monologue
夜明けに向けて
 



1960年代初頭、英国に庭でブルースの種をついばんでいる鳥達がいた。かれらは腹が満ちると自分達を「ヤードバーズ(The yardbirds)と称し囀り始めた。
I Wish You Would でデビューし、第二弾のGood Morning Little Schoolgirl ではギターのエリック・クラプトンとベースのポール・サミュエル=スミスがボーカルをとっていた。ブルースは一部には受けても商業的に成功するはずがないのでマネージャー、ジョルジオ・ゴメルスキーとメンバーは諮(はか)って第三弾に印象的なチェンバロをイントロにしたヒット狙いのFor your Loveを出そうとした。そのとき、事件は起きた。看板ギタリスト、エリック・クラプトンが脱退してしまったのだ。"It was all really joke for me "「それはぼくにはまったくのジョークだった」「ぼくはどんどんブルースを深く極めようとしてるのに、かれらはどんどん軽くしてゆくんだ」とかれはなげいた。いつものように芸術とコマーシャリズムの相克である。

しかしながら」『For Your Love』は大ヒットした。庭の鳥達はそれぞれ飛び立ち1969年1月5日、ロサンジェルスのクラブ、「Whisky A Go-Go!!」では、「鉛の飛行船( Led Zeppelin)」に変貌して「For Your Love」を演奏しているほどである。

 このFor Your Love の核になっている「Em-F-G-A-Am」というコード進行は大ヒットするだけあってミュージシャンの作曲意欲をかきたてるものがある。わたしも素顔のマスカレード で使用している。ロサンジェルスで「SF」というバンドのライブをやったとき、アンコールで知っている曲を全部やったあとまだアンコールされるので困ってドラムの宮下富実夫が日本でやっていた「ファー・イー・スト・ファミリー・バンド」の曲「セイ」をやろうということになった。その曲のコード進行が同じだった。宮下もまたこの進行に夢を乗せて曲作りしていたのだ。まともな歌詞を歌えたのは宮下富実夫だけでギターの中島茂男とわたしは適当にアドリブで作りながら歌った。クラプトンを怒らせたこの曲「For Your Love」のコード進行は今もだれかの作曲意欲を刺激して新たな名曲を産もうとしているはずである。
fumio

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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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5月22日(金)~5月29日(金)
ヒット数:1,139件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(3)<2>ごめんなさい
第2位(1)<1>あやかしのまち
第3位(2)<4>水面に書いた物語
第4位(8)<7>マイ・スィート・ライフ
第5位(6)<8>軽々しく愛を口にしないで
第6位(5)<12>ラスト・ランデヴー
第7位(4)<5>ときめきFALL IN LOVE
第8位(10)<13>はるかなるメロディ
第9位(9)<4>女優(スター)
第10位(7)<3>オーロラの町から
第11位(17)<11>恋すれば魔女
第12位(18)<10>Stay with me
第13位(12)<17>わかりあえる日まで
第14位(11)<9>それってⅨじゃない
第15位(13)<6>Sentimentallady”M”
第16位(14)<18>素顔のマスカレード
第17位(15)<15>まことのひかり
第18位(16)<19>しあわせになれる
第19位(19)<20>NEVER GIVE UP!

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 「あやかしのまち」をかわして「ごめんなさい」がひさしぶりにトップを奪った。昨日なぜかアクセスが集中している。この曲はアメリカで弾き語りをしているとき受けが良かったけれど日本でも受けるのかも。ご愛聴感謝。
fumio








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2000年6月、元ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズ(Lewis Brian Hopkin Jones )が、1969年7月3日、溺死していたサセックス州コッチフォード農場のプールのタイルすべてが改築工事のため競売にかけられるというニュースが流れた。改築されればもう過去に遡ってかれの死の原因を調べることは不可能になる。7月2日の深夜12時過ぎ、コッチフォード農場の自宅プールの底に沈んでいるところを発見され、病院での検死結果はアルコールとドラッグの影響による溺死という不可解なものだった。

 ブライアンは、作家C・W・ニコル氏の高校の後輩で天才肌のアーティストだった。ブルースを追求し、 Elmore Jamesのボトルネック奏法によるスライド ・ギターをコピーし「エルモア・ルイス 」と自称していた。「ブルース・インコーポレイテッド」のステージにゲスト出演していたブライアン・ジョーンズのブルース・スライドギター・ワークを目の当たりにしたミック・ジャガーとキース・リチャードが衝撃を受けたのは当然だった。普通に正当派ギターを習って弾いている若者が予備知識なくエルモア・ジェィムスの野性的三連スライド弾きを聴かされるとオープンコード・チューニングを知らないのでわけがわからなくなる。ボトルネック奏法とはウイスキーやビールのボトルのネック部分を熱した針金を巻いたりやすりで切って薬指や小指にはめてギター弦にこすり滑らせる奏法だが初めて聴くとギターでそんな演奏ができるのかと驚く。ブライアンはハーモニカ、ピアノ、シタール、ダルシマー、メロトロン、木琴、マリンバ、リコーダー、クラリネットとなんでも手を出し弾きこなしてその音楽的才能をきらめかせた。

 ブライアンはバンド・メンバーを集めザ・ローリング・ストーンズを結成してビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインの宣伝担当のアンドリュー・ルーグ・オールダムをマネージャー兼プロデューサーにした。バンドは1963年6月にチャック・ベリーのカム・オン でレコードデビューした。ブライアンはブルース中心に音楽を深く探求してゆく方針だったがマネージャー、アンドリュー・オールダムはビートルズのようにオリジナル曲を書くことを勧めた。それでミック・ジャガーとキース・リチャードはコンビで曲を書き始めた。しかしブライアンは芸術家肌でポップヒット路線にはなじめなかった。ボーカルのミックがスポットライトを浴びキースは自作曲のリフで派手にジャンプしたりして目立つのにブライアンは隅でタンブリンを叩いたりするようになっていった。いつのまにかオールダム、ジャガー、リチャードの三人体制ができあがり、気が付くとブライアンの居場所がなくなっていたのである。

 そして1969年6月にブライアンは正式脱退表明し、7月3日に自宅のプールで溺死しているのを発見されたのだ。

 かれはただローリング・ストーンズを結成するために生まれてきたのだろうか。27年の短い生涯でなにを捜しにきたのだろうか。そしてそれは最期に見たプールのタイルに映っていたのだろうか…。
fumio


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 1967年はやはり歴史的な年であった。ソウルの女王、アレサ・フランクリンがデビューし、オーティス・レディングは6月にモントレイ・ポップ・フェスティバルを興奮の坩堝(るつぼ)に投げ込み、ソウルの世界も黒人だけでなく白人も手をとりあって協調し、ビートルズも6月に衛星中継で全世界のものすごい数のテレビ視聴者の前で「愛こそすべて」と訴え、時代は一気に進むかに思えた。

 その翌年1968年4月4日、前年デトロイトでアレサの成功を祝福したマーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師はテネシー州メンフィス市内の定宿、ロレイン・モーテル(Lorraine Motel)の二階バルコニーでミュージシャン、ベン・ブランチ(Ben Branch)と集会での演奏曲目の打ち合わせ中、"Ben, make sure you play "Take My Hand, Precious Lord" in the meeting tonight. Play it real pretty."「ベン、今夜の集会でTake my hand precious lord をかならず演奏してくださいね。ほんとうに美しく弾いてくださいよ。」と念を押した。

 そのとき、午後6時1分、ジェームズ・アール・レイ が発射した銃弾がソウル音楽にひとつの終焉をもたらした。

 キング牧師暗殺の報が全米を駆けめぐると各地で暴動が起こり集会が開かれ、沈鬱な空気が全米を支配した。フェィム・スタジオにもその衝撃波は伝わりその日のセッションは取りやめになった。影響はそれだけにとどまらず、レコーディングセッションが極端に減ってしまった。白人と黒人の協力関係で成り立っていたソウルの希望の歌声はこの日のひとつの銃声によってかき消されてしまったのであった。
fumio

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 1967年6月25日の明け方、わたしはテレビの画面に釘付けになっていた。英国BBC放送が企画した史上初の全世界衛星生中継番組「アワ・ワールド(Our World)」の英国代表、ザ・ビートルズがEMIのアビー・ロード第1スタジオで、All You Need Is Love を演奏するのだ。生放送でビートルズが見られるのである。

 放送が始まると、正装したオーケストラと当時流行ったサイケデリック模様の服を着たビートルズが映し出された。イントロになぜか聴き覚えのあるフランス共和国国歌 「ラ・マルセイエーズ(La Marseillaise)」のメロディが流れ、あれっフランス国歌なのにと思うと「ラヴ・ラヴ・ラブ」とコーラスが始まった。実に感動的だった。ジョン・レノンはガムでも噛んでいるのかなにやら口をくちゃくちゃ動かしながら歌い始める。

 時代背景はベトナム戦争が泥沼化して各地で激しい反戦運動が起こっていた。そして一方では「愛と平和」が若者の合い言葉になってフラワー・ムーブメントの中、数日前にはカリフォルニアでモントレー・ポップ・フェスティバルが開催されている。この日のビートルズのパフォーマンスにもそんな時代の空気が色濃く反映されていた。ミック・ジャガーなどなじみの顔が映りうれしくなった。そして混沌としたエンディングのとどめにジョンが「シー・ラブズ・ユー」とアドリブで叫ぶのがなんともいえなかった。
All You Need Is Love…。そう、愛だけしかいらないんだ。
ffumio

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「2001年宇宙の旅」の原作者アーサー・クラーク博士が提唱していた全世界を包む通信衛星網計画の第一弾 初の送受信機を積んだ本格的通信衛星テルスター1号が打ち上げられて世界は宇宙衛星放送時代に入った。

 わたしはその日、1963年(昭和38年)11月23日(土)朝早く起きてどきどきしながらテレビの画面を見守っていた。アメリカから日本への初のテレビ衛星中継が始まるのである。午前5時くらいにテレビをつけて始まるのを待っていた。正確には5時27分42秒、というが5時半くらいにやっとなにかテストパターンのようなものが映りそれから砂漠の風景が映っていたがケネデイ大統領の挨拶があるという噂を聞いてアメリカの大統領が生放送でで見られるのだと興奮していた。

 しかし待っていても大統領の挨拶がないまま午前8時58分「これは輝かしい日米テレビ中継の2回目のテストであります。その電波にのせてこのような悲しいニュースをお送りしなければならないのはまことに残念に思います」そんなナレーションから二回目の実験放送が始まった。なんとその日、米国大統領ジョン・F・ケネディはアメリカ東部標準時間11月22日、午後1時30分、日本時間 23日(土)午前3時30分、テキサス州ダラス空港からオープンカーで演説会場に向かう途中、狙撃され病院ですでに死亡していたのだ。

 生衛星中継は、ケネディ大統領暗殺 を報じ、かれの元気な頃の姿を映し大統領就任演説会の模様などと町の人々の反応、悲しみの表情を伝えていた。わたしはなにがなにかわけがわからないままその20分ほどの放送を見終えた。そんなニュースが世界中で同時に共有 できる時代に入った記念的な日のトピックがケネデイ大統領暗殺というのはあまりにも衝撃的だった。一体だれがこんなシナリオを書いたのだろう…。歴史の変換点ではなにかが用意されているようだ。
fumio


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1967年、2月3日、プロデューサー、ジョー・ミークが鬱状態で落ち込んだためアパートの管理女性をショットガンで射殺した後自殺した。享年37才。かれはビートルズ以前にイギリス勢で初めて全米1位の曲を作ったことで有名だった。その曲とは1963年January 5とJanuary 12 付けキャッシュボックス誌で2週にわたって首位を走ったトーネードーズ(Tornadoes) の『テルスター(Telstar) 』 である。この曲は1962年7月10日に打ち上げられた、重さ77kg、直径85cmの球体 放送衛星、テルスター1号の打ち上げ成功を祝う曲で宇宙時代の幕開けを飾り人類の希望を背負うようにヒットしたのだ。

 ミークはエンジニア出身なので楽譜に弱く、楽器も弾けないので、セッションミュージシャンにハミングのテープや口移しでメロディを伝え、弾いてもらってテープに録る。それを繰り返してできた原稿のような多くのテープをスタジオで編集しまとめて曲を仕上げたのである。おかげであの独特な機械的なノイズや疾走感、合っているのかどうかわからない一種の浮遊感が生まれたのだ。かれは1963年の時点で現代のサンプリングやシンセの手法を駆使してレコード作りしていたのである。変な死に方をしないで長生きしていればレコーディング技術の偉大なるパイオニアとしてその名が人々の記憶に残り讃えられていたのにと惜しい気がする。

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 1996年7月17日アニマルズのベーシストであったチャス・チャンドラー(Bryan James "Chas" Chandler) が心臓疾患で亡くなった。かれはアニマルズのサウンドの縁の下の力持ちだった。体格も性格もそんな支えるタイプの人物だった。

1966年7月、チャンドラーはアニマルズの解散前の最後のアメリカ公演前に他のメンバーより一足先にアメリカに渡った。転進して新たな才能のプロデュースやマネージメントを考えていたのだ。そのとき、ティム・ローズの Hey Joe (You shot your woman down)を気に入ってこれからマネージメント、プロデュースする新バンドでこの曲をレコーディングしようと思った。そしてグリニッチ・ビレッジのクラブ「CAFE WHAP」に入るとジミ・ヘンドリックスが待っていたように出演していてなんと1曲目に「ヘイ・ジョー」をやりだした。その演奏に度肝を抜かれて、イギリスに連れて行きたい、と交渉を持ちかけるとジミは「ジェフ・ベックやエリック・クラプトンに紹介してくれるか」と尋ねる。チャンドラーがなんだそんなことかと胸をはって「もちろん2,3年越しの友人さ。」と応えると「イギリスではどんなアンプを使ってるの。フェンダーアンプはあるよね?」とそれだけをジミは尋ねて英国行きを決める。

 チャンドラーはジミの9月渡英後、オーディションを行い、ノエル・レディング(ベース)、ミッチ・ミッチェル(ドラムス)を選びジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成し10月から活動開始。デビューシングルHey Joe は全英4位のヒットとなり、ジミの破天荒ギターサウンドと衝撃的パフォーマンスは世界中の音楽ファン、そしてプロミュージシャンを驚愕させ賛否両論の渦に巻き込んだ。
 
 チャンドラーの下支えの下(もと)ジミのライヴやレコードで繰り出すサウンドは嵐のように世界中を吹き荒れて強烈な印象を与え続けたのだ。かと思うとジミはなんとデビューからわずか4年後の1970年9月18日ロンドンのホテルに滞在中酒とバルビツール酸系睡眠薬の過剰摂取により27才で急逝した。本当にあっという間だった。
 
 そして1996年7月17日に向こうの世界に赴いたチャス・チャンドラーはジミに再会したとき、どんな風に声をかけたのだろうか。「ヘイ・ジョー」は名前を知らない相手を呼ぶ時に使う呼びかけだが「ヘイ、ジミ」よりふたりの間では「ヘイ・ジョー」のほうがお互い通じ合えそうだ。にやっと笑ってベースとギターの掛け合いが始まればたのしいだろうし…とへんなことを思ってしまう。
fumio


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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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5月15日(金)~5月22日(金)
ヒット数:1,105件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(1)<1>あやかしのまち
第2位(4)<3>水面に書いた物語
第3位(2)<2>ごめんなさい
第4位(5)<5>ときめきFALL IN LOVE
第5位(12)<6>ラスト・ランデヴー
第6位(8)<7>軽々しく愛を口にしないで
第7位(3)<4>オーロラの町から
第8位(7)<9>マイ・スィート・ライフ
第9位(4)<10>女優(スター)
第10位(13)<8>はるかなるメロディ
第11位(9)<11>それってⅨじゃない
第12位(17)<16>わかりあえる日まで
第13位(6)<17>Sentimentallady”M”
第14位(18)<14>素顔のマスカレード
第15位(15)<13>まことのひかり
第16位(19)<15>しあわせになれる
第17位(11)<18>恋すれば魔女
第18位(10)<12>Stay with me
第19位(20)<19>NEVER GIVE UP!

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 「あやかしのまち」の独走が続いている。そんな「妖(あや)かし、怪(あや)かし」のはやる時代なのだろうか。ご愛聴感謝。
fumio








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 その日、スタックスレーベルの誇るセッショングループ「Booker T & the MG's」のオルガニスト、ブッカー・T・ジョーンズは他のバンドのオーティスという名の運転手に「レコード会社のオーディションがあるのでオルガンを弾いてよ」と頼まれた 。顔見知りなので快く引き受けてオルガンの伴奏を弾き始めた。それは「ディーズ・アームズ・オブ・マイン」 というオーティス・レディングのデビュー曲になる歌だった。オーティスが歌い始めると突然世界が変わる。ブッカー・Tは心底感動して伴奏中ただ聴き惚れてしまった。そして"I felt that I was involved something good and something significant "「おれはなにかとんでもない意義深いことに遭遇していると感じたんだ」と振り返る。

 その通りだった。その後オーティス・レディングはサザーンソウルの体現者として登場して聴く者すべての魂を震わせることになるのだ。

 1967年、ヒッピーカルチャーの落とし子フラワー・ムーヴメントの最中にモントレー・ポップ・フェスティバルが開催された。そのとき、プロデューサー、ジェリー・ウェクスラーは、「ジェファーソン・エアプレイン は20フィートの大型マーシャルアンプを使い、グレィトフル・デッド もまた大容量アンプで演奏しているので、わがBooker T & the MG'sの小音量のアンプでもかれらに太刀打ちできるか」と一抹の不安を抱きながらもオーティスをステージに送り込んだ。

しかし、人を動かすのは音量ではなかった。その日6月17日のかれらのパフォーマンス はすごかった。会場に集まった髪を花で飾ったフラワー・チルドレンたちはオーティスの歌が始まるとそのボーカルに圧倒され狂喜して総立ちになり椅子の上に立ったりした。それで暴動を警戒する警官隊が出動して、もし聴衆が客席に着かないとショーをストップすると警告した。ママズアンドパパスのジョン・フィリップスはあわててそれを舞台のオーティスに伝えた。オーティスがパフォーマンス中"This is the love crowd right?If you love me,sit down"「これは愛の群衆だろ?おれを愛してるなら座ってくれ」と言うとみんな座りようやく会場は治まったのである。

 かれは自身の曲「ドック・オブ・ザ・ベイ」が全米1位に輝くのを見ることなくこのフェスティバルの6ヶ月後12月10日飛行機事故によりこの世を去る。不思議なことにこの時代に現れた不世出の天才たち、ジミ・ヘドリックス。ジャニス・ジョップリン、ジム・モリソン、オーティス・レディングらはわずか数年の寿命のフィラメントのようにその期間だけ激しくきらめき光芒を放つとあっという間に燃え尽きて向こうの世界に消えてしまうのであった。 かれらの数年は普通人の数十年分にあたるのだろうか。
fumio

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 1967年1月、大物プロデュサー、ジェリー・ウェクスラーがアレサ・フランクリンという名の原石をコットン畑の真中のスタジオに運んで来る。フェィム・スタジオ(FAME STUDIO)のオーナー、リック・ホールはABCラジオで説教をするかの女の父L・C・フランクリン牧師の名は知っていても娘アレサについてはなにも知らなかった。それでも多くのミュージシャンが集められベースだけでも3人待機していた。セッションが始まり次から次へ指示を出すプロデュサー、ウェクスラーの真剣さにスタジオは緊張しそのレコーディングの重要性がみんなに伝わった。そんなピリピリした雰囲気のの中、ホーン奏者のひとりとアレサの夫テッド・ホワイトが喧嘩を始めた。なんとセッションはそれで取りやめになってしまったのだ。
-------------セッション編成---------
Aretha Franklin - Piano, Vocals
King Curtis - Tenor saxophone
Carolyn Franklin - Background Vocals
Willie Bridges - Baritone saxophone
Charles Chalmers - Tenor saxophone
Gene Chrisman - Drums
Tommy Cogbill - Bass
Tom Dowd - Engineer
Jimmy Johnson - Guitar
Melvin Lastie - Trumpet, Cornet
Chips Moman - Guitar
Dewey Oldham - Keyboards
Jerry Wexler - Producer
--------------------

 ニューヨークに帰ったウェクスラーはキーボードのスピナー・オールダムがエレクトリックピアノで試行錯誤の末にたどり着いた印象的なリズムパターンを使用したI never Loved A Manをシングルカットして片面だけのテスト盤(アセテート盤)を作って配るとラジオのDJたちの評判がすこぶる良かった。それで発売を決定したがB面として録り残していたDo Right Woman, Do Right Man をボーカルのアレサとバックボーカルに妹キャロラインだけを喚んで録音して発売した。

 この年、アレサの曲は爆発的ヒットを記録し、キャッシュボックス誌の67年度売り上げ、シングル1位、アルバム1位、R&B1位と3部門で首位を獲得して表彰される。
突然のソウルの女王の誕生だった。

 そしてデトロイト市長はアレサの功績を讃え、2月16日を「アレサ・フランクリンの日」とすると宣言した。そのとき、アレサは列席したマーチン・ルーサー・キング牧師から祝福のキスを受ける。人里離れたコットン畑に向かった頃には思いもしなかった成功であった。

 原石は一年で削られ磨かれ内なるソウルの光を放ち世界を照らしたのだ。その光は遠く離れた島国に住むわたしたちまで届きソウル音楽のとりこにする。わたしは日本で発売されていないアレサのアルバムを輸入レコード店で買いあさりそのボーカルのすごさにひたったものである。
fumio


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テネシー州メンフィスの南東200キロ、マッスルショールズという町のコットン畑の真中にカントリーミュージシャン、リック・ホールがフェィム・スタジオ(FAME STUDIO)を作った。まだ南部では人種差別が激しい時代、白人であるリックは周囲の非難におかまいなく黒人歌手、パーシー・スレッジ(Percy Sledge)のレコーディングをした。その曲 When a Man Loves A Woman は全米1位に輝きフェィム・スタジオの名は全米に轟く。

 ある日、飛行場に降り立ったウィルソン・ピケットは迎えにきたリックが、「すごいファンキィなレコードを作ろうぜ」というのを聞いて「この大男は何者なんだ。白人のくせにソウルがわかるのか」と不審に思い、まわりの畑でのコットンつみ取り作業を横目に見ながらスタジオに入る。その時のセッションで「マスタング・サリー」 「ファキー・ブロード・ウェィ」 「ダンス天国」 などソウルの歴史に残る名曲が録音され発売された。それは白人と黒人の共同作業だった。白人ミュージシャンのバックでもソウルミュージックが生まれることに人々は考え方を変えざるをえなくなってしまう。以来、フェィム・スタジオはソウル・ミュージックのメッカのようにもてはやされることになり田舎町「マッスルショールズ」の名もソウルファンには聖地のように記憶される。見えないところで時代は確実に変わっていたのである。
fumio


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 ソウルミュージックがモータウンサウンド一色に塗りつぶされるかにみえた1966年3月Hold on I'm coming 「待ってくれ、おれが行く」という声がテネシー州メンフィスから聞こえた。その曲はモンスターヒットになり1966年のビルボードR&B部門年間1位に輝いた。スタックスレーベルの新人作曲チームの Isaac Hayesが トイレのDavid Porterを呼んだ時、 Porterが"Hold on, man, I'm comin'",と応えたことで10分でこの曲が出来たという。このとき、ポーターがトイレを終えていて"OK, man, Here,we go"「オーケー、さあ、やろうぜ」とでも言っていれば曲名はそうなっていたかも…。

 モータウンがデトロイトの自動車生産ラインのように音楽を生産するのに対して スタックスは中小企業の手作りの味があってソウルの色が濃かった。スタックスレコードのバックミュージシャンはgreen onions のヒットで知られる白人黒人混成バンド「Booker T & the MG's」が務めた。サム・アンド・ディヴ、オーティス・レディング、ウィルソン・ピケットなどのバックで聞けるソウルフルな伴奏はかれらである。「待ってくれ、おれが行く」と言った通りかれらの歌はその後、次々にヒットシーンに登場してくることになった。こうしてブラックミュージック・シーンはタムラ・モータウン系都会派とヴォルト・スタックス系地元地域密着派の二大主流レーベルが競い合う時代に入ったのであった。
fumio

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 1964年、マリアンヌ・フェィスフルというオーストリアの名門貴族ハブスブルグ家の血を引くかわいい小鳥 がショービジネスの世界に舞い降りた。その曲はビートグループNashville Teens も競作していてサラサーテのバイオリン曲「ツィゴイネルワイゼンZigeunerweisen」 の「ソ、ド、レ、♭ミ」で始まる哀愁をおびた印象的な旋律をポップスにうまく仕立てているようであった。

 マリアンヌ・フェィスフルはローリング・ストーンズの 涙あふれて でデビューしてその愛らしい容姿と歌声でアイドル的存在になった。この映像でかの女を紹介しているのはなんとビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタイン(BRIAN EPSTEIN)である。かれはビートルズを世界的グループにしたと思うと先を急ぐように1967年8月27日にアスピリンの過剰摂取で不可解な死を遂げる。

 マリアンヌはミック・ジャガーの恋人として有名になるがドラッグと酒で身を持ち崩した頃、全裸で倒れているところを警察に見つかったと、マーズ・バー事件(Mars Bar incident)と呼ばれるゴシップを新聞に書き立てられる。のちにあれはでっち上げだったと回想しているが生い立ちや容姿、生活がロンドン市民達の注目を浴びるにふさわしかったらしい。現代のブリットニー・ピアーズのようである。非難中傷にめげず生き抜きソニーとシェールのI Got You Babe をディヴィッド・ボウイーとカバーした時は酒のためか声質がかなり変わっていた。

 女優としても才能が認められ、アラン・ドロン主演の1968年公開の映画『あの胸にもういちど』 ではヒロイン、レベッカを演じた。このヒロインが『ルパン三世』のマドンナ「峰不二子」のモデルとされている。

 そして時は過ぎゆき1990年、ベルリンで公演されたロジャー・ウォータースのロックオペラ『ザ・ウォール』 では主人公の過保護母 を演じた。そんな年代になっていたのだ。

 あのわたしたちの青春時代のアイドル「かわいい小鳥」は成長して「不二子」になり母鳥になったが曲の最後の詞「Is when that little bird die?」は自問だったのだろうか、とふと思う。いつまでもいつまでも飛び続けてほしい。
fumio


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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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5月8日(金)~5月15日(金)
ヒット数:1,397件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(1)<1>あやかしのまち
第2位(2)<3>ごめんなさい
第3位(4)<15>オーロラの町から
第4位(3)<2>水面に書いた物語
第5位(5)<8>ときめきFALL IN LOVE
第6位(17)<12>Sentimentallady”M”
第7位(9)<13>マイ・スィート・ライフ
第8位(7)<4>軽々しく愛を口にしないで
第9位(11)<10>それってⅨじゃない
第10位(12)<11>Stay with me
第11位(18)<19>恋すれば魔女
第12位(6)<7>ラスト・ランデヴー
第13位(8)<5>はるかなるメロディ
第14位(10)<6>女優(スター)
第15位(13)<14>まことのひかり
第16位(-)<->プロセス
第17位(16)<18>わかりあえる日まで
第18位(14)<9>素顔のマスカレード
第19位(15)<16>しあわせになれる
第20位(19)<17>NEVER GIVE UP!

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 今週はアルバム「水面に書いた物語 」とは関係のないCD「プロセス」の一曲プロセス が16位に入ったのに驚いた。プログレファンのアクセスだろうか。ご愛聴感謝。
fumio







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