monologue
夜明けに向けて
 




「カリフォルニアサンシャイン」その12
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クラスの構成はイラン50パーセント、ラテン系30パーセント、日本10パーセント、その他10パーセントといったところだった。雑多な人種が混じり合いそれぞれの目的のために英語を学んでいた。一大勢力のイラン人が常にワイワイ発言し日本人はおとなしかった。ラテン系は冗談好きでわたしに「ジョソイ・ロコ」と言えという。わたしがそういうと大喜びした。それは「ぼくは頭がおかしい」という意味だった。当たってはいるけれど言え、といっておいて言ったからといって、バカにして囃すのは子供みたいだった。それぞれに民族性が違うことを知ることができて良かった。あるとき隣の席のアルゼンチン娘が「男のものは日本語でどう言うの」と
訊く。わたしはそんなことを訊かれると思っていなかったので虚を衝かれて外国人にどう教えたらいいのか、あなたもきっと迷うように少し迷ってノートにchin chinと書いた。すると、そうチンチン、わたしの国では女のほうはこういうのとラテン語らしいスペルをノートに書く。わたしは確かめるためにその言葉を発音してみた。すると突然態度が変わり「声にだして読まないで」と眉をしかめて怒りだした。自分が先に訊いておいて勝手に怒るな、と思ったがまわりのラテン系の人には意味がわかるから戒めたのだろう。おかげで一瞬見たその言葉は覚えることができなかった。残念なようなそうでもないような気がした。かの女はのちに米国永住権を得るために日系人ではなく中国系アメリカ人と結婚したからあの日本語はかの女の語彙に入らず忘れ去られてしまったことだろう。残念なようなそうでもないような、どうでもいいような…。


 日本人は大学に入るための英語力アップが目的の人が多く正しい英語を話そうとする。議論も考えてから喋るので口が重かった。他の民族は文法的に合っていようが合っていまいがお構いなしにとにかく喋りまくるので上達が早かった。イラン人たちはみんな大声で意見を述べ合うのだがその中にも思慮深げな人物はいて、みんなが騒いだあと静かに締めのようなことをいう。そして他民族の代表のようにわたしにも意見を訊く。わたしは部外者としての意見を述べた。かれらはチェスが好きで昼休みも休み時間も集まって楽しんでいた。チャンピオンらしいヒゲの男が脇を通ろうとするわたしを見とがめてチェスをしようと誘う。他民族代表としてわたしをチェスという知的競技に誘っているようだった。わたしは日本将棋は好きだったがチェスはあまりやったことがなくどうせ歯が立たないから断った。勝負するのなら勝てないにしてもいい勝負ぐらいにはしたかったから。
 そしてある日「ボビー・フィッシャーのチェス必勝法」という本を図書館で借りて帰った。何日か真剣に勉強してチェックメイト(詰み)のテクニックや基本定跡を覚えて、昼休みに集まって騒いでいるチェス好きのそばに素知らぬ顔で近づいた。やはり一通り対戦相手に勝ったクラスのチャンピオンが手持ち無沙汰になってわたしを誘うので仕方なさそうに受けて立った。油断していたらしく局面は覚えた定跡通り進み、チャンピオンは不思議そうに自分のキングを倒した。かれはボビー・フィッシャーに負けたようなものだった。申し訳ないような気がした。いくら強くても自信過剰で定跡にはまるといけない。
fumo

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「カリフォルニアサンシャイン」その11
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逃げるようにしてハリウッドヒルをあとにして落ち着いたのは西南区の黒人が多い地区だった。夜、5人ほどの同居仲間に挨拶してステレオをセットしてラジオをつけた。するとラジオの音をかき消すようにヘリコプターの音が聞こえる。みんなで飛び出して探照灯が照らし人が集まっている方へ走る。すると発砲音がして通りの黒人が倒れた。パトカーが集まってきて警官が倒れた黒人の死を確かめていた。夜の捜査線のひとつの結末らしかった。路上に溢れた血液を見て、このあたりでは夜飛び出すと危ないことに気づいた。
翌日には路上の血液はもうきれいに洗い浄められて事件を思わせるものはなくなっていた。噂では昨夜の事件は麻薬がらみのトラブルの後始末のようだった。その地域は西南区クレンショー地区10thアベニューなのでなんでも音楽に関連づけるわたしの脳裏にベンチヤーズの「十番街の殺人」 (Slaughter On Tenth Avenue)が繰り返し鳴り響いた。しかし、幸いその後の米国生活で人が殺されるのを目にすることはなくこの国は危険という感覚はうすれていった。
 それよりもそのときのわたしの課題は如何に所持金を長持ちさせるかということだった。住むところはみんなで家賃食費を出し合う形で最低限で済むようになった。しかし、とにかく今の学校は私立校なので学費が問題だった。早晩貯金が尽きてしまう。そこで政府が援助して授業料がタダの学校があると聞いて転校することにした。それはアダルト・スクールで大人を対象にしてENGLISH AS A SECOND LANGUAGE (ESL) PROGRAM、すなわち英語を第二国語とする人を育成することが目的のプログラムを実行していた。それまで面識もなく住ませてもらう挨拶もしていなかった10thアベニューの家の日系人大家さんに訳を説明して保証人のサインを無理矢理のようにもらってそのアダルト・スクールを訪ねた。そこは学校とはいうもののそれらしくなく家具屋の二階だった。授業料はまったくのタダではなく半年に50セントだという。一応払っているという形をとっているのだ。それならわたしにぴったりだった。クラスメイトは前の学校とは大違いでイラン人が多かった。米国政府の対外政策は毎年変わりその年はイラン人留学生を大量に受け入れていたのだ。パーレビ政権下で苦しむイラン民衆をそんなふうに応援していたのだ。かれらは自国で王を批判すると危ないがここでは毎日政治の話題に熱中していた。授業中も休み時間も男子女子を問わずとにかくうるさかった。
fumio

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