monologue
夜明けに向けて
 

命日  


本日は、わたくし山下富美雄の父、山下幹雄「釋浄真」の命日。
1923大正十二年三月二十一日生
1997年平成九年六月十七日午後三時十分 七十四才没.
赤飯をともにいただく。
fumio

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ふと、関西のグループサウンズ「ザ・リンド&リンダーズ」のヴォーカル加賀テツヤのことを思い出した。かれは当時活躍してギター子守唄
燃えろサーキット
売られたギター
銀の鎖(と関西でヒット曲を次々に連発していた。
ところがその加賀テツヤは1979年に渡米したのである。
ロサンジェルスでわたしのSFの相棒中島茂男の住んでいた長屋の一室に居を構え自動車の整備工として働いていた。中島とわたしと加賀の3人でギターのセッションをしたこともあった。そして1981年1月のわたしたちSFのジャズクラブ「処女航海」でのコンサートに加賀テツヤも色々と手伝ってくれたものだった。その後わたしは1986年に日本に帰国したのだがネットによると加賀テツヤは1994年に帰国したようで14年間ほど米国に滞在していたらしい。そして帰国後音楽活動を再開してしばらく活動しているうち持病の肺病が悪化して2007年(平成19年)12月30日に61才で急死している。合掌…。
fumio

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本日2月6日は、2003年に54才で肺ガンで亡くなった宮下富実夫の命日であり、表裏の関係のわたしの誕生日でもある。miya とyamaの下のフミオ同士。
fumio

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合掌  


ギターバンドWajindenの2023年公演でやってきてわたしの家に寄ってくれた中島茂男シゲさんは
ロサンジェルスのリトル東京の旅行店キャラバンサライを社長が閉めるというから自分がフロリダでキャラバンセライオーランド旅行社をやりだしたのだが2014年2月に奥さんのAkikoさんが喉頭癌でなくなってからRecollection (在りし日)という曲を作ってコンサートで演奏している。合掌…。
fumio

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孫吉  



今日9月30日は父方の祖父、滋賀県伊香郡西浅井山門(やまかど)に在住した山下孫吉の命日。
かれは1927年(昭和2年)9月30日に57歳で逝去した。
孫吉さん、赤飯を炊いてご相伴します。合掌…。
fumio

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その頃、京都の繁華街、新京極にライヴ喫茶ができた。それでオーデションで出演者を募集して選んだのだった。京都中のバンドや歌手たちが集まって競い合ったものである。
幸い、わたしも出演者に選ばれて日曜の昼一時間担当することになった。「日々の夕べに」リアルリアル・ラヴそして何が残った打ち上げ花火などオリジナルを中心にギターを弾き語りした。
その店で、イギリスから帰国して1973年に近畿放送と改称する前のKBS京都テレビで「POPS IN PICTURE(ポップス イン ピクチャー)」という洋楽番組を始めた川村尚(ひさし)、愛称がデデで川村龍一という名前も使用していたデデさんがラジオの生放送をしたこともあった。その時実際の顔を見た。
川村さんがやっていた「POPS IN PICTURE」は日本の洋楽ヴィデオ番組の端緒だった。当時はヴィデオ機器が高価で洋楽ヴィデオ自体がほとんどなかった。わたしたち洋楽ファンはそれまで「ミュージックライフ」などの音楽雑誌やラジオで情報を得るだけでライヴを見に行く以外にはアーティストの演奏する姿を見る機会がなかったのだ。入手困難な多くの海外のアーティストの映像をデデさんが見せてくれたことでその後の日本のミュージシャンの感性が育った。わたしも大きく影響を受けて感謝している。そのデデさんは2012年に亡くなっている。洋楽の種蒔き人、デデさん、ありがとう…、合掌。
fumio



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今日はわたしのロサンジェルス時代の親友、上田好久の命日。  
かれは2008年(平成20年)8月8日、愛煙家だったので肺の病気によって63才で亡くなった。
かれは茨城県鉾田出身で東洋大学からオクラホマの大学に留学してロサンジェルスのAssociated Technical Collegeのスピークイージーランゲージセンターに転校してきた。わたしはそこの一番下のCクラスで英語を学んでいたのだがかれはAクラスに転入してきて休み時間によくわたしのクラスにやってきた。わたしがトップ40ヒット曲の歌詞をテープレコーダを聴きながら書きとっていると自分のクラスのポップ音楽好きの先生たちを呼んできて一緒に書きとってくれたものだった。先生でも聞き取れない歌詞があって揉めたりして楽しかった。合掌…。
fumio

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今日五月31日は、わたしの父方祖母、山下いとの命日、いとは明治23年 1890年に滋賀県で生を享け、明治2年1870年生の山下孫吉と結婚して10人の子供を設けた。夫婦は20歳の年の差があった。その末っ子、幹雄がわたしの父だった。いとさん、どうぞ、冥界で楽しくお見守りください。合掌…。

fumio

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母の好きだった「悲しき願い」と「朝日のあたる家」をライヴ配信して捧げました。
fumio

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命日  


今日はわたしの母、山下房子の命日。
房子は1926年(大正15年昭和元年))11月11日に山下安次郎中田サキ夫婦の間に生を享け、
娘時代はタバコを製造する専売局に務めタバコの葉を裁断していた。それで人差し指先を失う事故に遭ったこともあった。戦後、復員してきた滋賀県出身の山下幹雄と職場で出会い1947年(昭和22年)6月2日に結婚した。流行歌が好きで洋楽ではアニマルズの「悲しき願い」と「朝日の当たる家」が好きだった。2001年(平成十三年)、四月二日、 七十四才で没した。さっき赤飯を炊いて供養した。合掌…。
fumio

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命日  


成本末子命日
1982年昭和五十七年二月十八日 二十四才。合掌…。
fumio

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感謝  


今、カーペンターズの「遥かなる影」をライヴで配信してバート・バカラックに捧げた。合掌…。
fumio


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命日  


今日はファーイーストファミリーバンドのリーダーであった宮下フミオの命日でありわたしの誕生日。
fumio


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命日  




今日9月30日は父方の祖父、山下孫吉の命日。
孫吉は1927年(昭和2年)9月30日に57歳で逝去した。
わたしは滋賀県伊香郡西浅井山門(やまかど)の山下孫吉と山下いとの四男幹雄の長男で孫吉の孫に任(あたる)ので孫吉の才能を受け継いだ。
その年、近江(おうみ)国西浅井(にしあざい)の夏は暑かった。それは、いとの十五の夏だった。近郷で盆踊りがあると聞くと仲間と浮き浮き気分で浴衣姿で出かけた。みんなで屋台巡りを楽しんでいると、のど自慢の若者たちが櫓の上に設(しつらえ)られた舞台に上り次から次へと民謡を披露していた。いとは仲良しと櫓の周りを踊りながら廻った。祭りがたけなわに差し掛かる頃、孫吉という若者が舞台に上って三味線を弾きながら江州(ごうしゅう)音頭を歌い出した。それはそれまでの若者の歌声と全く違う圧倒的な歌声だった。いとはまるで自分のためにだけ歌ってくれているようで魂が震えるような気がして聴き惚れた。櫓を見上げると孫吉が手招きしている。いとはドキドキして自分のことを知っているのかと不審に思いながらもじもじしていると仲間が櫓に上れと押し出した。いとは押されるままに櫓に上っていった。舞台まで昇ると名前を訊かれて「いと」と応えた。孫吉は手を取り「やっと出会えたね、いとちゃん、」という。いとも、なんだかやっと会えたような気がて「うん」と応えた。「さ、その太鼓叩いてごらん」といわれて日頃仲間と遊びで稽古している太鼓のバチを持つと気持ちが落ち着いた。孫吉はいとの太鼓に合わせて三味線を弾きながら歌い始めた。「江州音頭」といっても主人公が旅する各地の民謡を採り入れてある。「大漁唄い込み」では、いとは「エンヤトット、エンヤトット」と掛け声の部分をまわりの人とともに歌った。盆踊りは佳境に入り仲間は楽しく踊り続けている。花笠音頭を歌った後、孫吉は「みんな、聞いてくれ、おれ、この娘(こ)と一緒になる。」と宣言した。仲間たちは跳び上がって喜んでいた。いとも突然のことにびっくりしたけれどうれしかった。「うち、これからこの人と一緒に生きてゆくのや、そうやったんや。」と口の中で呟いた。孫吉は若い頃、日本一の唄い手を目指して歌と三味線の修行に諸国を巡った。山ごもりして声出しの稽古したり瀧に向かって吠えて声を鍛えた。故郷西浅井(にしあざい)山門(やまかど)に帰った頃にはもう三十五になっていたので十五歳のいととは二十歳の開きがあった。ふらふらと腰の定まらない遊び人と見られていた孫吉がやっと落ち着く気になったかと家族は喜んだ。いとは長い間なにかが足らないような15年間を生きてきてこれでやっと探し続けた最後のピースがはまるような気がした。親兄妹親戚に反対する者もなく質素な婚礼が執り行われたが思えば出会いから結婚までなにもかも仕組まれていたようだった。ふたりは10人の子供を設け末っ子の山下幹雄を1923大正十二年三月二十一日に出産した。それは孫吉53歳、いと33歳の時でいわゆる恥かきっ子であった。
そしていとが37歳の年、孫吉は1927年(昭和二年)九月三十日五十七才の秋祭りの日、乞われて上った櫓の上の舞台で踊りながら歌い上げているうちに気分が高揚して足を踏み外し櫓から落下して首の骨が折れて亡くなってしまった。孫吉さん今日は夕食に赤飯を炊いて一緒に食べましょう。合掌…。
fumio

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jaco  


かつてジャコパストリアスという天才ベースプレーヤーがいた。かれのベースの奏法がジャズ界の噂になってすごい人気になった頃「ウエザーリポート ライヴ・アンダー・ザ・スカイ'83」」というカリフォルニアで開かれるジャズのフェスティバルにジャコが出演するというのでそのパフォーマンスを現地で見るために桃山高ケイオン仲間のベース弾き川井鶏造(ケーゾー)が1983年に日本からやってきたことがある。しかしそのジャコ・パストリアスは「ミッドナイト・ボトルクラブ」という店で警備員リュック・ヘイヴァンに投げ飛ばされ脳挫傷による意識不明の植物状態となって親族の決定により人工呼吸器が外され、1987年9月21日、21時25分、35才の若さでこの世を去って伝説と化してしまったのである。ジャコの命日である9月21日には今もかれの死を悼んでかれジャコに関する記事にアクセスする人々が多い。
fumio

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