベース、」という布陣でライヴ会場のコンヴェンションセンターに入ると次々にパフォーマンスが始まる。やはりアメリカはカントリーミュージックの国で、土地柄か他のバンドはほとんどカントリーバンドだった。その中で宮下文夫のバンドの演奏はかなり異質だっただろう。受けたのかどうかよくわからなかったけれど夜のクラブや酒場ではないアメリカの一般民衆の息吹に触れる経験ができて面白かった。
fumio

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