monologue
夜明けに向けて
 



 高校時代の記憶が甦ってついふらふらと調べる気になった「ボビー・フラー怪死事件」もずいぶん時間がかかったけれど一応自分なりの結論が出た。マフィアのかかわった事件は司法まで巻き込んで闇に葬られてしまうのであとから掘り起こすのは実に困難である。探偵小説なら探偵が犯人であってはならないというルールがあるが現実の世界では昔からやくざが二足のわらじを履いたように当たり前のことである。三億円事件も警察内部関係者の犯行だから未解決という説が強い。実行犯の犯行後、警察に連絡が入るのを待っていた警官の制服の手下が証拠隠滅に出てガソリン缶を捨て、母ロレインがイグニッションに入っていたというキーを指紋が採取できないように回収してしまった。だれが見てもマフィアの仕業としか思えない荒い仕事も検死報告でただちに自殺として不信感が起こると今度はガソリン吸引による窒息と辻褄を合わせた。サム・クックの場合は裁判所まで巻き込んでサムの名を汚そうとしたしかれらが裏で組めば何でもできるのだろう。そんなことは高校時代には想像もできないことだった。アブラハム・リンカーン、ジョン・F・ケネディ、ロバート・ケネディ、キング牧師、明日を開く多くの貴重な生命がだれかの既得権益保護のために断たれてきた国、アメリカ、暗殺から手を切って本当の自由の国として立ち上がってほしいものである。

  ボビー、高校生のわたしにはずいぶん大人に見えたけれどきみはまだ23才だったんだね。アイドルからアーティストに脱皮してこれからという時にへんな事件に巻き込まれてしまった。それでもきみのロック魂はクラッシュ グリーン・ディ にカバーされたI Fought The Lawに受け継がれている。これからもだれかがカバーして受け継いでゆくのだろう。合掌。
fumio


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 ボビー・フラー怪死事件の実行犯はPJ’sに屯(たむろ)するマフィアの鉄砲玉だったのだろうが命令を下した真犯人はだれだったのだろうか。音楽を芸術としてとらえず金儲けの手段として考えるショー・ビジネスに巣くう者達としか思えない。

 わたしは同じボビーでもボビー・ケネデイすなわちロバート・ケネディが暗殺されたウイルシャー通りのアンバサダー・ホテルに家が近かったので散歩で前を通る度に妻と、「ここでロバート・ケネディが殺されたんだ」と話した。ロバートは司法長官時代マフィアと対決して恨みを買っていた。大統領選の候補者争いの途中立ち寄ったロサンジェルスのこのホテルで暗殺された。いつものように事件の真相は闇の中で実行犯ではあっても真犯人と思えないパレスチナ系アメリカ人のサーハン・ベシャラ・サーハンが終身刑で服役している。

 第二次世界大戦に軍に航空機を調達して財を成したビジネスマン John Siamasと Alex Siamasによって1957年に設立されたKeenレコードとはどんな会社だったのだろうか。設立当初はかれらは音楽制作現場には疎いのでビッグバンドのリーダーで音楽の現場で活躍するボブ・キーン(Bob Keane)にレコード制作現場を任せたのだがすぐに決裂してキーンは Del-Fi Recordsを自分で設立する。

  シアマス兄弟がサイドビジネスで設立したKeenレコードが出したレコードのリストは以下のようであった。

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年  アーティスト、曲名        レコード番号
1957 Sam Cooke You Send Me / Summertime 44013
1957 Sam Cooke Summertime B-2003
1957 Sam Cooke You Send Me / Summertime 34013
1957 Sam Cooke (I Love You) For Sentimental Reasons / Desire Me 3-4002
1958 Sam Cooke Lonely Island / You Were Made for Me 3-4009
1958 Sam Cooke Sam Cooke A2001
1958 Sam Cooke All of My Life / Stealing Kisses 3-2005
1958 Sam Cooke Win Your Love for Me / Love Song From "Houseboat" (Almost in Your Arms) 3-2006
1958 Sam Cooke Love You Most of All / Blue Moon 3-2008
1958 Jackie Gotroe Golden Spur / Summer Lightning 3-4029
1958 Sam Cooke Encore A2003
1959 The Stewart Brothers Sleep On the Porch / Yum Yum 2113
1959 Sam Cooke Encore Vol 1 B-2006
1959 Sam Cooke Encore Volume 2 B-2007
1959 Sam Cooke Encore Volume 3 B-2008
1959 Sam Cooke Sam Cooke Sings His Hits B-2010
1959 Sam Cooke Tribute to the Lady, Volume 1 B-2012
1959 Sam Cooke Tribute to the Lady, Volume 2 B-2013
1959 Sam Cooke Tribute to the Lady, Volume 3 B-2014
1959 Sam Cooke Hit Kit LP 8-6101
1959 Sam Cooke Everybody Likes to Cha Cha Cha / Little Things You Do 3-2018
1959 Sam Cooke Tribute to the Lady A2004
1959 Sam Cooke Tribute to the Lady S2004 1
1959 Sam Cooke Only Sixteen / Let's Go Steady Again 3-2022
1959 Sam Cooke Summertime (Part 1) / Summertime (Part 2) 2101
1959 Sam Cooke There, I've Said It Again / One Hour Ahead of the Posse 8-2105
1960 Sam Cooke Steal Away / So Glamorous 2118
1960 Sam Cooke Mary, Mary Lou / Eee-Yi-Ee-Yi-Oh 2122
1960 Sam Cooke I Thank God LP 8-6103
1960 Sam Cooke 'T Aint Nobody's Bizness (If I Do) / No One 82111
1960 Sam Cooke Wonderful World / Along the Navajo Trail 82112
1960 Sam Cooke With You / I Thank God 82117
1960 Sam Cooke The Wonderful World of Sam Cooke LP 8-6106
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以上、これだけのレコードを出してKeenレコードは1960年に倒産した。ほとんどがサム・クックのレコードだったことがわかる。わずか3年間で幕を下ろしたということである。そしてサム・クックは1961年に自分のレーベルSARレコードをを立ち上げている。その時、John Siamasと Alex Siamasの兄弟と共同出資者たちの胸に去来したものはなんだったのだろう。サムとの間にわだかまりがなかったとはとても思えない。しかしサムは自分の曲を出すためにレーベルを立ち上げたのではなく後進のアーティストの作品の発表の場を提供するために設立したのであった。

Keenレコードの出資者とDel-Fi Recordsの出資者とPJ’sクラブの経営者達は同じ穴の狢(むじな)であったのだろう。サム・クックが射殺された日、PJ’sクラブに赴いたのも一見(いちげん)の客としてではなく顔見知りで馴染みだったからだろう。ボビー・フラーもサムもそこに立ち寄ったあと不幸な死を遂げてしまったのである。

 殺害年度は違っても同じシステムが働きふたりともここで殺されて死体発見現場に運ばれたと見るのが自然である。
fumio


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 私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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11月20日(金)~11月27日(金)
ヒット数:: 1,512件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(1)<3>水面に書いた物語
第2位(4)<2>ごめんなさい
第3位(2)<1>あやかしのまち
第4位(16)<10>女優(スター)
第5位(3)<5>軽々しく愛を口にしないで
第6位(8)<9>ラスト・ランデヴー
第7位(6)<11>はるかなるメロディ
第8位(5)<4>マイ・スィート・ライフ
第9位(10)<17>素顔のマスカレード
第10位(17)<11>それってⅨじゃない
第11位(20)<19>プロセス
第12位(11)<8>オーロラの町から
第13位(7)<6>ときめきFALL IN LOVE  
第14位(14)<7>Sentimentallady”M”
第15位(13)<12>恋すれば魔女
第16位(15)<15>しあわせになれる
第17位(19)<16>NEVER GIVE UP!
第18位(18)<14>まことのひかり
第19位(9)<18>わかりあえる日まで
第20位(12)<13>Stay with me
第21位(21)<->もっと自由に
第22位(-)<-> 死ぬほどI love you

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 今週目新しいことは第22位に死ぬほどI love you が入ってきたこと。この曲のバックは初期のミュージックコンピューターの原音だけで歌ってデモとしてカセットテープに録ってみたなんの化粧もほどこさないままの素のわたしの歌声。普通はこれからアレンジして楽器を重ねていって音を重ねて歌も練習して仕上げてゆく。そして最後には色々なエフェクターで化粧をして完成させるのである。ご愛聴感謝。
fumio

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やっと、考察に必要な材料は出尽くしたようなのでこれまでの記述をもとに本当に起きたことを推し量ってみる。
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 生前のボビーの最後の目撃者であるアパートの管理人は午前三時にかれとビールを飲んでいるので犯行時間は1966年7月18日午前 三時から死体発見時刻午後五時までの14時間の間に特定できるが、そのうち三人の隣人に目撃された白いマスタングのようなスポーツカーがスピードをあげて走っていった時刻、午前四時頃が最も近いと思われる。犯行はボビーのアパートの駐車場では行われなかった。もしそこで胸や肩に打撲傷を負い右人差し指を折るほどの乱闘またはリンチがあったのなら三人の隣人のだれかが痛みを訴えるただならぬ悲鳴を聴いているはず。普通あの町ではそんなことが起きればすぐにだれかが緊急電話911番に電話して夜中でも警察のヘリコプターが飛んでくるのだ。

 ボビーと部屋をシェアしている弟 、ランディがボビーは午前1時から2時までの間に出ていって帰って来なかったというのだから午前三時に管理人とビールを飲んでからかれは部屋には戻っていないことになる。すなわちその後犯行が行われた地点に自分の車で出向いたのだ。オールズモビルは家族の車だが母が朝用事で使うかもしれないので私用には使えない。エルパソで新メンバーを募っているときもその車に乗っていたので新メンバー達はボビーの車を認知していたから駐車場にボビーの車がないとわかってドアベルを鳴らしたのだ。

 
 その日、ボビーは自分の車で新たなプロジェクトに反対する影の投資者たちと話しをつけるためにに呼びだされたPJ’sクラブに行った。ボビーはフランクリンアヴェニューを東に走りヒルハーストアヴェニューで右折してキングスウエル通りまで走ってヒルハーストアヴェニュー( Hillhurst Ave,)1751番地にあるPJ's クラブまで走った。奇しくも射殺された日のサム・クックと同じ道を通って…。そこはボビー達のバンドの本拠地で通い慣れているし閉店後なので正装することもない。その時は話せばわかると信じていたのだ。しかしながら投資者たちにとってはタレントは金を儲けるための投資対象であってアーティストではないのである。自分達が見つけ水をやりここまで育てた金のなる木に勝手な行動をとられて商品価値が落ちると困る。投資者たちはなんとかバンドのミーティングまでにボビーを翻意させようとした。それで命令された実行犯たちはボビーを脅し翻意を迫った。もう操り人形ではなく自立しようとしていたボビーはOKせず諍いになった。多勢に無勢で袋だたきにあって胸肩に打撲傷を負い右人差し指も折れた。動かなくなったボビーを見て犯人たちはやりすぎたことに気づいた。そこが殺人事件現場になるのはまずい。死体をマスタングでアパートに運んで自殺にみせかける工作をした。フラー一家の駐車場でテキサス州・エルパソ・ナンバーのかれの家族のオールズモビルを見つけてボビーのキーでドアを開けた。フロントシートに座らせてキーをイグニッションに挿してスタートしようとしているように見せかけてその上に手をおいた。人差し指の折れている手でキーを廻してスタートしようとするはずがないのに。ガソリンをかけて証拠すべて残らないように燃やそうとした。ところがガソリンをかけると車内にガソリンが揮発して充満して呼吸もできないので窓を全部開けた。ブック形マッチを出してで火をつけようとしたが点けた途端爆発して自分も燃えてしまいそうで怖くなってやめてそのままにしてマスタングで逃げた。ドアをキーでロックしていてもカー・ステレオを盗られたり車内の物すべてを盗まれるこの町でロックもしないでドアを閉めただけで駐車場にこの車が置いてあった謎の答えはキーをイグニッションに挿したので逃げる時キーが手になくで外からロックできなかったということである。それが午前四時頃であった。あまり人々に信用されていない検死でガソリンの吸引による窒息が死因というのがもし本当ならこのときボビーはまだ死にきってはいなかったのでガソリンが肺に入ったと思われる。それを検出して死因としたのだろう。
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 そんな事件の推移が思い浮かぶ。はたして真相はいずこにあるのだろうか。
fumio


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 ハリウッドのまぶしい輝ける闇を透かして真相を見つけるために関わった人々の声に耳を傾けよう。

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 ボビー・フラーの親しい友人、Charlene Nowakは「17日の日曜にボビーと話したの。翌日行ってもいい?と、かれは一日中スタジオに入るから外に出る時間をとれないから火曜日に来いよというの。それは自殺する人のいうことのように聞こえなかったわ。」と証言する。

 ボビーは7月18日の早朝にはアパートにいた。真夜中から1時までまだそこにいたと母とローディ(楽器運び係)は確信している。ボビーはテレビを見たり電話したりしてまだそこにいた。「1時から2時の間にかれは電話を受けて出て行った。そしてそれから帰らなかった。かれはまだ部屋着のままだった。」とランディは言う。それは、ボビーは外出時にはいつも身なりをキチンと整えるのでパーティとかガールフレンドに会うのではないことを示唆している。報告書によるとアパート管理人Lloyd Esingerは「ボビーはかれの部屋に午前3時頃立ち寄ってビールをすこし飲んだ。ボビーは上機嫌だった」と回想する。だれかがボビーを目撃した事実のそれが最後であった。


 ボブ・キーンは「ボビーはあの夜LSDパーテイに行って幻覚状態で倒れて死んだ。それでパーテイ仲間が自殺に見せかけた」とありそうにもないことを言う。

 ボビーの死の4日後、フラーのアパートの二軒先のギタリスト、ジム・リースとドラマー、ダルトン・パウエル(Dalton Powell)がシェアしているアパートに、3人の武装した男達が現れた。リースは「ぼくが真夜中頃に帰るとダルトンが拳銃を持って立っていた。かれはぼくを探していた三人について語った。われわれはすでに翌日エルパソに帰ることを決めていた。それでぼくは弾を込めたピストルを帰り道のシートの下に置いていた。
ランディは「ボビーは地下組織にコネクションがあるDel-Fiの出資者に支払われる80万から百万ドルの生命保険にかかっていた」と言う。。ボビー・フラー亡き後残りの3人のメンバー、ギタリスト、ベーシスト、ドラマー、それぞれが事件の裏の地下組織の存在を感じていたのである。

 ボビーの叔父さんのひとりが警察に捜査を乞いに行ったとき、かれらは「自分にとってなにが良いか知っているなら口を閉じておくほうがいい」と言った、という。ランディはまた検死官にも強い不信感を持っていた。

 
 ボブ・キーンの影のパートナーとボビー。フラーとの仲介をして金をもらっていたコールガール、メロデイは「かれのストリートの3人の隣人が、白いマスタングみたいなスポーツカーが朝4時頃スピードをあげて走っていた、と報らせてくれた」と言う。
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 これらの証言あるいは思いこみの吐露によってわかることはわたしの高校時代にはまったく考えもしなかったことだが、警察、検死局、そして闇に紛れて姿の見えない地下組織のなんらかの関わりである。公式には自殺や事故と処理されて封印されてもやはりただのロックンローラーの自殺ではなかったのだろう。
fumio


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 ボビー・フラーは故郷エル・パソで新たなプロジェクトのためにミュージシャンを募っていた。そのミュージシャン達が約束のその日1966年7月18日午後5時にボビーのアパートに向かった。到着してかれの車がないことに気付いてアパートのベルを鳴らしても返事がなかった。ボビーの母ロレインが手紙のチェックに出ていって駐車場に行ったとき、そこにかの女がテキサスから乗ってきた家族の車、オールズモビルがあるのを認めた。かの女は走って運転席のドアを開けた。ガソリンの匂いが鼻をついた。ボビーはフロントシートに横たわっていた。ロレインは「キーはイグニッションに入っていました。まるで車をスタートしようとしたように手はキーの上にありました。眠っているのかと思って名前を呼んだけれど近付いてよく見ると寝ているのじゃなくて死んでいるとわかりました」と言う。

 ロサンジェルス検死局の公式検死報告は「死体は車のフロントシートでガソリンを缶3分の1ほどかぶってうつ伏せで見つかった。胸と肩に過度な打ち身があった。窓は全開でドアはロックはされず閉まっていた。キーはイグニッションにはなかった。死因はガソリン吸引のための窒息。」と語る。

 ボビーは衣服と髪もガソリンにずぶ濡れだった。かれの身体は完全な死後硬直を呈し死後3時間以上の経過を示唆していた。目撃証人達はボビーが喧嘩の最中に殴られたように見える、と証言した。まるで後ろに曲げたようにかれの右人差し指は折れていた。こんなすべての証拠を無視してロサンジェルス市警はボビーの死は自殺と判定した。公式警察報告は「犯罪の証拠はない。本件は終結した。カリフォルニア州法の下に封印して残される」ということであった。そしてボビーの亡骸は7月20日にバーバンクの霊場フォーレスト・ローンに埋葬された。

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 推理小説ではなく本当にあったことなので概要を語るだけでこんな長くかかったが以上が事件の顛末である。だれが見ても辻褄があわないことが多すぎるこの事件はなぜカリフォルニア州法の下に未解決のまま終結したとして封印して残されたのだろうか。裏でどんな力が働いたのだろうか。
fumio

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ボビー・フラー・フォーはライヴバンドとしてのパフォーマンスを見せるためにその年、4月9日から初の6週間の全米ツアーに出た。しかしそのツアーの間にジェットで帰り、次のシングルThe Magic Touch のレコーディングに入った。それは当時ヒットしていたシャングリラスの曲"He Cried"を書いたTed Daryllの作品だったがボビー・フラーはかれらのバンドサウンドが変えられることに反対した。ボブ・キーンとボビー・フラーはそのことで対立してセッションの間戦い続けた。フラーはレコードの音をライヴで再現することに誇りを持っていたのにこのシングルの音はライブで出せないとわかっていたからこだわったのだ。それでキーンと新しい楽曲制作担当、のちにラブ・アンリミテッドの愛のテーマ で有名になるバリー・ホワイトはフラー抜きで新曲をミックスダウンして完成してしまったのである。

 そのシングルはとにかくかれらがツアーを終えるまでに発売された。あまりよく根回しされず薄っぺらなツアーの終わる頃には真剣にみんなでバンドの解散も話し合われた。嫌気がさしたボビーがクラブのオーナーと口争いをしてツアーの最終週をキャンセルしたあと、かれらはロサンジェルスに戻って 1966年7月10日のケーシー・ケイセムの番組「Casey Kasem's TeenDances」に出演した。それがボビー・フラー・フォーのバンドの最後の演奏になったのである。

 その頃にはいつもきれいに髭を剃っていたボビーは山羊ヒゲを生やし始めていた。かれの中でなにかが変わりつつあった。Melodyというコール名のコールガールの女友達はボビーは死亡する一週間前にかの女の家でLSDを摂ってみたという。


 ツアーから帰り家に着いたギタリスト、ジム・リース( Jim Reese )はヴェトナム派遣のの兵役告知を受け取った。バンドはとにかく解散するようだしリースは 愛車ジャガー(Jaguar XKE)をつぎのプロジェクトのためのメンバー集めに忙しいボビーに売ろうとした。

 ボブ・キーンがボビーフラーと話すために立ち寄った帰り際にボビーは1966年7月18日(月)にDel-Fiレコードの事務所でバンドのミーティングをすると告げた。ジム・リースと車の件を煮詰めることもないままボビーはそのミーティングに現れることはなかった。

 ボビー・フラーの人生はたった23年という短い一生なのでくわしく見たつもりでもこれだけである。ほとんどが音楽に打ち込んでいる日々だったようだ。

 なにがあったのかすこし見えてきた。ハリウッドの闇に生息するだれかにとって都合の良い操り人形が人生の最後でやっと意志をもって自分で動き出そうとしたのだ。ところがそれを良しとしないだれかによって元の人形に戻そうとされたように思える。今度は動かす操り糸も切れてしまってふたたび動くことはなかったのである。
fumio

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「Celebrity Night at P.J.'s」と題するアルバムがある。
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 曲目
1,I Fought the Law
2. Brown Eyed Handsome Man
3. A New Shade Of Blue
4. Let Her Dance
5. C.C. Rider
6. Anytime At All
7. My Babe/Keep A Knockin'/Long Tall Sally
8. Vamp Introduction
9 .California Sun
10. Do You Wanna Dance
11. Wooly Bully
12. Gloria
13. Oh Boy
14. Carol
15. Thunder Reef
16. High Heel Sneakers
17. Slow Down
18. Think It Over
19. Money/Shakedown
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 シングル"I Fought the Law"は1965年にボビー・フラーとそのバンドをついに全国的にした。それでまたボブ・キーンがさらなるプロモーション活動に乗り出した。その一環として「Celebrity Night at P.J.'s」というショーを企画したのである。「P.J.'s」というのは「ボビー・フラー・フォー」が演奏するクラブのひとつでかれらの本拠地であった。ハリウッドのセレブを招待して一緒に写真を撮ってライヴアルバムを出そうというのだ。そのアルバムは1965年12月3日にレコーディングされた。アン・マーグレット、ライアン・オニール、サリー・フィールド、ナンシー・シナトラ といった当時のスターたちがバンドとではなく型どおりにボビー・フラーとだけ写真を一緒に撮った。 群衆は初めは有名人とともに踊り騒いだがそれより会話に夢中になってバンドにはあまり注意を向けなくなった。プロモーションとしてはあまり成功とはいえなかったがかれらとハリウッドのショー・ビジネスの世界との関係が偲(しの)ばれるアルバムである。
fumio

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 私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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11月13日(金)~11月20日(金)
ヒット数:: 1,176件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(3)<1>水面に書いた物語
第2位(1)<4>あやかしのまち
第3位(5)<2>軽々しく愛を口にしないで
第4位(2)<3>ごめんなさい
第5位(4)<10>マイ・スィート・ライフ
第6位(11)<6>はるかなるメロディ
第7位(6)<7>ときめきFALL IN LOVE  
第8位(9)<8>ラスト・ランデヴー
第9位(18)<15>わかりあえる日まで
第10位(17)<17>素顔のマスカレード
第11位(8)<9>オーロラの町から
第12位(13)<11>Stay with me
第13位(12)<15>恋すれば魔女
第14位(7)<14>Sentimentallady”M”
第15位(15)<19>しあわせになれる
第16位(10)<5>女優(スター)
第17位(11)<13>それってⅨじゃない
第18位(14)<12>まことのひかり
第19位(16)<18>NEVER GIVE UP!
第20位(19)<20>プロセス
第21位(-)<->もっと自由に

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 今週目新しいことは第21位にもっと自由に が入ってきたこと。この曲はベースラインが好きな人が多いようだ。ご愛聴感謝。
fumio

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 そしてボブ・キーンはラジオ・テレビなどあらゆるメディアを使った売り出し作戦を開始した。地元放送局KRLAラジオと組んでプロモーションアルバム「KRLA King Of TheWheels,」を制作したり10代の子の層向けの
ショー番組に当時売れっ子だったナンシー・シナトラと組ませてボビーのバンドを出演させた。そのセットではボビー・フラーのバンドはだれかの歌を慣れ親しんだフェンダーではなくVOXの楽器で弾いているふりをさせられたりした。かれらはなにをさせられても「sure、sure(もちろん、もちろん)」と操り人形のように従うばかりだった。ボビーの弟 のベースプレイヤー、ランデイ・フラーは「 そうでないと知られていないバンドがKRLA ラジオや KFWBラジオでレコードを作るなんて不可能さ」と回想する。

  初めの頃のシングルは鳴かず飛ばずだったが、そんななりふりかまわぬプロモーションのおかげでかれらのシングル"Let Her Dance"はある程度ヒットしたのである。しかしつぎのシングル"Never To Be Forgotten"/"You Kiss Me" はまたこけた。もう一応名前は知られたのであとは試行錯誤で良いレコードを作りトップを目指すよりない。そうするうちにつぎにリリースしたのがかれらの最大ヒットとなる"I Fought The Law" であった。
fumio


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 ボビー・フラーの一行はロサンジェルス到着後、再訪を約束していたDel-Fiレコードのオフィスに新しいテープやレコードを持ち込んだ。ボブ・キーンはフラーの目覚ましい進歩を認めて契約を交わしDel-Fiのスタジオを使用できるようにして、かれらのためにバンドミュージックのレーベル「the Mustang Records」を創設した。そしてかれらはすぐに南カリフォルニアのクラブで演奏を始めた。すると評判を呼び滞米中のキース・リチャードやアメリカントップ40の創始者ケイシー・ケイセム やプロデユーサー、フィル・スペクターなど大物が見に来るようになったのだ。

 それまでかれのレコードはボビー・フラーの個人名でクレジットされてきたのだがボブ・キーンが「デーヴ・クラーク5」のように「ボビー・フラー4」というバンド名に決定した。いよいよ西部テキサスの若者たちがレコードをリリースしたりテレビ出演したり夢の都ハリウッドのショー・ビジネスのまっただ中に飛び込んでゆくのである。
fumio
 

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 ボビー・フラーは以前、自分のテープやシングルを持ってカリフォルニアのレコード会社を訪ねたことがあったがどこでも好感触を得られず唯一、かれを勇気づけてくれたのが Del-Fi records のボブ・キーンという人物であった。かれはボビーのテープを聴くと「エルパソに帰ってわたしを本当にノックアウトするようなものができたらもう一度おいで」と言ってくれた。ボビーは故郷に戻り必死で音楽に打ち込みレコーディングやバンド演奏の腕をあげた。かれの出すレコードは地元ではナンバー1になったが井の中の蛙はそれでは到底飽きたらずふたたび大海を目指しボブ・キーンの待っているハリウッドに向かったのだ。
fumio

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 先に進むために予備知識としてここで米国ポップミュージック・シーンにおいて重要な人物ボブ・キーン(Bob Keane )について述べておかねばならない。ウイキペディア などからかれについての記述を以下にまとめておく。
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 ボブ・キーン(Bob Keane) 本名 Robert Kuhnは1922年1月5日、カリフォルニア州ロサンジェルス市マンハッタン・ビーチで生まれた。 成長するとボブはクラリネット・プレーヤーとなり敬愛するベニー・グッドマンのようにビッグバンドを作り演奏した。1938年にグレンデール・ジュニア・カレッジで17才のとき、最初のショーを開いた。地元ロサンジェルスのラジオ局「KFWB」がキャンセルされたショーの代わりとしてそれを放送した。翌日それを聴いたMCAレコードのエージェントの電話を受けて世界一若いバンドリーダーとして契約したのである。MCAはかれが移籍したがっていると感じてキーンを1941年にレーベルから外した。かれは空軍に入ったが肺の疾患で現役を退いた。そしてロサンジェルスに戻りいくらかのバンドでクラリネットを吹いた。1950年かれは新ラジオ番組 Hank McCune Show」の指揮者としての仕事を受けた。そのときアナウンサーが名前の「Kuhn」を「Coon」のように発音するのでキーンにしたのである。

 1955年までキーンはバンドやクラブでクラリネットをプレイしていたがある夜ジョン・シアマス(John Siamas)という航空業界ビジネスマンに会った。ボブをタレントスカウト育成楽曲制作担当として「Keen Records(West Third Street・西ロサンジェルス)」というレコードレーベルを立ち上げたいというのである。

 ボブはThe Soul Stirrersというゴスペルグループで歌っているサム・クック
の"Summertime" と "You Send Me"の二曲のアセレート盤(試聴レコード)を与えられた。それですぐににサム・クックと三年契約をしてサムの名前をCookからCookeに変えた。レコードはKeen Recordsの第一弾シングルとして発売された。元々Summertime" がA面でそこそこ売れていたのだがあるDJがB面をかけた時レコードは離陸して急上昇した。1957年11月25日に You Send Meはビルボードチャートのナンバー1に輝いたのだ。

 Keen Recordsは"You Send Me"の売り上げで100万ドル以上稼いでいたに関わらずボブはこの時点ではまだシアマスと口約束をしただけであった。いつ会社ができて株券を受け取れるのかと訊くとパートナーでありつづけたいなら会社に5000ドルの投資をしなければならないという手紙がきた。それでヒット曲を出したら会社から放り出されるというトリックにはまったのだと悟った。シアマスに対する法的手続きの進行を待つ間にボブの妻がシアマスにはめられたほかの人たちにコンタクトをとってほかのレーベルを立ち上げることを提案した。レーベル名をギリシアの音楽神Delphiから名前をとって「Del-Fi Records」としたのである。

1958年、キーンはPacoimaの映画館の土曜昼演奏するリッチー・ヴァレンス
(Richard Steven Valenzuela)。Ritchie Valens)を見いだした。キーンは自分の地下室の小さなスタジオのオーデションにリッチーを招待して正式契約を交わし二人は数時間地下スタジオで数曲練り上げた。キーンはマネージャーとプロデユーサー役を務めリッチーを売り出したが"Come On Let's Go"やDonna La Bambaの両面がスマッシュヒットしたあとリッチーは1959年2月3日、ツアー中同乗していたバディ・ホリー、ビッグ・ボッパーもともに飛行機事故に遭って17才で死亡した。
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こんな略歴をもつ人物ボブ・キーンがボビー・フラー怪死事件に重要な役どころで登場してくるのである。
fumio

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 ボビー・フラー(Robert Gaston Fuller )は1942年10月22日に テキサス州グースクリーク(Goose Creek)の比較的経済的に安定した家庭で父Lawsonと母Loraineの間に生をうけた。そして1944年1月29日生まれで3才違いの弟 、ランデイ(Randy)と親の与える多くの楽器を弾いて遊んだ。ボビーは大学に入ったけれど音楽をやりたくてすぐやめて楽器店に勤めた。しばらくするとかれはドラマーとしてエルパソ中の注目を浴びていた。 そして友達の母で詞を書く「Mary Stone」と歌作りをした。弟ランデイが軍学校から帰った時、ボビーのギターなど楽器の腕前の進歩に驚くほどだった。ボビーはレコードを作りたくて、親のリビングルームで町で集めたメンバーとセッションしてメアリー・ストーンとの共作"You're In Love" とボビー自身の "Guess We'll Fall In Love"を録音した。そしてニューメキシコの「Yucca Records」が45回転シングルとして1961年のサンクスギヴィングデイに発売した。そのシングルはローカルのエルパソのラジオ局KELPでは2位になって3000枚売れた。それに勇気づけられたボビーは自分のバンドを作り弟 、ランデイをベースプレイヤーにして本格的に活動を始めたのである。

 ボビー・フラーとそのバンドは地元テキサスではレコードを出したりしてある程度活躍していたのだが、テキサスでは将来の展開が見込めないと判断して1964年11月にバンドのメンバー達は緑のシェヴィー・ヴァンに機材を積み込んで、ボビーとランディ 兄弟の母ロレイン(Loraine)の愛車オールズモビルと併走してハリウッドへと向かった。ハリウッドという巨大な誘蛾灯に惹かれスターを夢見る全米の若者たちのように。そのまぶしい灯りの下には多くの羽虫の死骸が積み重なっているのだ。遠くからは見えないけれど…。
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 私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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11月6日(金)~11月13日(金)
ヒット数:1,064件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(4)<2>あやかしのまち
第2位(3)<3>ごめんなさい
第3位(1)<1>水面に書いた物語
第4位(10)<12>マイ・スィート・ライフ
第5位(2)<6>軽々しく愛を口にしないで
第6位(7)<7>ときめきFALL IN LOVE  
第7位(14)<18>Sentimentallady”M”
第8位(9)<9>オーロラの町から
第9位(8)<5>ラスト・ランデヴー
第10位(5)<4>女優(スター)
第11位(6)<10>はるかなるメロディ
第11位(13)<17>それってⅨじゃない
第12位(15)<8>恋すれば魔女
第13位(11)<11>Stay with me
第14位(12)<13>まことのひかり
第15位(19)<21>しあわせになれる
第16位(18)<19>NEVER GIVE UP!
第17位(17)<14>素顔のマスカレード
第18位(16)<15>わかりあえる日まで
第19位(20)<20>プロセス
第20位(-)<->リアル・リアル・ラヴ

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 今週はいつものベストスリーに戻った。目新しいことは第20位にリアル・リアル・ラヴ が入ってきたこと。この曲は京都の桃山高校の定時制のブルースバンドと稽古している時に作った曲である。桃山城は美しい城でよく天守閣に登ったものだった。ご愛聴感謝。
fumio

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