monologue
夜明けに向けて
 



 その頃、わたしたち一家が日本に帰国してきてからアメリカでは外に出て働いたことのない妻が日本では外に出て宝飾業界で働き実力を発揮し始めていた。そんな折り、わたしが事故にあって退院してきたのである。それで妻に外での仕事をまかせてわたしは家でコンピューターに音楽を打ち込んだりワープロで歌詞や文章を書いたりして、炊事洗濯を担当した。わたしたちの家庭はそんな役割分担になったのである。

 色々音源を揃えたり、コンピューターで音楽を打ち込むことにやっと慣れてきたころ、病院に見舞いにきたMIYUKIに頼まれていた歌を試しに作ってカセットにカラオケと手本にわたしの歌を吹き込んで送った。すると数曲中、「軽々しく愛を口にしないで」 が気に入ってレコーディングしにきた。実にうまかった。テレビに出るアイドル女性歌手たちよりはるかにかけ離れてうまいと思った。数週間後にかの女はあるイベントで「軽々しく愛を口にしないで」を持ち歌として歌って大受けだったと他の人が教えてくれた。それはそうだろうなと思った。それがかの女の持ち歌デビューだったのである。そしてそれはアルバム『水面に書いた物語』 プロジェクトのスタートになったのであった。
fumio


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 画家、ピエール=オーギュスト・ルノワール (Pierre-Auguste Renoir)はリューマチ性疾患のために車椅子で指に筆をくくりつけて描いたという伝説がある。作曲家、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)は27才頃から難聴になり30才のころにはほとんど耳が聞こえなくなって自殺を考えている。かれらはそんな試練を乗り越え傑作を後世に遺している。かれらにはそんな試練などない方がもっと多くの良い作品を生めて人類に寄与できたのではないかと思ってしまう。

 わたしの場合は舞台の稽古で役者として最も大切な身体の自由を制限される頚椎損傷の試練を受けた。役者がダメなら他の能力を活かして生きなければならない。それでリハビリのつもりで最も初期のヤマハのミュージックコンピュータを使って曲を打ち込み始めた。実はわたしは日本に帰国した頃、島健と六本木の「アマンド」 というカフェで会って日本の音楽業界の様子を訊いた。そのとき、かれは最近コンピューターの打ち込みばかりになってしまったと嘆いていた。わたしもコンピューター打ち込み音楽全盛になってはいけないね、と賛同して盛り上がったことがあったのである。皮肉なものでそのわたしも楽器を弾けなくなってはコンピューターに頼らざるを得なくなってしまったのだ。

 ある日『手をかざしてごらん』 という歌を仕上げているとき、六七十代位のご婦人の来訪を受けた。ご主人が亡くなってから地域の民生委員を引き受けて、あたりのお年寄や病気の方の家を訪問しているという。色々話していると、今作っている歌を聴きたいというのでコンビューターをカラオケにして歌ってみせた。歌い終わってご婦人の表情を窺うとなにやらこわい顔をしている。わたしは不安になって声をかけようかと迷った。

 すると突然、、うおわぁぁーん、うわわわぁぁぁー、と吠えるような叫び声があがった。わたしはびっくりして対処に困った。ひとしきり、叫びが終わって落ち着いた婦人は涙を拭きながら少しはにかんで、「わたしは、情の強(こわ)い女で何十年も泣いたことがない。去年、夫が亡くなったときも泣かなんだ」とおっしゃった。そのとき、コンピューター打ち込み音楽であろうとなんであろうとそこにいのちがこもっていれば良いのだとわかったのである。
fumio


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  1989年、1月7日に昭和天皇が崩御して元号も平成に変わって人々がその新しい呼び方にまだ慣れない桜の咲く頃、武蔵村山病院の玄関に真新しい軽自動車が停まった。それがその日退院するわたしを迎えにきた妻が運転する車だった。

 この病院ではずいぶん勉強させてもらった。隣のベッドの老人が痰がノドに詰まって自分でナースコールが押せずに夜が明けると死んでいたり、毎日のように昨日まで挨拶しただれか顔見知りが亡くなる。奥さんに離婚届に判子を捺せと迫られて泣きながら捺す男性や様々な人生を映画のように見せてもらった。ここにいると一般世間の人々の悩みや苦労は根本的なものではなく自分がどれだけ恵まれているかに気付かないで自分はとにかく他より恵まれなければいけない、もっと恵まれたいと思うことから派生してくるものでしかないよう思えた。しかしながら目には見えなくとも本当に世のため人のためを思うゆえの根本的な悩みや苦労を背負って生きている人々もあるのだ。

 作業療法室で革細工「彷徨(さすら)うヴィーナス」と「 風の中の北京家鴨ダック)」を保存したワープロ「書院」のフロッピーディスクをもらって、お世話になった方々に妻と一緒に挨拶をすませて新車の助手席にわたしが乗り込むと妻はカセットテープをかけてくれた。それはボン・ジョヴィのアルバム『Slippery When Wet 邦題ワイルド・イン・ザ・ストリーツ』だった。You Give Love A Bad Name Livin' On A Prayer などの演奏の素晴らしさに圧倒された。ヴォコーダーの使い方のうまさに感心した。

 妻はアメリカでわたしに出会うまで洋楽にそれほど興味がなかった。しかし朝から晩までレコードやラジオで音楽をかけているわたしのそばにいて自然にわかるようになっていった。それで妻はアメリカに在住した70年代後半から80年代の洋楽が今でも一番好きなのである。そんな妻が自分で選択したのがボン・ジョヴィだった。わたしはそれがすごくいいバンドなのでなんだかうれしかった。

 遠い帰り道をわたしは助手席でナビゲート役に徹して地図を見ながら分岐点の標識で方向を確かめた。それまでアメリカでも日本でも妻の運転する車の助手席に乗ることはほとんどなかったので新鮮なようなすこし落ち着かないような気持ちでボン・ジョヴィの演奏をバックミュージックにゆっくりウロウロと長い道のりをわが家に帰っていった。

 前年の秋9月の朝からこの春の夜まで半年以上の長い不在だった。わたしにとってそれは朝から夜までの一日のことのようだったがその間に元号まで変わってしまった。これから未来に向かってリスタートを切らねばならない。わたしたちの新たなステージが始まるのである。
fumio


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 父親の入院は小学4年の息子にとっても大変な試練だった。母親は仕事に出て一日中いないし小学校から帰宅しても家にはだれもいない。作り置きしてある夕食をひとりで食べて眠るだけの毎日。日曜日も母は仕事で帰りは遅く休みというのにポツンとひとりで過ごすだけの寂しい一日だった。
 
 そんなある日、母親が一度子供にとってはものすごく遠い武蔵村山病院まで一緒に行ってバスと電車の乗り継ぎを教えてくれた。そのとき、家から最寄り戸塚停留所バス→東川口JR武蔵野線・府中本町行→ 西国分寺 JR中央線快速・豊田行→ 立川 徒歩 立川北 多摩モノレール・上北台行 →桜街道 徒歩35分 武蔵村山病院までの切符の買い方や何回も乗り換えする道順を一生懸命憶えたのである。それで息子は次の日曜日に決死の思いで武蔵村山病院目指してひとりで出かけた。それは子供にとっては大冒険だった。この時ずいぶん精神的に生長したことだろう。やっとの思いで辿り着いた病院では日曜日でリハビリもないわたしがそんな息子の苦労を察して労(ねぎら)うこともせずみんなとのんびりと将棋を指したりしているだけだった。それでも息子にとっては日頃会えない父に会えたことがうれしかったらしくそれからかれは毎週日曜日になると律儀に病院に見舞いに来るようになった。病院で半日ほど過ごし患者さんたちにトランプやオセロその他で遊んでもらって暗くなると冬の寒さの中を多くの交通機関を乗り継いでひとりぼっちの寂しい家に帰っていった。そんなことをかれはわたしが退院する春まで続けたのであった。かれにとってもその後のために一般社会と隔絶した世界に生きる人々を見て触れておくことが必要だったのだろう。
fumio



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 私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
**********************
9月18日(金)~9月25日(金)
ヒット数:1,351件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(1)<6>あやかしのまち
第2位(2)<2>ごめんなさい
第3位(3)<1>水面に書いた物語
第4位(4)<4>軽々しく愛を口にしないで
第5位(14)<5>ラスト・ランデヴー
第6位(12)<3>女優(スター)
第7位(9)<10>それってⅨじゃない
第8位(5)<13>Sentimentallady”M”
第9位(8)<7>ときめきFALL IN LOVE
第10位(10)<14>オーロラの町から  
第11位(7)<9>はるかなるメロディ
第12位(18)<16>Stay with me
第13位(5)<8>マイ・スィート・ライフ
第14位(19)<15>まことのひかり
第15位(11)<11>恋すれば魔女
第16位(16)<12>素顔のマスカレード
第17位(13)<18>わかりあえる日まで
第18位(17)<19>NEVER GIVE UP!
第19位(16)<17>しあわせになれる
第20位(20)<21>プロセス

*********************
 なんと今週は1位から4位までが先週と順位が同じだった。
すごい安定の仕方で驚く。ご愛聴感謝。
fumio





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 長い冬が終わり武蔵村山にも春が来てわたしの退院が決まると作業療法の女性先生がわたしの作った革細工を残していってほしいという。革細工とは手作業リハビリの一環で革財布を作るのだがわたしは財布をひとつ作ると次は作品と呼べるものを作ろうとした。それがこの「彷徨(さすら)うヴィーナス」だった。一見絵のように見えるけれど実はこれは革細工なのである。
 
 普通、患者の作った物はその患者が退院する時に渡すのが当たり前なのだが不思議なことに先生はこれを見本として部屋に飾っておきたいようだった。わたしは役に立つなら記念にあげてしまおうかと思ったけれどなぜかこの作品にこだわって断った。気持ちよくあげてしまえば良いものを自分でも断ったことがおかしい。

 けれどこの作品は現在わたしのホームページの「炎で書いた物語シリーズ」 に使用している。当時は気付かなかったがこの構図に含まれているイメージ、月、北斗七星、薔薇、アラベスク、ヴィーナス、水瓶はあまりにも内容に即しすぎているようだ。退院が決まった時点ですでに「炎で書いた物語シリーズ」 を書くことも仕組まれていたのだろうか。
fumio


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 12月のクリスマス・シーズンに入ってわたしたちの病棟でもクリスマスパーティが企画された。カラオケ自慢の理学療法リハビリの若い方の先生がカラオケセットを借りだしてきてパーティが始まった。アルコール以外のドリンクで乾杯し日頃の辛さ苦しさを吹き飛ばすように語り笑いあった。みんないつもは見せない和やかな表情で楽しんでいた。自慢するだけあってリハビリの先生の歌は思いの外うまかった。ひとしきりみんなが歌い終わってわたしはここの仲間、特に若い人が悲運にめげずこれからの人生を力強く生き抜いてゆくことを願って乾杯」 を渾身の気持を込めて歌った。歌い終わると同席していた人たちが感動するんだよなあ、と言い、リハビリの先生は眼鏡を取って涙を拭いていた。

 わたしが武蔵村山病院に転院したあと都内から遠くなったので他の劇団員はほとんど見舞いに来なくなったがMIYUKIというヒロイン役の女優はよく見舞いに来てくれた。かの女は各種イベントや歌謡ショーなどの司会を生業(なりわい)にしていた。わたしのカセット「カリフォルニア・サンシャイン」を聴いて「わたしにも歌を作ってほしい」と言いだした。人前で歌う機会は多くても持ち歌がないので困っていたらしい。それでわたしは退院したら作ることを約束した。
fumio



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 わたしがうなづくとかれは「それじゃ、あとで指しましょうか」という。
仲良くNHK杯戦が終わるまで見て昼食後、一局指した。すると自然に車椅子が集まってきて将棋が指せる人は指したり観戦したりしていた。ここにも将棋を指す人々がいることがわかって良かった。すこしはなにかができそうだった。

 病院の消灯は午後9時で起床は午前6時で朝食は7時だった。わたしは寝る前に詰め将棋を作り朝6時に起床すると食堂で将棋盤に昨夜作った詰め将棋を並べておいた。7時になって人々が食堂に集まってくると詰め将棋に気付いてみんなであれこれ考えだした。食事もろくろくせずに頭をひねる人もいたりしたがやっと解けると喜んでいた。そのまま朝から指し将棋に突入する人達もいた。わたしが毎日それを続けると患者達はそれを楽しみにするようになった。ところがある日、看護婦がやってきて「朝からみんなに将棋をさせないでください」と言いに来た。朝の日常作業に支障があるようだった。

 リハビリは順調に進み、ワープロの練習もした。リハビリの一環として病院の一室でワープロ「書院」で書いたのがわたしのホームページの中でこれまでに膨大なアクセスのある「水面に書いた物語」シリーズの第一話 風の中の北京家鴨(ダック)である。つまりこの話しの舞台はこの病院だったのである。
fumio



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 北品川第三病院からリハビリテーションのために11月に転院した国立療養所武蔵村山病院、脊椎損傷病棟は怨嗟と悲嘆の坩堝(るつぼ)だった。そこの入院患者たちはそれぞれ大変な人生に直面していた。若者は将来の夢や希望がこわれ、社会人はこれまでの収入の道が途絶えて頼みの妻からは見放されて離婚され、自分がどうしてこんな目に遭うのかとやけになって、みんな一度は自殺を考えて自殺しようと思うのだが自殺に成功する者は少なくやがて体がまともに動かない状態では自分では自殺できないことに気づいて生きる道を選択することになるのだった。わたしはそれまでそんな世界に生きる人々があることを知らずに生きていた。わたしは今回の生で知識としてではなく一度はその世界を実際に経験しておくべきだったらしい。

 バイクの事故、ラグビーのタックル、運動会での衝突、左官の作業台からの落下、階段からの滑り落ち、アメリカの大学での浅いプールへの飛び込み、などなど様々な原因で頸椎から腰までの脊椎を損傷した人々が比喩ではなく物理的に一生立ち上がることができない悲嘆を胸にいつ終わるともないリハビリに取り組んでいた。みんな自分の事故については饒舌だったがけっして自分の関わったバイク事故のことを話さない美青年もいた。噂によるとその事故で親友が亡くなったらしかった。

 わたしははじめその中にあまりうまくとけこめないままただリハビリテーションに打ち込んだ。ある日曜、食堂のテレビでNHK杯将棋トーナメントを見ていると「将棋やるのかい」と50がらみの苦み走った男性が車椅子で近付いてきた。
fumio



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転院  


 わたしたち一家はそれまで、わたしが運転するヴァンタイプの車で食料品などの買い物をしていたのだがわたしが首の骨を折って入院して今後そうもゆかなくなって妻は息子を自転車に乗せて食料品の買い物に出た。その帰りに多くの荷物の重さでバランスを失って倒れた。道に散乱したこわれた卵などを息子と拾い集めるむなしさ悔しさの中でわたしの車を廃車にして自分が運転して乗る車を買うことを決めた。

 わたしは手術後、リハビリに集中した。朝から晩まで他の患者が疲れて休んでいる時もひたすら訓練をやり続けた。それは辛い作業だった。動かない肉体を動かそうとするのは柔道や役者の肉体的特訓のような動かせば動く肉体訓練のはるか向こうにある苦しさであった。それまでそんなことはまったく知らなかった、リハビリの先生が「これまでリハビリをしてきてあなたのような熱心な患者は初めてでした」とリハビリのために武蔵村山病院に転院してゆくわたしに言った。それでわたしは記念に「カリフォルニア・サンシャイン」のアルバムのカセットテープを渡して病院のワゴン車に乗せられて転院していった。
fumio

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 1988年9月14日午後9時過ぎ、窓からJRを臨む渋谷の稽古場でのことだった。
その瞬間、目の前にあるはずの床が見えなくなった。おそらくまわりにいたすべての人々も一時的に視覚を失っていたことだろう。

 その劇は原発問題を扱った作品で演出家は、原発ジプシーと呼ばれる者たちに核シェルターを設計した博士が投げ捨てられる、というフィナーレの場面を構想して稽古によって煮詰めていた。
博士役のわたしを若者たちは何度も胴上げから放り投げた。そのたびにわたしは回転受け身をして立ち上がった。演出家はもっと幕切れにふさわしい、観客の網膜に残像が焼き付く方法を思いついて試した。わたしが空中に舞っている頂点で、稽古場の電灯を消すように指示したのである。猫なら突然、光を消してもうまく着地するかも知れない。闇になった途端、さっきまでのまわりの景色が消え空中での位置感覚が失せた。猫が空中で体を立て直すようにはゆかなかった。 額が床にぶつかった。勢いよく落下した全体重を受けて平気なほど首の骨は強靭ではないらしい。灯かりをつけた人々が目にしたものは倒れたまま動かないわたしの姿だった。

 そのとき、わたしはだれもがこの世で様々な形で受ける試練のひとつを体験していた。抱き起こされたとき気絶していなかったらしく受け答えはできたが首から下が動かなかった。 救急車で運ばれた北品川第三病院のICUで長時間に及ぶ手術が始まった。医師はむづかしいけれどこれまでやったことのない方法を試すということだった。リスクが大きい方法をとったことをのちに他の医師が非難したが結果的にはその新手法を使用したことが良かった。

 もし治っても一生寝たきりか良くても車椅子の生活ということだった。 しかし、そのことを自分の将来像として現実感を伴って考えることはできなかった。手術後、麻酔が醒めて、まだ手足が動かないことを再確認した。のちに医師に聞いたところでは手術中に息を引き取らなかったのは腹式呼吸で鍛えていたからだそうだ。なるほどそんなものかと思った。なにが幸いするかわからない。


 妻にとってもそれは辛い試練の始まりだった。報せを受けて倒れようとする妻を小学4年生の息子が支えて「お母さん、しっかりして」と励ました。それで妻はハッとわれにかえった。それから妻はアメリカ時代と見違えるほど強くなった。現在も日々の試練に耐えて生長を続けている。
fumio
  


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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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9月11日(金)~9月18日(金)
ヒット数:1,303件中
    
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第1位(6)<6>あやかしのまち
第2位(2)<2>ごめんなさい
第3位(1)<1>水面に書いた物語
第4位(4)<4>軽々しく愛を口にしないで
第5位(8)<8>マイ・スィート・ライフ
第6位(12)<12>素顔のマスカレード  
第7位(9)<9>はるかなるメロディ
第8位(7)<7>ときめきFALL IN LOVE
第9位(10)<10>それってⅨじゃない
第10位(14)<14>オーロラの町から
第11位(11)<11>恋すれば魔女
第12位(3)<3>女優(スター)
第13位(18)<18>わかりあえる日まで
第14位(5)<5>ラスト・ランデヴー
第15位(13)<13>Sentimentallady”M”
第16位(17)<17>しあわせになれる
第17位(19)<19>NEVER GIVE UP!
第18位(16)<16>Stay with me
第19位(15)<15>まことのひかり
第20位(21)<21>プロセス

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 夏も去り
カリフォルニア・サンシャイン
も圏外に去った。季節は巡る。ご愛聴感謝。
fumio



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 1991年11月29日午後三時、その日、わたしは自宅で自作の歌を何度も録音し直してヘトヘトになった。これだけ歌っても満足できるものが録れないのは早い話が歌が下手なのだ、という簡単な結論にたどり着いて熱い風呂に入った。

 長くつかり過ぎていたらしい。湯あたりでボーとしてきた。風呂からあがろうとしても立ち上がれなくなっていた。どうしたことか足が風呂桶の高さを越えない。否応なく腿上げ運動を果てしなく続ける羽目に陥った。このとき、わたしの心臓はフル回転していたことだろう。まわりのありとあらゆるものにすがりつきもがいた。それまで蟻地獄に堕ちた蟻の気持ちを察してやるほどのやさしさはもちあわせてなかったが、今は少しは察してやることができそうだ。頭がのぼせて足で風呂桶をまたぐのはもう無理になっていた。そのまま洗い場に倒れ込んで脱出した。

「鳥人ブブカでさえ棒高跳びの予選のバーが越えられない日もあるのだ」と尺取虫のように壁際まで進んで湯気の中でのびていた。そのとき、息子が学校から帰ってきて風呂場に倒れているわたしを見つけた。わたしは頭が痛いと訴えたという。痛かったかどうか、はっきりしない。ソファベッドに横たえられてそのまま寝入った。

 翌朝、妻と息子はいつも朝早く起きるわたしがいつまでも寝たままなので不審に思った。
わたしの顔を覗き込むと白眼をむいている。息子はわたしが冗談でやっているのか、と怪しんだという。普段、そのくらいのことはしかねないと思われている。それはこんなとき、まずい。

 それでも、尿失禁に気づいたとき、いくらなんでもそこまでは冗談をしないと思ったことだろう。妻が住所を教えて受話器を置く前に救急車のサイレンが聞こえた、という。
救急車の中で妻はなるべく費用の掛からない病院を探してくれ、と頼んだ。救急隊員はそんな余裕はない、脈が弱まってとぎれかかっている、とあせって応えた。それで運び込まれた最寄りの病院が東川口病院であった。

 医師が頭を開くと血液が脳全体にまわっていた。脳内出血だった。妻はその血の量に愕然とした。出血後、二三時間置いておいても危ないのに一晩寝ていたので広範囲に血がまわってしまったらしい。息子は子供だということでわたしの脳を見せてもらえなかったことを悔しがっていた。人の脳の内部を眼にする機会というのはそうはないだろう。別にそんなもの見たところでどうということはないと思うがかれの無念さがある程度理解できなくもない。

 医師は脳手術の腕のいい友達を東京の病院から喚んで手術にかかった。脳の手術中、息子は妻に不安そうに尋ねた。「お父さん、レナードみたいになるの?」
レナードとは、少し前に観た映画「レナードの朝」の主人公のことだった。ロバート・デニーロが脳の機能がうまくはたらかない人を好演していたので息子にはその姿が衝撃的に焼き付いていた。妻は答えに困った。ふたりで不安を抱えて手術の終わるのを待った。
手術後の回復期、わたしは大暴れして人々に迷惑をかけたという。点滴に鎮静剤を入れられておとなしくさせられた。幸い都合の悪いことはなにも憶えていない。「退院したら、ぼくは崇凰(すうおう)という名前で龍神として勞(はたら)く」と見舞いに来た妻に宣言したことは憶えている。妻は、とりたてて驚くでもなく、ああそう、とあっさり受け流した。それだけでしまいだった。それで充分だった。結局、退院後もそんな名前は使用したことがないのだから…。一時の気の迷いだったのか。

 脳の中身が治るまでの間、右脚の太腿に貯蔵のために埋めてあった頭の骨を元の切り取った箇所に填(は)め込む手術はクリスマスの日に行われた。切り取られた骨は冷蔵庫などに保存するより自分の体にしまっておく方が腐敗などしにくいので太腿に埋めて保存してあったのだ。将来いつの時代にかわたしの頭蓋骨が土から掘り出されるようなことがあればこの時代にもこれだけの脳手術をするだけの技術があったとの見本にされるだろう。
それとも、やはり二十世紀にはこんな野蛮な方法で頭の骨を切っていたと思われるか。

 今でもあの時、麻酔が効くまでの間に見つめた無影灯が眼に浮かぶ。この世で最後に見る灯かりかも知れないとなんとはなしに不安を感じたのだ。時折、今もあのまま目覚めていないのではないか、とフト思う。
fumio

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 普通、レコーディングの際、スタジオではマイクを吹く雑音や破裂音、息継ぎの音が入らないようにする。そのためにマイクカバーやマイクの前にパンストを切って貼ったシェイドをおいて息がマイクにまともに当たらないようにしたりするのである。それでも息継ぎの音が入ってしまうとその部分を消して削除する。

 しかるに、ザ・ビートルズのジョン・レノンはGirl で呼吸音を音楽の一部として取り入れた。息吸いに気持を込めて音を立てたのだ。あの音がないと名曲「Girl」は成立しない。わたしもGirlを歌うときは息吸いの音を立てて歌ったものだった。


 グスターヴ・ホルスト(Gustavus Theodore von Holst) の組曲『惑星』(The Planets)からの一曲でイギリスの第二の国歌と言われる「木星(Jupiter)」 を平原綾香がポップソングに仕立てたJupiter を耳にした時、ずいぶん強い息継ぎの音が入っていて耳障りに感じた。しかしかの女は呼吸音を音楽の一部として使用しているようだった。アーティストは様々な方法で自分を表現するものなのでそれはかの女なりの表現方法だった。

 そしてこの間、島健と電話で喋ったとき、今までプロデュースしたうちで一番才能があると感じたのはだれ?、と訊いてみた。すると「Jupiter」はプロデュースしていないけれどアルバムをプロデュースした平原綾香という答えが返ってきた。わたしは日本の音楽には疎いのであまり知らないけれどなるほど、そうなのかと思った。かの女にはなにか光るものがあるらしい。
fumio

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 オバマ米大統領が連邦議会の上下両院合同会議で行った医療保険改革の演説中、共和党のジョー・ウィルソン議員が「You lie!(嘘つき!)」と叫んだことが問題視され、ウィルソン議員は嘘つき発言について謝罪して一件落着したがその後現在の時点では黒人大統領に対する人種差別意識が嘘つき発言の底にあったとする意見が出て揉めている。そんなことで揉めるとは残念なことである。

 まだわたしが朝の眠りの中にあるとき、妻が泣きながら揺り起こしたことがあった。
息子を小学校に送っていった帰りに首からかけていたポシェットを強奪されたという。
その中には現金40ドルほどとカードと運転免許証などが入っていた。現金はあきらめるしかないがカードはすぐに会社に破棄手続きの電話をした。911番の非常用電話をするとすぐにL.A.P.D.(ロス市警)がやってきた。事情を説明すると命をとられず良かった、と言っただけで別にくわしく調べるでもなくすぐに帰っていった。

 その日、妻は息子を学校に送り届けて返る道で同じ歩道上の正面から来る黒人青年に気づいて車道を渡って隣の歩道に移ろうと思ったという。でも、それは相手を黒人というだけで怪しんで避けているようで失礼なような気がして躊躇した。その躊躇が事件の回避を妨げた。次の瞬間、青年は妻のポシェットにつかみかかった。ポシェットは簡単にはちぎれなかった。それでも青年は馴れているらしく前に倒れ込んだ。体重を使って引きちぎる術(すべ)を知っていたのだ。青年は紐のちぎれたポシェットを握りしめて逃げ始めた。
妻は大声を上げて後を追いかけた。頭に血が上っていた。青年は振り向いて驚愕の表情で一目散に逃げた。それまで、被害者に追いかけられたことは皆無だったのだろう。この国では強盗に遭ったとき、追いかけてはいけないことはだれでも知っている。命が危ないのだ。わずかな金ならあきらめたほうがいい。

 広い通りに出ると車が待っていた。妻はそれが息子を学校に連れて行くとき、横を通った車であることを思い出した。そのとき、その車で町を徘徊して獲物を物色していたらしい。車中で待っていた男が被害者に追いかけられてきた仲間の姿に驚いて出てきた。まさか、と思ったことだろう。まともな武器は用意してなかったらしくなにやら慌てて探して妻を脅した。その手に握られたものはスクリュードライバー(ねじ回し)だったという。相手が偶々(たまたま)武器を持ってなかったことは幸いだった。そこで妻はハッと我に返った。自分の方が窮地に立っていることに気がついたのだ。黒人青年二人相手に勝ち目はない。それでとうとうあきらめて泣きながら家に帰ってきたというわけである。事件に遭った人にとってはその事件だけが判断の材料になる。ほとんどの人はいい人であっても一部の者のために民族全体が白眼視されてしまう。そのおかげでなにか犯罪が起こるとすぐに少数民族が容疑をかけられる。民族全体が不利益を受けることになる。妻が前から来る黒人青年を一瞬避けようとしたことは人種差別意識だったのか。そんな意識を消し去るためにはなにが必要なのだろう。
fumio




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