monologue
夜明けに向けて
 



 わたしたちの住んでいた家の日本人大家さん、エディ・辻本氏がその前年に老齢で亡くなりわたしはその柩を霊柩車に運び込み、仏式の葬式に出席した。それでこの十年間にアメリカで経験すべきことほとんどを済ませたようだった。そしてわたしたちは発展のために一旦日本に帰って再出発をすることを決めてあれこれ帰国の用意を始めていた。

 そんなある日、息子が「カラテキッド2」のオーデションの時に所属した事務所から電話がかかってきた。今度、エディー・マーフィー主演で『ゴールデン・チャイルド』 という映画を撮ることになって、そのゴールデン・チャイルド 役の子のスタント(代役)を息子にやってほしいというのだ。子役は学業などの関係でひとつの役を交代に演じるらしかった。

 チベットの少年僧の役なので頭を剃ってほしいという。たしかに坊主頭にしてしまえばみんな似たように見えるかも知れないと思った。でももうすぐ日本に帰国するつもりだし息子につきあっていると帰国が遅れるし、とちらっと考えた。それで息子に訊いてみた「頭を剃って映画に出る?」と。しかし息子は頭を剃るということがどういうことかピンとこないようなので「マルコメ味噌の宣伝の子供みたいな頭にして映画に出るかい?」と言い直した。するといやがった。こんな子供でもやっぱり坊主頭はいやなのかとちょっと感心しながら「息子はノー、といっています」とわたしはエージェントに伝えた。

 するとエージェントはあわてて、出演料は3000ドルですよ、と言い出した。その頃の3000ドルはかなり価値があった。しかしわたしは息子の意志を尊重してあらためて断った。何度も翻意を促そうとエージェントは3000ドルを繰り返していたが、わたしはこれでもう映画の撮影の関係で帰国予定が狂うことはない。あの撮影所に長時間縛られずにすむ、となんだかほっとしていた。
fumio

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 そのころのアメリカは子供の誘拐が流行っていて物騒だった。ミルクのパッケージに「ミッシング・チルドレン」として行方不明の子供たちの写真が印刷されていつも市民の情報を求めていた。それで親たちは自衛のためにキンダーガートゥンや小学校に子供を送り迎えしていた。わたしたちも息子の幼稚園小学校時代、送り迎えしていた。空手道場は小学校二年の子供が歩いて通うにはガラが悪い地区なのでその道場にも車で送っていった。映画「カラテキッド」の影響で道場は盛況だった。地区のせいかラテン系の生徒が多かった。そしてつぎにコリアン系が多く、黒人の生徒はひとりだった。わたしはいつも窓から稽古風景を見学していた。するとだんだんかれらの勢力図が見えてきた。先生のいうことをなかなかきかないラテン系のリーダーがいてみんなをしきっていた。どこにでも悪ガキはいる。

 ある日、そのラテン系の生徒に練習をまかせて先生が休んだことがあった。わたしがいつものように息子を連れて行くとかれはみんなで遊び始めた。空手ではなくレスリングのようにつかみ合いして投げ合うのだ。わたしを子供の送迎をする甘いただの「親ばか」とみなしてべつに目の前で遊ぼうが平気だったらしい。

  先生のいないのをいいことにわたしはその日初めてその道場に上がり、道着を貸してもらった。十数年ぶりに帯を締めてみんなにかかってこさせた。本気でつぎからつぎにつかみかかってくる生徒たちを全部柔道でひょいひょいと投げると、かれらはどうして歯が立たないのか不思議がっていた。わたしは中学高校と6年間柔道をやっただけだが日本でなんらかの武道の修業をした人にとってそんなことは不思議ではない。海外にいる日本人をみかけで判断するとえらい目にあう。かれらはサムライの魂をもって海外で活躍しているのだから。
fumio


 

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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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7月21日(金)~7月28日(金)
ヒット数:1,062件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 


第1位(2)<2>ごめんなさい
第2位(1)<1>水面に書いた物語
第3位(7)<7>女優(スター)
第4位(3)<4>あやかしのまち
第5位(8)<10>ラスト・ランデヴー
第6位(12)<3>ときめきFALL IN LOVE
第7位(5)<8>軽々しく愛を口にしないで
第8位(4)<6>マイ・スィート・ライフ
第9位(13)<20>まことのひかり
第10位(6)<5>はるかなるメロディ
第11位(11)<9>オーロラの町から
第12位(19)<19>プロセス 
第13位(18)<13>Sentimentallady”M”
第14位(10)<16>素顔のマスカレード
第15位(14)<12>それってⅨじゃない
第16位(16)<11>Stay with me
第17位(17)<14>恋すれば魔女
第18位(9)<15>しあわせになれる
第19位(20)<17>わかりあえる日まで
第20位(15)<24>NEVER GIVE UP!
第21位(21)<->カリフォルニア・サンシャイン

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 今週はまた「ごめんなさい」がトップに返り咲いた。
ブログの本文に呼応して「カリフォルニア・サンシャイン」が
まだ21位に貼りついている。ご愛聴感謝。
fumio













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1984年に製作された「カラテキッド(The Karate Kid)」邦題「 ベスト・キッド」という映画が世界的にヒットしたことがある。息子は空手が習いたい、と言いだし、映画で実際に指導していたのは寸止めではない出村先生の流派だったけれど近くのピコ通りにあった沖縄小林流空手道場に入門した。試合を見に行くと出村先生の流派のほうが優勢だった。

 するとしばらくして前作のヒットを受けて続編「The Moment of Truth Part II(The Karate Kid, Part II)」邦題「ベスト・キッド2」が製作されるという噂が流れその作品に出演する本物のカラテキッドたちのオーデションがあるということだった。未成年なのでオーデションを受けるにはまず写真を持っていってどこかの芸能事務所に所属しなければならなかった。学校の成績がオールB以上という制限もあった。息子を連れていったオーデション会場には市内の多くの道場から少年たちが集まった。べつに空手を披露して見せるわけではなく、見かけで選び息子の通う道場で通ったのは息子だけだった。撮影の日に行くと午前中は撮影所の一角に別に設けられた部屋で補修授業を受けさせられた。そうしてハリウッドの映画界は学校に出られない子供達の学業が遅れないようにサポートしていたのである。やっと出番が来ると助監督が指揮して沖縄に似せたセットの坂道を歩かせた。ついていったわたしたち夫婦もその他大勢のエキストラとしてセットをうろうろと歩いた。空手道場の場面はなく一日中祭りのような雰囲気の中で歩いただけだった。撮影が終わると主役のダニエル ・ラルフ・マッチオが「おまえたち空手がんばれよ」と子供達に声をかけて車に乗り込んで帰っていった。子供が出演する映画は親も付ききりで大変なことがよくわかった。
fumio

 


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 それはまだ米国で一般にカラオケブームの始まる前だった。そのころ、クラブでの仕事ではシングル曲「カリフォルニア・サンシャイン」を憶えて歌う客がいてわたしがバックコーラスとリードギターを弾くものだからその時はいつも大盛り上がりになった。そしてわたしは製作中の自分の曲の歌とリードギターを抜いたカラオケ部分のテープをかけて歌いリードギターを弾いた。クラブの個人のエンターティナーというより音だけはバンドのライヴのようだった。わたしはもう一般の弾き語りのイメージからはずいぶんかけ離れてしまっていた。

アルバム「カリフォルニア・サンシャイン」の製作はSFのアルバム「プロセス」の製作で得たノウハウのおかげでこれといったトラブルもなく順調に進んだ。そしてごく当たり前のようにカセットテープ の形態でリリースした。

 ある日、中島茂男に会ってそのカセットテープを渡すと「フミオは日本で成功しているよ。アリオンとかいう神話のアニメの仕事が成功のきっかけだったらしい」と宮下富実夫の噂をした。わたしはかれが成功して、うれしいようなうらやましいようなあいまいな気持でそれを聞いていた。

 もう渡米してそろそろ十年になる。初めに望んだようにアメリカで歌を歌って生活はできているけれどこうしていくらアルバムやシングルを作っても今はこの国ではその先の発展が見込めない。しばらく日本に帰って発展のためのプロモーションをして活動の基礎を作ってまた米国で本格的に音楽活動をしようかと考えた。宮下や島健もまた、そう考えて一足先に帰国したような気がした。十年もの間歌を歌って過ごしてわたしの「カリフォルニア・サンシャイン」は気付かぬうちに中天を過ぎていたのである。
fumio

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 人はその人生で自分の生活する地域で何度ぐらいイベントを経験するのだろう。わたしの場合は渡米する前に働いていた会社の隣の茨木市で大阪万国博が開催されたのでよく見に行った。岡本太郎が製作した「太陽の塔」の不思議な形と、とにかくジェットコースターが強烈で振り落とされそうでこわかった印象が今も心に残っている。後年米国で乗ったマジックマウンテン、ナッツベリー・ファーム、ディズニーランドのローラーコースターは万博会場のものよりずっと穏やかだった。

 渡米してからはアルバム「カリフォルニア・サンシャイン」の製作中にロサンジェルスオリンピックがあった。印象に残ったのは最終日のマラソンと大会の最後を飾る花火大会だった、日本から花火職人が招かれて打ち上げているという。一番見やすいスタジアム近くの一角に多くの市民が集まって歓声をあげた。それは幼い頃の嵐山の花火大会の記憶に重なりアルバムの一曲 「打ち上げ花火」に結晶した。このヴィデオはうつろいゆく記憶の断片のゆらぎを表現して映像も音もゆらいでいる。

 「万国博」、そしてロサンジェルスコンヴェンションセンターでの「ジャパン・フェスティバル」と「オリンピック」、「将棋のタイトル戦」と、わたしの身の回りで起こったどのイベントもわたしに日本人としての自分のアイデンティティーを確認させるようなイベントだったのである。
fumio



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将棋に棋聖戦というタイトル戦がある。以前は年に2回行われ、その第46期棋聖戦五番勝負が1985年の前期として将棋公式戦海外タイトル戦の触れ込みでロサンジェルスで開催された。それは米長邦雄棋聖に 勝浦修八段が挑戦する五番勝負の一局だった。

 わたしは前年に現地の将棋クラブの会長をしていた関係で普及にまわるプロ棋士の通訳など様々な面で協力した。そして前夜祭では当時レコーディング中の「LAレィンボウ」 のカセットテープを米長棋聖に渡したり、大挙してやってきた日本のアマチュア将棋ファン全員にカリフォルニアみやげとしてシングルレコード「カリフォルニア・サンシャイン」を配ったりした。
 
 対局場は「ロス疑惑」と呼ばれる三浦事件で有名になった「ホテル・ニュー・オオタニ」だった。わたしはその階下の紀伊国屋書店でいつも日本書籍を購買していたのでなじみの場所だった。その近くでまだ元気だった大山康晴十五世名人のせかせかした歩き姿を目にできてうれしかた。プロのタイトル戦の真剣な対局姿を数分間ずつ順番に見せてもらって局面をプロも交えてみんなで研究するのが実に楽しかった。米長邦雄棋聖が負けて取材にきた現地の新聞社の記者に敗因などを英語で説明するのだがプロの将棋はむづかしくてわたし自身がよくわからないので困ったものだ。
fumio

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そのころ、島健は多重録音機フォステクス(FOSTEX)社の1/4インチ8トラックレコーダーを購入して多重録音を始めていた。
わたしの家にやってきて、日本から入った仕事に使うのでMXRドラムコンピューターを貸してほしいという。

 わたしはオーソドックスなドラムセットの音色のタイプと変則的なタイプの音色のチップを挿し替えてかれに選んでもらった。ドラムを叩くかっこうをしてあれこれ迷った結果、結局オーソドックスなドラムセットチップのセッティングにしてもって帰った。何日かしてドラムコンピューターを返しに来たとき、できあがった作品を聴くと良い仕上がりで生ドラムのように聴こえるといって自画自賛風に喜んでいた。きっとその作品は日本で採用されてかれの現在の名プロデユーサーとしてのキャリアの始まりになったのだろう。その後しばらくしてかれは日本に帰国して本格的に音楽の仕事を始めたのである。

 そしてある日、かれが島田歌穂さんと結婚したという報道に接した時はびっくりした。かれからの賀状にいつも添えてある歌穂さんの漫画はほのぼのとしていてほほえましい。
fumio

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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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7月4日(金)~7月21日(金)
ヒット数: 1,156件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(1)<1>水面に書いた物語
第2位(2)<2>ごめんなさい
第3位(4)<3>あやかしのまち
第4位(6)<8>マイ・スィート・ライフ
第5位(8)<5>軽々しく愛を口にしないで
第6位(5)<6>はるかなるメロディ
第7位(7)<4>女優(スター)
第8位(10)<7>ラスト・ランデヴー
第9位(15)<17>しあわせになれる
第10位(16)<11>素顔のマスカレード
第11位(9)<14>オーロラの町から
第12位(3)<9>ときめきFALL IN LOVE
第13位(20)<20>まことのひかり
第14位(12)<12>それってⅨじゃない
第15位(24)<21>NEVER GIVE UP!
第16位(11)<13>Stay with me
第17位(14)<16>恋すれば魔女
第18位(13)<18>Sentimentallady”M”
第19位(19)<19>プロセス 
第20位(17)<10>わかりあえる日まで
第21位(-)<->カリフォルニア・サンシャイン
第22位(21)<->竜騎兵

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 今週もブログの本文に呼応して「カリフォルニア・サンシャイン」が21位に登場してきた。ご愛聴感謝。
fumio













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 それからわたしは自然にアルバム「カリフォルニア・サンシャイン」の製作に入ってゆくのだがその頃、音楽以外になにをしていたかをここで述べておくと、趣味は将棋でロサンジェルスの将棋クラブの回り持ちの会長をしていた。そして ひのもと文庫 という日本書籍図書館の読書会のリーダーを務めていた。べつにやることは海外にいてもどこにいてもあまり変わらない。感覚的には銀河系、太陽圏、地球、日本国、アメリカ県、ロサンジェルス市で生活しているようなものである。イリノイ州シカゴから始まる国道ルート66は2000マイル以上を走りサンタモニカの埠頭で終わるが巨人になってそのまま進めば日本の太平洋岸に上陸する。ルート66の隠れた目的地は日本なのだ。そうそのコードナンバーは666。そして「カリフォルニア・サンシャイン」とは日本から見れば昇る朝日のことなのである。同じ太陽を人は自身の位置によって夕日と見て涙を流したり旭と見て希望に燃えたりそれぞれに意味を見いだそうとするのである。
fumio

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 シングルレコード「カリフォルニア・サンシャイン」ができあがると山崎豊子の「二つの祖国」のモデルになった、二大日本語新聞「加州毎日」社と「羅府新報」社に持っていって紹介記事を載せてもらった。二紙とも日頃ほとんど芸能記事は載らないので紙面がすこし華やいだ。

 そのころ、日系人のオピニオンリーダー上手亦男(うわてまたお)氏が日曜日の朝9時から10時までやっていた「ラジオ小東京」という番組があった。かれの事務所兼ラジオスタジオに「カリフォルニア・サンシャイン」を持っていって聴いてもらった。かれは歌詞がいいと気に入ってくれた。それでそれからよく妻とその番組にリクエストしてかけてもらった。その番組は日系人、日本人の間で高聴取率だったのでフリーウエイ上で聴いたという人が多かった。

 あのとき世話になった上手亦男氏はどうしているかとウエブを検索すると2004年3月に82歳で亡くなっていた。合掌。
fumio




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レーベル名をつけるとき、わたしたち夫婦の「FUMIO & RITSUKO YAMASHITA」の頭文字をとって「FRY」レコードにしたのだがだれかが「飛びそうな名前だね」と言っていた。でもフライはフライでも揚げるフライの綴りなのでフライパンをロゴマークにしてラベルを作った。

 
 Bill Smith というレコード製作工場に「マスターリング・ラボ」でマスターリングした、A面「カリフォルニア・サンシャイン」、B面「セイ・ツゥ・ミー・マイ・ベイビー」の各原盤(マスター)を持ち込むとまず「SHEFFIELD LAB MATRIX」社で表裏各181ドル5セント、両面計タックス込み345ドル34セントでレコードスタンパーを作ることになった。

 それから宣伝ポスターの不要部分を裁断したジャケット歌詞カードとまん中に貼るレーベル(ラベル)とナイロンレコードカバーを持っていってレコードプレスを頼むと1984年3月9日に片面661ドル5セント、両面でタックス込み1199ドル95セントで日本風シングルレコード1000枚がついに完成した。よく知らない作業もあったけれどそれは作詞作曲、演奏、歌、録音、その他、ほとんど全部手作りのレコードだった。前例がないことをやるのはだれかの真似ができないので失敗だらけでも面白い。もうレコードという形態の媒体の時代は終わって久しいのでこうしてアメリカでのレコード製作の手順と細かい値段などを記しておけば将来だれかの資料として役に立つかもしれない。
fumio

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当時のロサンジェルスにはシングルレコードを作るような日本人ミュージシャンはほかにいなかったので普通レコード会社がやることをすべて自分でしなければならなかった。
アメリカのシングルレコードは無地の紙ジャケットに入っているだけで歌手の写真もなければ歌詞カードもついていない。実にあっさりしたものである。

それではあまりにもあっけらかんとしているので日本のシングルレコード風に透明袋にジャケット写真兼歌詞カードを入れることにした。説明しにくいけれど表には妻に近所で撮ってもらった写真をあしらい、わたしは手書きでレタリングのように文字を描いた。その裏に歌詞を印刷してジャケット写真兼歌詞カードの一石二鳥の宣伝ポスターを作った。宣伝文句の部分を裁断してしまえばシングルレコードジャケットに見えるのだ。

 SFのアルバム「プロセス」の写真は印刷業者の技術的問題で幻想的宇宙写真がただの青ベタになってしまった。何度やってもうまく出なかったという。写真を提供してくれた写真家堀山敏夫氏には悪いことをした。それで今度は別の業者を選び何度も足を運んで打ち合わせした。わたしもすこしずつ学習して進歩していた。人任せにしてほったらかしにしていると危ない。今度の業者はそんなレコードの仕事は初めてなので喜んでいた。担当の初老の婦人が自分は毛筆の字が得意なのでレタリング風文字のところを書いてやろうと何度も迫る。わたしは困ってやんわりと断った。あのとき、毛筆で「カリフォルニア・サンシャイン」と書いてもらっていればずいぶん感じが違っていたことだろう。
fumio

 


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 物音のしない夜中に妻子が寝静まるのを待って自宅で「カリフォルニア・サンシャイン」の多重録音をするのだが幸いベースとギターは弾けるのでそれほど手こずらずにすんだ。一番むづかしかったのはヴォーカルだった。聴き直すと自分自身にOKがだせない。声がつぶれてこれ以上無理と判断すると他の調子のいい日にまわす。自宅だから時間を気にせず納得ゆくまでできた。当時はアナログからデジタルへの過渡期でミックスダウンはソニーのPCM変換器を使用してPCMデジタル録音した。

 やっとマスターテープができあがると シングルレコードのマスターリング(レコードの溝をカットして原盤を作る作業)に当時ロサンジェルスで一番評判の良かった「マスターリング・ラボ」というスタジオに予約を入れようとした。すると「今週一杯は無理です。ピンク・フロイドのディヴィッド・ギルモアが個人アルバムのマスターリングでずっとリザーブしてますから」といわれた。それでしばらく待った。

 1984年2月7日、「マスターリング・ラボ」スタジオではPCM録音のデジタル音源は初めてでロックバンド「カンサス」もそのソニーのPCM変換器を使用した音源をマスターリングしてほしいといっているのでそれ用の器具を注文して手に入ったからその器具を使ってマスターリングするという。そしてわたしの目の前でその器具をマスターリングマシンに接続して作業を始めた。

 ということでシングルレコード「カリフォルニア・サンシャイン」 は「マスターリング・ラボ」スタジオでデジタル音源をマスターリングした最初のレコードということになるのである。
費用は片面76ドルで両面ではタックス込み160ドル36セントだった。
fumio


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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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7月7日(金)~7月14日(金)
ヒット数:900件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(1)<2>水面に書いた物語
第2位(2)<1>ごめんなさい
第3位(9)<12>ときめきFALL IN LOVE
第4位(3)<4>あやかしのまち
第5位(6)<10>はるかなるメロディ
第6位(8)<9>マイ・スィート・ライフ
第7位(4)<6>女優(スター)
第8位(5)<5>軽々しく愛を口にしないで
第9位(14)<11>オーロラの町から
第10位(7)<7>ラスト・ランデヴー
第11位(13)<13>Stay with me
第12位(12)<3>それってⅨじゃない
第13位(18)<17>Sentimentallady”M”

第14位(16)<18>恋すれば魔女
第15位(17)<15>しあわせになれる
第16位(11)<8>素顔のマスカレード
第17位(10)<19>わかりあえる日まで
第18位(15)<->青春
第19位(19)<14>プロセス 
第20位(20)<16>まことのひかり
第21位(-)<->竜騎兵
第22位(-)<->心船
第23位(-)<->わが人生の日々
第24位(21)<20>NEVER GIVE UP!

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 今週もブログの本文に呼応してアルバム「プロセス」から数曲ランク入りしてきた。
ご愛聴感謝。
fumio












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