monologue
夜明けに向けて
 



なんの利もないのに大変な思いをして海を渡って海外ライブ公演ツアーなどをして一体何になるのかと問われると、答えはすぐには見つからないけれどもそれぞれに違う出自のメンバーがそれぞれに違う経過を辿り同じ時期に同じ場所に集まり、出会い、研鑽努力稽古してその時代を代表するひとつのプロジェクトバンドとして活動することになっていたのだ。その時代に宮下フミオの魅惑のパフォーマンスに実際に接して魅了されて日々の暮らしを離れ、別次元に誘われて夢見心地の恍惚状態を経験した人々は幸せだった。残念ながらレコードやビデオは生きたライブではなく記録なのでその片鱗しか伝わってこない。
fumio


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海外ライブ公演ツアーとは一体何なのか。それは金儲けではないので演奏するスペースと時間を提供してもらえればどこへでも行ってベストパフォーマンスを繰り広げ、金銭は要求しなかった。経済的に大成功したあのジャパンフェステイバルでさえも出演料はなかった。どうして日本人が海外にまで出て行ってただで演奏しなければいけないのかと普通は考える。それでも実際にわれわれはそんなツアーをしていた。生活のためにはクラブで弾き語りやバンド演奏をしていた。わたしはクラブではピアノとラテンギターとジャズギターで構成したバンドでベースを弾きながら英語のロックやポップス、フォーク、ソウルあるいはスタンダードなどなんでもかんでも歌い日本語の歌も歌っていた。それで宮下フミオが率いるプロジェクトバンドでは無報酬でツアーができたのだった。世の中には損得勘定ばかりで生きている人たちばかりではなく宮下フミオのようなアンダーカバーエンジェルがいるのだ。
fumio

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われわれの海外ライブ公演ツアーがどのようなものであったのかといえば、宮下フミオは美しい直毛の長髪で見かけは由比正雪のようだった。8chトラックミキシングコンソールを2台組み合わせて多くの人々がまだ見たことのない不可思議な最先端楽器シンセサイザーを操りまるで現代の天草四郎のようなジェンダーを超えた容姿で空手の形を取り入れたパフォーマンスを繰り広げて歌い、ずらり並べた中国ゴングやドラムその他の打楽器類の間を踊りながら演奏した。そこにはデイビッドボウイーと通ずる妖艶でアーテイステックななにかがあった。そのステージを見ている観客を忘我の陶酔状態にした。それはプログレッシヴロックと呼ばれるロックの進化系「バサラ音楽」だった。芝居や演劇のような総合舞台芸術に近くて、ただの一般音楽としては評価できるものではなかった。
fumio

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わたしは京都の新京極にできたライブミュージック軽食喫茶に出演していた頃、ミッキーカーテイスのバンドが世界でツアーしているという海外ニュースに触れて海外でのライブに憧れていたのだがわたしが渡米した頃、ロサンジェルスにファーイーストファミリーバンドのリーダー、宮下フミオがヨーロッパツアーを終えて住んでいた。ミッキー・カーテイスは違うバンドでロサンジェルスに来ていた。それで宮下フミオにライブバンド演奏のオファーが入るとミッキー・カーテイスのバンドからキーボードの島健を呼び、わたしがベース、相棒の中島シゲオがエレキギターを弾くバンド編成で各地のカントリークラブや大学、宗教施設などでライブ演奏した。
そして、その頃鳴り物入りで大々的に日本を宣伝する一大プロジェクト「ジャパンフェステイバル」がロサンジェルスコンベンションセンターで開催された時、日本のバンドの代表として出演したのだった。
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わたしは1986年に帰国してすぐ米国カリフォルニアで制作したカセットアルバム「カリフォルニアサンシャイン」を主要新聞各社に送った。すると読売新聞が芸能欄でロックミュージックアルバムとして取り上げてくれたので全国の多くのロック音楽ファンから注文が入った。近畿放送と改称したKBS京都テレビからはライブ出演オファーがあった。ケーゾーをKBSまでの道の途中で拾って車の助手席に乗せてスタジオに入った。インタビューのあと「カリフォルニアサンシャイン」アルバム中からリクエストされた「戦士(さむらい)たちは今」をカラオケで歌った。ケーゾーはミュージシャン仲間にその番組の宣伝をしていたので出演後多くのコメントが寄せられたのだった。
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理論  


大ヒットアニメ「けいおん!」に出てきてファンの聖地になった楽器店、京都三条通りの「十字屋」にわたしは一時期入り浸っていた。店員とは友達関係で地下まで降りるとだれもいないので一緒にギターや歌の練習をした。プロを目指すミュージシャンの必読理論書といわれる「MODERN JAZZ SCHOOL」上下をケーゾーと一緒に買ったものだった。
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ベ-スプレーヤー川井鶏造はその年のジャズフェステバルに相棒のドラマーとアメリカにやってきた。わたしは日本の時と同じように餃子を焼いて一緒に食べた。最先端音楽を聴きながらケーゾーと食べる餃子はいつも格別にうまかった。
ケーゾーは土産に発売されたばかりで噂になっていたヤマハの最新ミュージックコンピューターを持ってきてくれた。それはまだ米国では手に入らなかったのでうれしかった。それでわたしは音楽作りにコンピューターを使用するようになったのだ。毎日新聞が募集してシンガポールで開かれた「第1回アジア太平洋わたぼうし音楽祭」の応募曲「わかりあえる日まで」もそのヤマハコンピューターで制作したものだった。わたしがそのコンテストに優勝して日本代表としてシンガポールの国立カランシアターに出演できたのは桃高ケイオンメンバー鶏造(ケーゾー)の力が大きかったと感謝している。高校のケイオンでも一生を通しての友となれるのだ。
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わたしはその頃ミッキーカーテイスのバンドが世界でツアーしているという海外ニュースを見て海外でのライブに憧れていた。それでロックやリズム&ブルースの本場アメリカでトライすることを決めた。その前の一時期、毎日午後になると宇治から自転車で伏見桃山の音楽喫茶「ジョイ&マリ」まで走り、そこでひとしきり音楽仲間と交流したりして午後6時を過ぎると桃山の坂を桃山城へ登っていった。そこにある桃山高校の定時制の先生は生徒の顔を全部覚えているわけではなかったので一般社会人のわたしもクラブが始まるまでその日の最後の授業に参加して待った。授業が終わると急いで机やイスを片付けて軽音の部室からボーカルアンプやドラムセットを運んできた。それからクラブメンバーたちが集まってきてきっちり1時間練習した。窓から夕闇の桃山城が覗いて信長が覗いているようだった。ローリングストーンズなどのコピーバンドとJポップバンドと女性フォークグループがあった。わたしはブルーマウンテンブルースバンドというバンドで練習して女性フォークデユオは「打ち上げ花火」というわたしの歌を歌いたいといって練習していた。高校の軽音としては盛んだった。わたしはアメリカに渡ってロックミュージシャンになりベースの川井鶏三はナベプロに入ってジャズミュージシャンとなってロサンジェルスのわたしの家に遊びにきたりした。
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my way  


音楽喫茶「ジョイ&マリ」では自分が好きなレコードやテープを持ってゆくとオーナーのジョイさんがかけてくれた。その頃、フランク・シナトラの「マイウエイ」が流行っていてわたしも練習した。するとある客がブルック・ベントン版をかけてわたしの声にはこの方が合っているからこっちのコピーをするべきだという。それでジョイさんにも聴いてもらって居合わせた顔なじみみんなの意見を求めた。結局多数意見でわたしはブルック・ベントン版を持ち歌とすることになった。それで渡米してミュージシャンとして生活を始める時、クラブでのオーデイションでブルック・ベントン版「マイウエイ」を歌った。アメリカでは「マイウエイ」は根強い人気があってわたしはバンドでも弾き語りでも一日一回は歌うことになった。
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ジョイ&マリという音楽喫茶があった。桃山城への登り口に位置して京都のブルースやロック系若者たちのたまり場になっていた。店で流れる曲はアレサ・フランクリンやオーテス・レデイング、シカゴなど当時の先進的ミュージシャンがコピーして習熟すべきナンバーばかりだった。おかげでわたしたちは海外のアーチストの香りに触れて練習することができた。
その店にはだれかがギターを持ってきていてオーナーが文句を言わないので顔を合わせればセッションが始まった。そして数か月に一回ライブ大会を行った。同志社や竜谷、立命館など違う大学の軽音の部員が一緒にリズム&ブルースなどを演奏したのだった。
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命日  



本日は妻の父君、成本東進氏の命日。1986年に67歳で亡くなったので35年経過した。合掌…
fumio

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