monologue
夜明けに向けて
 



わたしたちが音楽その他の文化華やかなりし80年代にハリウッドで活動してSFユニヴァーサルロックドラマアルバム「プロセス」を日常使用英語で制作してクラブ「処女航海」でライブコンサートを行ったことには意味があった。日本語なら世界全体では通じない。たとえヒットしたところで日本語言語圏というコップの中での嵐に過ぎない。英語であれば一応ユニバーサル言語として世界だけではなくユニバーサルつまり宇宙に通じる可能性がある。わたしたちアーティストは常に宇宙の仲間を対象として想定して行動しているのである。
fumio

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わたしの相棒ギタリスト、中島茂男はクラブ「処女航海」でのSFライブコンサートの翌日、サンフランシスコに出発した。
わたしは餞別を50ドル手渡して見送った。帰ってから中島はリトルトーキョーのキャラバンサライ旅行社の支配人となった。そしてしばらくしてフロリダに移住して旅行社を続けている。「プロセス」アルバムを製作していた頃のギターの腕は衰えていないだろうか。井上陽水がアルバムを作るときモップスの星勝がアレンジャーとしてロサンジェルスに来てアレンジを担当してギタリスト仲間である中島に貸したギターを持ってきてくれというのでわたしがその飛び道具入りギターをホテルに持って行ったものだった。
fumio

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歳暮  



今年の「クリスマス」(25日土曜日)に宇宙劇場船「プロセス」の乗組員で一緒にロサンジェルスを処女航海したギタリストの中島茂男から歳暮としてフロリダのオロブランコとオレンジの詰め合わせが届いた。日本で「プロセス」アルバムがCD化されて以来製作者仲間として贈ってくれる。日本人がハリウッドで英語で制作した歴史的アルバムのメンバーであった誇りがあるのだろう。
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しばらくどうするか逡巡しながらアンコールに応えるために少し打ち合わせして、ユニヴァーサルドラマの意が伝わるようにもう一度始まりから終わりまで気を込めて演奏した。だがメンバー紹介が終わってもそれでもまだまだアンコールの声が止まないのでその場で演奏できる曲をみつくろって演奏した。黒人の観客が「YOU ARE DIFFERENT」と声を上げていた。確かにDIFFERENT(違う)だろうと思った。このライヴの夜はかなりアート感覚ハイクラスの観客が集まっていたようでクラブ「処女航海」全体がひとつの宇宙劇場船として成立していたのだった。
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カセットテープも宇宙開闢以来のストーリーを音楽的に表現したユニヴァーサルドラマ仕立てなので一旦聴き始めれば休むことなく最後まで聴き通せば自分が登場人物のひとりと感じて途中で家の揺れを感じて恐怖したり龍との飛翔感覚を味わうことになる。ライブではもちろんその宇宙開闢以来のユニヴァーサルドラマの中に会場内の聴衆を誘導してエンデイングでひとつの大きなドラマが完結したのでアンコールは予定していなかったのだ。
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ジャズクラブ「処女航海」におけるSF「プロセス」ライブステージの曲目は英語の歌詞の曲ばかりだったがそのうちの一曲「PUBERTY(青春)」だけは日本語詞なので宮下フミオがドラムを叩きながら日本語で歌った。イントロからエンデイングまで一度気を込めて演奏し終えてみんなで頭を下げているとアンコールの声があがって戸惑った。この宇宙叙事詩「プロセス」は全体が一つのアート作品なので初めから最後まで聴き通さないと真意が伝わらないのでアンコールもむづかしい。ヒット歌手のように一曲ずつばらばらに演奏するわけにゆかないのだ。
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そうこうするうちにアルバム「プロセス」の完成がロサンジェルス中の噂になってライブ演奏の要望があちこちで起こった。
翌年、1981年1月18日に当時、ロサンジェルスに集まっていた梁山泊 (りょうざんぱく)のような芸術家集団の支援によってロサンジェルスのジャズクラブ、MAIDEN VOYAGE『処女航海』において「プロセス」の収録曲を始まりからエンデイングまでトータルに通して演奏した。それはシングル曲ではなくアルバム全曲でひとつのアート作品として成り立ち全体で宇宙の創世からの壮大な宇宙叙事詩として構成してあったのでそのようにアルバムを再現したのであった。
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わたしたちアーティストは宮下フミオのアート感覚を生かした超低音を入れたままの8ch元録音テープを使用してレコーデイングを進めた。それはミックスダウンの行われたインディゴランチスタジオの壁に埋め込んだスピーカーでも素晴らしい効果が得られた。「ドラゴンライダー」の試聴ではスタッフ全員で実際に龍の背に乘って飛翔している感覚に襲われた。完成したカセットアルバム「プロセス」はアナログなので自宅で再生するとドアや窓ガラスが揺れ、近所の犬たちが動物本能的に啼きだした。このアルバムは始まりからエンデイングまで全体で宇宙の創世以来の壮大な宇宙叙事詩になっていて様々な時代を象徴するそのような音も必要だったのである。
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1980年7月23日より11月4日まで約5か月間録音にかかって完成したアルバム「プロセス」はアナログからデジタルへの過渡期にあってレコーデイングエンジニアの間で様々な意見が対立した。アナログであればそれなりの音響システムで再生すれば嵐の超低音で窓ガラスがビビって家が揺れだすように感じる。デジタルならその音域がカットされるので意が伝わらない。パラナヴァスタジオのエンジニア、ガナパーチは超低音は入れるべきではないと反対した。プロデュースを担当した宮下フミオはそれでも超低音にこだわった。
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INDIGO RANCH(インディゴ・ランチ) 24chスタジオは当時最高のレコーデイング設備を備えていた。 スペイン語のランチョ(別荘)のように山の中腹にあるのでミキシングの日はピクニックのようだった。朝から妻が多くのおにぎりを握り、付け合わせのおかずを用意して行った。プロデュースの宮下フミオの指揮の下、各楽器の音決めから試行錯誤のミキシングが進んで昼には宮下家の家族、関わったミュージシャン仲間、ミキシングエンジニアなど弁当を持ってきていない、みんなにおにぎりをふるまった。一休みしてふたたびやり直して最終曲まで進み多くの耳で何度も何度も聴きなおしてみんながOKした時、やっと終了した。
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Recorded 23rd July to 4th November 1980
at Carlton Way STUDIO Hollywood Calif.
PARANAVA STUDIO Hollywood Calif.
Mixed at INDIGO RANCH STUDIO Malibu Calif.
MUSICIANS INSTRUMENTS
SHIGEO NAKASHIMA GUITAR,VOCALS
FUMIO YAMASHTA BASS,VOCALS
FUMIO MIYASHTA DRUMS,SYNTHESIZER,VOCALS
KEN SHIMA PIANO
KEI SUGIMOTO STRINGS ENSEMBLE
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アルバム「プロセス」の上記レコーデイングデータのカールトンウエイスタジオはハリウッドの宮下フミオの自宅。パラナヴァスタジオはマリリン・モンローなどスターのサインや手形などで観光スポットとなっているチャイニーズ・シアターの向かいのビル。ミキシングを行ったマリブのランチョ・スタジオは山の中腹にあってUFOの飛来の噂があった。
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1980(昭和55)年にジャパンフェステイバルでSFプロジェクトのカセットアルバム「プロセス」を販売したのは「世界人類が平和でありますように」という祈り言葉の白光真宏会のブースであった。
fumio

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その日、わたしたちは会場に早めに入った。
ステージは広いコンベンションセンターの中央にしつらえてあった。
アンプ類楽器類ミキサーなどをステージ上に並べてセッテイングを終えてショータイムまで待つ。わたしはそのうちに便意が起きてトイレに入った。
大切なイベントの前にはトイレに行くことになる。それは儀式などの前に穢れを落としておく禊作用。当時の日本を代表するバンドのパフォーマンスなのだから禊が必要だった。
トイレから出るとショータイムになっていた。宮下フミオは白いステージ衣装に身を包みわたしは黒い半纏を羽織った。
曲目はフミオの妻リンダの作詞した英語の歌。一曲だけ「セイ」というファーイーストファミリーバンドの日本語の歌があって一番をフミオが歌うと二番をわたしが歌い三番を中島シゲオが歌った。島健はエレピを演奏していた。わたしはフェンダープレシジョンベース、中島シゲオはギブソンレスポールエレキギターを弾いた。フミオは獅子が吼えるように歌った。
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承諾  


ジャパンフェステイバルを開催するにあたって主催者が宮下フミオに相談に来た。
今度大規模な日本を宣伝するフェステイバルを計画しているがうまくいくかどうかわからないのでペイ(出演料)は払えないけれどショータイムに出てほしいという。
フミオはわたしたちに意見を求めたがだれもが承諾したのだった。フェステイバルが大成功に終わって良かった。
fumio


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ジャパンフェステイバルは大盛況だった。ロスアンジェルスの中心にあるコンベンションセンターの大会場で開催されあまりにも多くの人々が集まったもので出演者であるわたしたちも駐車場には困った。停める場所がないので駐車係に頼んで空いている時間を見計らってなんとか駐車スペースを確保した。駐車できなければバンドのパフォーマンスはお流れになってしまうところだった。多くの企業が各ブースに自社の最新製品を並べていた。各自動車メーカーの新車モデル、レコーデイングアナログデジタル音響変換機、健康志向の高まりを受けたレストラン用浄水器などなど当時の先端モデルが目白押しで枚挙にいとまがない。わたしは自作曲を発表する目的でハリウッドで起ち上げていたレコード会社「FRY Record」レーベルのブースでその頃制作していたプログレッシヴロックバンド「SF」のアルバム「プロセス」のカセットをその頃ブームになっていた環境音楽として販売した。まさにお祭り騒ぎといえるフェステイバルだった。
fumio

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