monologue
夜明けに向けて
 



カリフォルニアサンシャインその37
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まず、アルバムの曲のリズムトラックとして宮下の自宅スタジオ「カールトンウエイスタジオ」のティアック8トラック・レコーダーにリズムギターとベースを録音した。
このティアック8トラック・レコーダーはファー・イーストファミリー・バンドを脱退した高橋正明(喜多郎)も購入してシンセサイザーの多重録音によってNHKの「シルク・ロード」 を盛り上げた名機種である。ビートルズの時代にやっと4トラックレコーダーができて多重録音が始まり、この頃の自宅スタジオは8トラックが主流になっていたのだ。
その後、勝新太郎が宮下の自宅スタジオに居候した時、映画「座頭市」の音楽としてこのティアック8トラック・レコーダーに三味線を弾いてレコーディングした。杵屋の跡取りとして修業していたので弾けたらしい。コードはE一発だった。わたしは宮下に請われてその三味線に合わせてベースをレコーディングしたが満足できる演奏ができなくて残念だった。三味線のバックはむづかしい。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその36

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「そろそろ、ふたりで仕事を始めて二年になるから記念にアルバムを作りましょうか」
と中島茂男が提案した。それから毎日の仕事中、曲の構想を練り演奏しながらコード進行や互いのフレイズを練りあげていった。宇宙創生から現代までを語る歌詞は規則通りの教科書英語より生きた表現につとめた。
この時期に渡米していた山本コータローがわたしたちが曲を試行錯誤して練り上げている途中に店にやってきて酒を飲みながらジッと聞いていた。そして日本に帰ると「アメリカあげます」という本を書いて中島に送って来た。まだ仕上がっていない曲の作成中の中途半端なところを聴いて結論を出したらしく、中島が落ちぶれてまともに音楽にとりくめていないように思って中島を名指しでがんばれ、と励ましていた。ちゃんと完成してから聴いて批判してほしかった、と思う。

やがて数曲、形ができてくると宮下富実夫にプロデュースを頼むことにしたのであった。
友達関係仲間内の「なあ、なあ、」に陥らないためにプロデュース料を1ドル360円の時代に1000ドルに設定してアドヴァンスに500ドル、完成後に500ドル支払った。それでプロデューサーとしての宮下富実夫は真剣に仕事としてわたしたちのアルバムのプロデュースに全力で取り組んだのである。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその35
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海外にいる日本人たちは武器をもっていないかといえば、
わたしがベースとボーカルを頼まれてやっていたバンド「ケンちゃん」のリーダー谷岡ユキオは拳銃を3丁身に着けていた。脇に1丁、腰に1丁、脚に1丁。それぞれ用途の違うものをわたしに見せびらかして自慢していた。かれはラテンギター奏者でワンボックスカーに仕事用のボーカルアンプ、ラテンギター、譜面立て、などなどをいつも積んでいたのだがある時、アパートの地下駐車場でメキシカンたちが車のドアを開いて盗もうとするのを目撃した。それで車が揺れるとアパートの部屋で寝ていても警報が鳴る仕組みの防犯ブザー装置を装着しておいて待ったのだ。何日かして夜の仕事を終えて就寝中、枕もとのブザーが鳴った。きっと何者かがワンボックスカーをこじ開けようとしているのだ。ピストルをつかんで階段を駆け下りた。メキシカンのワルどもが車に集まって開けようとしていた。ユキオが走ってくるのに気づいて逃げようとした。ユキオは何発もぶっ放した。普段から射撃練習場で拳銃の扱い方は稽古していたのだが残念ながらというか幸いというか、当たらなかった。脅しにはなったらしく以来、メキシカンのワルたちは近寄らなくなったという。当たっていたらどうなったのだろう、と思う。
fumio

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