てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第22回てつがくカフェ記録―食べてよい命と食べてはいけない命はあるのか?―

2014年02月16日 08時29分18秒 | 定例てつがくカフェ記録
    
昨日は、日本中で記録的な大雪に見舞われましたね。
そして、ここ福島市もご多分に漏れずに1日中大雪警報が発令され、午後までに40㎝超の積雪量を記録しました。
そんな日に哲学カフェなんてありえないでしょう。
とはいえ、予約制ではないので「誰も来ないんだろうなぁ」と思いつつ世話人たちは会場へ向かいます。
哲カフェを開催した当初は、「世話人二人しか集まらなくても議論はしよう」という精神で始めたものですから、
「その精神が初めて実践されるんだろうなぁ」と思いつつ、降りしきる雪の中を会場へ向かいました。

会場には常連のSさんが「大雪でいわきの自宅に帰宅できなくなった」という理由でいらっしゃっていました。
世話人も合わせて4人。
あとは誰も来ないだろうから「今日は第1回哲学バーだ!」と、いきなりビールから注文してしまいます。
うーんダメにもほどがある……
でも議論はしっかりやろうぜ、という感じで第22回てつがくカフェ開始!
すると、「大雪だから今日はもう店を閉めてきました!」という方や、「仕事帰りにagatoの前通ったら哲カフェの案内が掲示されていたから驚いて寄ってみた!」と、ポツリポツリ参加者が増えていきます。
会津の常連さんからは、「猪苗代方面から行けないから、米沢周りで福島へ向かっています」という連絡が入ります。
市内の方からは、「行きたいのに雪で家から出られないので残念!どうしても話したいことがあったから」と電話口でその内容をお伝えいただきました。
けっきょく、1次会には9名の方々にご参加いただきました。
しかも、2次会はさらに参加者が増え、11名。
3次会にはさらに4名増えるという、異常事態に!
だ、だいじょうぶか!みんな!この大雪のさなか正気か!
というわけで、皆さんの哲カフェ愛に感激させられる1日となりました。
もちろん、議論もまじめに行われました。
今回はSさんの速記録を活用させていただきながら、カフェの議論を報告させていただきます。

さて、カフェ冒頭に、朝日新聞記事「『賢いイルカ』は特別か」を配布させていただきました。
ケネディ駐日大使のイルカの追い込み漁に対する「非人道性について深く懸念しています」というツイッター発言をめぐる論考です。
その中にイルカの賢さ、コミュニケーション能力などの「人間との距離の近さ」がその特別視の根底にあること等が論じられています。
その記事を皮切りに以下の対話がくり広げられました。

「人に近いのがイルカを食べてはいけない条件なのですか?だとすれば人は食べちゃだめなんですよね……。」

「(新聞の記事を読んで)留学生の多い大学院で研修させてもらったことがあるけれど、インドネシアの留学生が豚を食べられない、ということがありました。彼女に対して「豚肉を食べてごめんね」といったら、「文化の違いだから」と言ってもらえたのですが、この態度に寛容だなと感じました。それに対しケネディ大使の発言はは押しつけがましいと感じます。」

「いい実例を挙げて下さいました。これは文化相対主義の問題にもつながりますね。」

「以前に英会話教室に通っていた頃、その教材に、鯨を食べることについて、という題材があったのだけれど、オーストラリア人の先生がその教材を設定した意図を汲み取らずに、自分は鯨料理を食べて育ったので、鯨料理のレシピを持って行ってしまったことがあります。英会話の先生は、文化の違いだね、という趣旨で当日は議論が流れていきました。今思うと恥ずかしいけれど、相対主義と先ほどあったが、 意識して異文化と比べることで初めてその是非を考えることができるのかな、と思いました。」

「犬を食べる文化もあるが、僕は食べられません。それは高い知能を持っているかどうかではなく、身近にペットとして見て育った土壌があるから、食べ物としては見られないからだと思います。知能とかではなく、身近なものが食べられないのではないでしょうか。」

「板橋区にジビエを出す店があって、そこにサル鍋があった。それは食用ではなく駆除されたサルが食材にされているんだけれど、駆除したものは食べてもいいかな、という思いがあります。なんでも食べてみたいという思いもあるし、生態系を維持するためにもある程度の動物を殺していかねばならない分量というものがあるのではないでしょうか。魚屋さんに「生きのいい鯨があるよ」とおしえてもらうことがあるけれど、その時は海岸に打あがってしまった鯨の肉が売られるのだと聞いたことがあるし、わざわざ漁をする場合ばかりではないらしいのです。」


「では、わざわざ漁をするのはいけないのでしょうか?」

「駆除する場合もあれば、鉄砲での狩猟を趣味とする場合もあるでしょう。趣味でも殺してはいいとは思っています。日本人の中で韓国や中国で犬を食べることを批判しているのが理由が分かりませんね。」

「すると、食べてはいけない命はないってことになりますか?」

「食べてはいけない命なんてないでしょう。食べられるものは食べればいいんだし。問題は「人間」を食べてもいいのかという場合かな。」

「なぜ人間はだめなのでしょうか?」

「人間を食べるためには、人間を殺さなければならないからね。」

「人間を食べるのは法律との戦いになるよね。」

「フランス人の恋人を食べてしまったという佐川一政が起こした「パリ人肉事件」っていうのがあったよね。これはカニバリズムの問題になるけれど。」

「それは、けっきょく病気ということになるよね。つまり人間を食べるというのは精神異常者だと。」


「以前、『いのちの食べ方』という映画を観たことがあります。その中で前の牛が泣き叫ぶ場面なんかがあるんだけれど、僕はその映画を見るまでの過程を知りませんでした。同時に、その事実を知って、殺してまで食べる必要はあるのかという思いも生じました。イルカだって殺してまで食べなくてもいいじゃないか、という思いがあるのかもしれません。」

「食糧としては間にあっていれば、わざわざ殺してまで食べずに済むかもしれないしね。」

「食糧問題とかいうのではなく、感情的な問題もあるのかなあ、と思う。」

「文学の世界には、武田泰淳の『ひかりごけ』のように、止むにやまれない極限状況下での人肉食を描く世界もあるけれど、現実に飛行機墜落事故や戦時中の気が状況下での人肉食というケースもあったでしょう。」

「人肉食だって、極限状況なら倫理的に責められないでしょうね。」

「 極限状況だったら人肉食もありですよね。だって、時々「この人を料理にしたら美味そうだな」と思うときがありますよ。でも殺してまで食べなくてもいいよね(笑)。」

「たった今、その話を聞いて人間を食べない派に決めました!というのも、 ワタシ、けっこう動物をシメルのが好きなんだけれど、シメルときに動物を怯えさせると肉がまずくなる物質がでるんですよ。だから、怯えさせないようにシメルのが大事なんですね。この理屈からいうと、おそらく人間は死ぬ間際にいちばん怯えるから、美味しくないという結論に達したからです。」

「だいたい雑食動物は美味しくないから、その点でも人肉は美味しくないでしょう。」

「すると、美味しいか美味しくないかというのが、食べてよい生命かどうかの基準になるの?」

「そう。」


「昆虫食もある。どこからタンパク質を取るかは大切ですね。」

「 近所に飼っていたウサギを食べる家があって、日々顔を合わせていたウサギを食べたりしていた。小さい頃はイナゴを食べたりしていた。つまり、何を蛋白源にするかどうかはそこの土地の持っている力に関係するんじゃないでしょうか。」

「そういえば『豚がいた教室』という映画がありましたよね。結論はどうなるんでしたっけ?」

「あれは、けっきょく子どもたちが育てた豚を自分たちでできず、業者に売ってしまうんだよね。」

「自分が育てた動物に愛着がわくと殺しにくいという面はあるだろうね。」

「その話を聞いていて思ったんだけれど、自分の母親が握ったおにぎりは食べられるけれど、友達のお母さんが握ったおにぎりはが食べにくいということを思い出しました。一方で、誰が握ったかわからないコンビニのおにぎりは抵抗なく食べられます。つまり、食べることに関しては自分の領域と全く関係のない領域との間に中間領域みたいのがあって、その領域では食べにくいということが生じるんじゃないかな。逆に、まったく切り離された領域だと抵抗なく食べられるというか。」

「先日『ある精肉店のはなし』という映画の試写会に行ってきたんだけれど、一家で自分で育てた牛をし販売まで手掛ける精肉店のドキュメンタリーで、とてもいい映画だった。その映画の中で、立っている牛をいきなりボコンと一発で額を撲り倒してするシーンがあるんだけれど、衝撃的だったね。」

「映画の中では鎮魂祭をの風景も撮影されています。そこで精肉店の奥さんが「本来なら天寿を全うするはずのものを食べる」と話す場面ががありました。日本人が牛を食べるようになったのは明治からだし、そんなに昔からの文化でもない。確かに食べなくても死なないのに牛を食べる。でも美味しいしなと思うのも事実なんですよね。印象的だったのは、彼女が牛を「殺す」のではなく「ワル」と言うし、鳥は「シメル」と言うことを強調した点です。」


「魚ぐらいなら締めたことがあるが、二つ足、四つ足は締めたことがないんですよ。実は、明日郡山で狩猟免許の講習があるんです。食べて良い、悪い以前に、自分が締めた命を趣味の一貫として(駆除ではなく)、気持ち的に美味しく食べられるんだろうか、ということを体験して、その先に答えがでるんじゃないかな、という思いがあって参加しようと思っているんです。僕らの世代は料理人でさえという場面から離れてしまっているんじゃないでしょうか。サル、牛、それぞれあると思うけれど考えなきゃならないし、でも、その考える土壌がなくなってしまっているんじゃないでしょうか。」

「シメルことに関しては、釣りをやっている人は別になんともないんでしょう?」

「それはいつ食べるかって考えてからシメル。ワカサギなんかは酸素不足で死んでいくし。鮮度のことしか考えていないね。」

「もう釣りはできないなと思ったのは、釣り堀で針が鯉の喉奥にひっかかっているのを取るのが大変で、それに苦しむ鯉を観てもう無理だと思った。」

「ブラックバスとか、食べないのに苦しませてどうするのかと思う時があります。 瞬殺するのが生き物のためなんです。」


「殺すと食べるという議論がが若干くっついていますね。植物も命といえるけれど、殺すとはいわないよね(ベジタリアンはまあいうのかも)。」

「「いただきます」という言葉は、命をいただくということでしょう。」

「食べることがだめなのか、殺すことがだめなのか、殺し方がだめなのか。打ち上げられた鯨は食べていいのかもしれないけれど、追い込み漁はいかん、ということなのでしょうか。」

「たとえばイノシシの罠の猟があって、虎ばさみとかで取るのだが、銃なら一発なんだけれど、銃を持たない人は槍でつついて殺すのが大変。血が噴き出したりして、その場面はけっこう引いちゃいます。それを見て、やるならすぱっとやってやれよ、と思いました。これ以上ないほど獲物を苦しめて、いただきますということにならないんじゃないかな。美味しくいただくためにはの仕方も大切じゃないかな。」

「 でも、一方で『いのちの食べ方』で描かれたようなベルトコンベア式の屠場で、肉牛を苦しめずに機械的にしていくのが、いのちを慈しんでいる光景だとは思えないですね。生命との向き合い方の問題でしょうか。育て方もある。『ある精肉店のはなし』では、一家で育てた牛を自分たちでするんだけれど、そこで奥さんなんかはするまではつらいっていうんだよね。でも、そのつらさも含めて自分が手掛けた生命をいただくことに向き合いながら従事しています。それに対して、屠畜工場ではそのような生命との向き合い方はないのではないでしょうか。」

「知人の乳牛生産家が、体験学習にきた中学生たちが牛一頭一頭に名前を付けてしまったんだけれど、それ以来牛を死なせるのが嫌だなと思うようになってしまったと話していました。乳牛とはいえ、乳がでなくなれば殺すことになりますからね。」

「『豚がいた教室』でもそうでした。最初は付いていなかった豚に児童がピーちゃんと名前をつけちゃってから、豚に対する愛着がわいてしまう。固有名詞がつくとどうしても、その問題が生じてしまうでしょう。」


「食べるのがだめなのか、殺すのがだめなのか、どうなんですかね。」

「たぶん、殺し方とかについて言えば、養殖・工場などで作業的にベルトコンベアで来たモノを殺すのも、最初から命と思ってないんじゃないかな。でも農家とか牧場が育てたものは命が宿っているじゃないですか。固有名詞がつくとまたレベルが違っちゃうけれど、猟師さんが鹿をしとめるときに、ある部位を一発でし止めることに命をかけている知り合いがいて、自分が一番食べるときにいい最適な殺し方をするんじゃないかな。対象に対する命の感じ方の違いがあるんじゃないか、と思います。」

「心のありどころですよね。ライオンはおなかいっぱいなときは狩りをしない。アンデスの聖餐では神の肉だといって生き延びた。植物も動物も命なので、その心の在りどころが大切ではないでしょうか。」

「殺してまで食べる必要がないじゃないかという話がありましたが?」

「必要はないけれど、それで生活している人もいます。捕鯨だってそれに関連する仕事に従事する人は無数にいます。その意味でいえば生活をするために捕鯨は必要だとも言えるでしょう。命をいただいているのだ、と意識したものは食べてもいいのではないでしょうか。」


「人間も他の動物に捕食されるなら、食べていけないものはないといえるでしょう。」

「人間が食物連鎖の王座にいるから偉そうに言っているが、イルカに補食されるのであれば、人間も食べていけないということはないという理屈になります。」

「藤原新也の「人間は犬に食われるほど自由だ」という言葉がある。インドで人間の死体を犬が食べている場面からそういったのだけれど。」

「それはある種の食物連鎖が成立しているなら、という話かもしれませんね。人間も犬に捕食される立場にあるならば、犬を食べる権利がある。けれど、いまや人間は食物連鎖の王にあるわけですから、その論理によると食べてはいけないものがあるということになりませんか?」

「基本的に人間が食べていけない命はありません。ただ、豊かな社会にあっては自主規制があるだけです。自分は食べませんが、他者が食べることを否定はしないわけです。」

「ベジタリアンも自主規制ですよね。」

「インドネシアのエビの取り方(バナメイエビ)と日本人のエビ食に関する教材を授業で扱ったときがあって、日本人のエビ食がインドネシアのや劣悪な労働環境や環境破壊を引き起こす事実を学んだ児童たちが、「今度からインドネシア産のエビは食べないようにします」となっちゃった。でも、それは豊かだから言えるんだよね。

「魚を食べる。手足がないし。エビとかカニとかありがたがるけど、私の中ではカブトムシの仲間。バクテリアも大統領も平等。カブトムシも羽生結弦くんも同じ。生命の前に万物は平等であると、そこまで見えて初めて食べられる生命はあるか否かの話しになる。それが「イルカだから」と限定的に言っているうちは議論の材料として足りないわけです。」


「どこまで食べていいのかは、生命と別に考えてもいいのかなと思います」

「配布資料の新聞記事にもどると、人間にどれだけ近いかというのがあるけれど、並べた時にどこに線引きするかは、文化の問題というか難しいというか、それぞれあるのではないでしょうか。」

「生命維持とは離れたところで食文化があるから、食べたくないモノを食べないという取捨選択も可能だし。」

「食文化の歴史は、壮大な命懸けの実験の繰り返しの成果ですよね。」

「キノコとか無数の人が死んでますよね、人間の先輩たちの遺産の上に今の食文化が成り立っていると思います。そう考えると、食べてはいけない食料はないと思います。ただし、食糧ではなくて生命と考えたときに、「いただきます」と命をいただくという意味でいいんだけれど、今はそれ(命の部分)が見えてしまうと食べられないという人が出てきたという問題があるのではないでしょうか。たとえば、生ハムで豚の足が見えると食べられないという人もいます。」

「だいぶ経済がからみますよね。飽食の時代といっても、世界的に見るとまだまだ食べられない人もいる。」

「生まれる、生きている。それはどちらも「生かされている」のではないか。自分だけでは生きているのではない。他の生命によって生かされいるし、自分もまた他の生命のために存在しているという、そういう謙虚さが必要なのではないでしょうか。」

「いまの意見に共感しました。食っていけない命はやっぱりありません。」

「その命の感覚がなくなっている。」

「まさに。昔年に1回謝肉祭があったけれど、年に1回食べるとか年に1回感謝するとか必要なんでしょうね。」

「足が見えると食べられないという人がいる反面、自分が育ててきた牛を割るという人たちもいます。ここにある肉がどういう由来できたのか、と自覚しているかしないのかが大きいのではないでしょうか。」

「分かっていると食べられないというのと、分かっていて食べるということの違いもあります。自分で獲物を捕る人もいるし、買って食べるしかない人もいるが、機械的にというのではなく、過程をときどき思い出すっていうのがあれば、ただモノとして食べるというのとは違うかな、と思います。」


「するのに躊躇するのも人間だが、食べなきゃ生きられないし、食べれば美味しいと思うのも人間でしょう。その逡巡の過程を失ったところに食と生命に対する違和感があるのではないでしょうか。これは、実は過食症と拒食症ってそれと繋がっているように思っています。コンビニで買ってきた食糧を大量に食べてから、すべて吐き戻すという症状は、どこかその食と生命とのあいだが抜けてしまった文化の帰結の一つであると思うのです。」

「人間の都合で食べられるためだけに作られた命は、食べてはいけない命にカウントされてしまいますよね。放牧牛をたべさせてもらったことがありますが、その肉を食べるとどんな飼料を与えたか味で分かります。みんながありがたがっている牛肉は以外と飼料の味だったりするんですよ。飼料を調合して食わせたりする。それがすでに命を冒涜しているみたいな感じがある。食べていい命といけない命というところで意識するのは、大事に育ててつぶす牛だったり、自然の中で虫やコケを食べたものならば全うした命という感じがある。そこに工業製品的命とは違うのかなと思います。」


当初、大雪に見舞われたりや哲学バーになったりと、どうなることか心配されましたが、終わってみれば、かなり危険な議論から食に携わる専門家の意見まで深い議論が展開されました。
今回は常連Sさんのお力を借りて、対話をそのまま採録する報告とさせていただきましたが、いつも以上に哲学カフェがどのような場であるかお伝えすることができたのではないでしょうか。
速記録をしていただいたSさんには心より御礼申し上げます。
また、このような天候不良にもかかわらず、1次会から3次会までおつきあいいただけました皆様には改めて御礼申し上げます。
次回てつがくカフェ@ふくしまは、震災・原発事故をめぐる第4回特別編です。
詳細は後ほどブログへアップしますので、多くの皆様にご来場いただけることを心よりお待ち申し上げます。