てつがくカフェ@ふくしま

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対話と珈琲から始まる思考の場

第8回カフェ報告

2012年01月22日 11時20分27秒 | 定例てつがくカフェ記録
 

第8回てつがくカフェ@ふくしまは、雪が降りしきる中、サイトウ洋食店に21名の方にお集まりいただいて開催されました。
テーマは「幸せって何だろう」。
誰でも話しやすいテーマだろうし、震災以来〈幸せ〉をめぐって考えない人はいなかったのではないか。
そんな思いでこのテーマを設定させていただきました。

さて、割とハッピーな気持ちで対話が交わされるかなと思われたこのテーマですが、思いのほか対立点が際立つ話し合いとなりました。

まず〈幸せ〉については2つの〈幸せ〉概念が挙げられました。
一つは、過去の不幸だった自分と比べることでわかる〈幸せ〉です。
それは過去の自分をふり返ることによって認識できる「考える幸せ」であり、時間的な距離を置いて対象化できる〈幸せ〉のことです。
すると、〈幸せ〉とは不幸な状態があってはじめて成立するものということになりそうです。
「〈幸せ〉と不幸は表裏一体である」、あるいは「〈幸せ〉と不幸は段階的に連続しているものだ」との意見も同様の趣旨として理解してよいでしょう。
ただし、それは必ずしも自分の不幸な状態との比較に限られず、たとえば戦争のニュースなど外部情報との比較を通じて認識できるものだとの意見も出されました。

一方、〈幸せ〉は不幸があってはじめて際立つのかといえば、そうではない〈幸せ〉の瞬間もあるようです。
たとえば、ある晴れた日に縁側でぽかぽかした太陽にあたっているときに「しあわせだなぁ~」と、ふと感じる瞬間などがそうでしょう。
その瞬間は何かとの比較ではなく、それ自体としての〈幸せ〉というべきものです。
そして、それは不幸との比較ではなく、「自然」と心にわいてくるものであり、その意味で「瞬間的な幸せ」と名づけられました。
一見、この〈幸せ〉観は〈幸せ〉は持続するものではないという定義にもつながり、したがって人生はこの〈幸せ〉と不幸をくり返す不断のプロセスであり、絶頂期に行ったかと思えばそこから不幸に移り変わるいう〈幸せ〉観とも結びつきそうです。
しかし、その意見によれば、そのようなプロセスとは切り離された「絶対的な〈幸せ〉」があるというのです。

この他にも、「やりたいことができる状態」、あるいは「やりたいことがある状態」が〈幸せ〉であるとの意見、さらには「家族のためにする満足が〈幸せ〉」との意見も出されました。
そこで共通するのは「満足感」あるいは「自己満足」というものです。
すると、それは「家族のため」と称しつつ、実は家族にとっては傍迷惑な場合もあるのではないか。
つまり、本人と家族とのあいだに〈幸せ〉感のズレがあるのではないか。
そのような疑問に対して、そこにズレが生じることが認められ、その意味で「家族のための〈幸福〉」とは、すなわち自分にとっての満足であるとの意見が示されました。

ここから「〈幸せ〉とは本人がその事柄についてどう思うかの問題である」という明快な命題が引き出されます。
そして、その根底には〈幸せ〉とは人によって感じ方が異なるものであり、人の数だけ〈幸せ〉感(観)があるということになります。

ところが、この命題が確定された直後、異論が提起されました。
それによれば、各人がそれぞれの〈幸せ〉を追求していったとき、他人の〈幸せ〉が衝突することで不幸な事態が生じる問題もあるのではないかとのことです。
さらにいえば、これは「他人に迷惑をかけても幸せは成り立つのか」という問題に突きあたることになります。
この問題については、たとえばストーカーの例が挙げられました。
ストーカーは追いかける相手に執着することを〈幸せ〉と感じているかもしれないが、相手にとってそれは迷惑以上の不幸に他なりません。
果たしてこれを〈幸せ〉といえるのか。
あるいは、パレスチナ問題に対して、お互いが領土確保によって〈幸せ〉を得ようとするなかで、凄まじいまでの殺戮がくり返される状態を、私たちは〈幸せ〉と呼ぶことはできないでしょう。
ここには「他者の了解」を得ることで成り立つ〈幸せ〉もあるのではないかということになりそうです。
さらには、〈幸せ〉という言葉が自分の気持ちを表現することに違和感を覚えるとの意見も出されました。
あくまで、それはある事柄や事態を客観的にみて評価する際に用いる言葉ではないかというわけです。
すると、「第三者的な視点」によって〈幸せ〉は評価されうるのかもしれない。
そのような視点も浮かび上がりました。

両者の〈幸せ〉観の相違を言い表せば、「主観的な〈幸せ〉」と「客観的な〈幸せ〉」、あるいは「自分にとっての〈幸せ〉」と「みんなにとっての〈幸せ〉」ということになりそうです。
さらにいえば、前者の〈幸せ〉観が個人の心理状態の評価を指すのに対して、後者が「事柄の状態」の評価を指す点に相違があるようです。

さて、こうした異なる〈幸福〉観が明確されたことで、議論は相互に何が違うのかについて展開しました。
まず、「みんなの〈幸せ〉」を想定した場合、結局それは「最大公約数」を集約することになるだけであって、小数の〈幸福〉を疎外しかねないし、無理が生じるという意見が出されました。
また、〈幸せ〉を決めるのは「方向性」の問題であり、その「方向性」を決められるのは結局本人しかできないという意見も出されます。
これについてストーカーの例を考えてみれば、ストーカーにとっての〈幸せ〉は「追いかける」という「方向性」に〈幸せ〉が見出されるのであって、追いかけられる相手と結ばれること、つまり「他者(相手)の了解」を獲得することが〈幸せ〉になる条件ではないということになります。
結局は、その人が〈幸福〉になるためには、その人がどのような対象に向かっていくか選択するものであるし、その意味で言うと「自分がやりたいことができる状態」という〈幸せ〉の定義がしっくりくるとのことです。
さらに、その状態が実現するために自由な場や環境という下地が必要であるとの意見も付け加えられました。
ここには〈幸せ〉とは本人にしか知り得ないものであり、持続できるかどうかは「個人の基準」や取り組み次第ということになるとの考え方が示されています。
そして、そこにおいて「他者(第三者)の目(評価)」は自分の〈幸福〉に対して限界づけるものでしかないということになります。

ここには〈幸せ〉が「自由」と関係することが示されているようです。
個人の選択の自由を保障することが、結局は「みんなにとっての〈幸せ〉」になるのではないかという意見もこれに近いでしょう。
ただし、これに対しては自由の保障が必ずしも〈幸せ〉を可能にする必要条件ではないとの意見も出されました。
たしかに、自由が保障されている社会は〈幸せ〉を可能にする十分条件ではあるかもしれないけれど、それによって皆がみんな〈幸せ〉になっているとは限らないというわけです。
では、そうであるとすれば〈幸せ〉は何によって可能になるのでしょうか。

このあたりから議論は、「〈幸せ〉は個人的なものだから国が何をしなくてもよいのか?」という「みんなにとっての〈幸せ〉」の問題にシフトされました。
たとえば、民主党の管直人政権は「最小不幸社会」の政策的実現を標榜しました。
そこには、たしかに〈幸せ〉は個々人によって異なるのであろうけれども、やはり客観的にみて「不幸」であるものを放置しておいてよいのかとの問いがあります。
憲法25条には「最低限度の生活」の保障が規定されています。
それは「衣食住」の確保というレベルかもしれませんが、たしかに客観的な〈幸せ〉を確保するための条件が示されているものともいえます。
また、自分の力で〈幸せ〉は実現するものという意見に対しては、個人の力ではどうしようもない「不条理」による不幸を個人の問題に還元することに違和感を覚える意見が出されました。
それによれば〈幸せ〉は個人の力で何とかなるとしても、不条理に襲ってくる不幸はいかんともしがたい問題をどのように考えるべきかという視点です。
これに対しては、それは受け入れるべきものであって、いちいち不条理を理由に「他者の評価」が介入すべきではないという意見も出されました。
では、いったい政治は何を目指すべきなのか。皆が目指す〈幸せ〉というものはないのか。
「みんなの幸せ」を放棄することへの違和感が、やはり示されます。
そこにはすべてを自己責任に還元して、他者に関与しないことをよしとする社会への違和感が表明されているように思われました。
しかし、一方で「〈幸せ〉は個人の基準である」という考え方を放棄してしまえば、社会すべてが一方向の価値に向くように強制される全体主義的な違和感も残るでしょう。
個人の〈幸せ〉の追求を阻害しない形で、しかし誰にとっても共有できる〈幸せ〉を政府が必要最低限補完できるような社会は可能だろうか。
果たせるかな、〈幸せ〉の問題は政治的な自由と平等の問題へと接続していくような展開となっていきました。

ファシリテーターから見れば、この両者の立場は対立しつつも、どこか共有している部分があるように思われ、その異同について、もう少し明確化できればよかったのですが、残念ながら毎度のこと時間切れとなってしまいました。
消化不良感は毎度のことですが、ぜひこれをきっかけに〈幸せ〉について考え続けていき、また新たな考えが思いついたときブログのコメントにでもお考えをお寄せいただければ幸いです。

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4 コメント

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平成24年1月21日 幸せって何だろう  (T)
2012-01-22 17:34:18
とても興味のある問いで是非とも参加したかったのですが、あいにく都合がつかなかったので勝手にコメントを入れさせていただきます。
今回のお題もとても身近で、すばらしい問いだと思いました。
僕の中では、日々生きていく中でなんとなく事がうまくいかない時に浮かび上がってくる疑問が、この問いです。(思えば2年前に小野原さんのNHKカルチャースクールを受講しようと思った動機は、哲学がその当時の自分になんらかの示唆を与えてくれるのではないかと期待したからだったと思い至りました。「生きにくさ」を感じると表現したのを今改めて思い出しました)

さて、もしも あなたは今幸せですか? との問いを投げかけられたら、まあまあ幸せだと自信をもって答えることが出来ます。2年前もやはり、まあまあ不満のない程度には幸せではあったのだと思います。今も答えはそんなには変わっていないのですが、今の方が少々満足度は上がっている気がしています。(小野原さんにお会いして人生が変わったというのは少し大げさかもしれませんが、お会いしなければ哲学カフェの存在を知ることもなかったでしょうし、小野原さんのブログも見ることはなかったと思います。)

そこで本題の 幸せ ですが、僕にとっての出発点は小野原さんのブログになってしまいます。哲学カフェにあっては、この出発点すらジャーゴン(?)かもしれませんが、あえて今回はここから僕の思考をスタートさせていただきます。
小野原さんのブログの中には、とても大雑把過ぎて正確な表現ではないのですが、<願望が叶うことが幸せである>というのがあったと思います。これはまさにその通りだと思えます。たしか、それに続けて 幸せになるためには 欲求を小さくして、その状態に満足を感じるようにすればよい という幸福論があったと記憶しています。(とてもいい加減な引用で大変申し訳ありません)

この定義及び方法論に関して僕的には全く異論がありません。
その通りだなぁと心から納得しています。しかし、自分の生き方としてそのようには生きたくないと思ってしまうのです。だから生きていくうえで衝突したり、問題が起こって「生きにくさ」を感じたりするのだなぁということが分かってきました。
生きていくうえで、初めから小さく求めて、現状を肯定することは、何となく自分的に味気なくてつまらないようにも思えてしまいます。往生際が悪いけれども、目標を高く掲げて実現しなくてもやり続けて努力することが幸せと思い込めればそれでも良いのではないかと思う自分もいるわけです。つまり、願いがかなうことは幸せなことであるとは思うけれども、満足できていることが幸せであるとは限らないような気がしています。

だからといって実際の現実生活の中では、どうせ実現はしないだろうと諦めて挑んでいない自分を発見することが往々にしてあります。そして必ずしも自分は歯を食いしばって頑張ろう!なんてことはさらさら思っておらず、適度に努力をしている程度で生きているような気がしています。
まあ、現実に対してありのままにそのままに生きていくのが止められない自分という存在を擁護する立場においては、小さく望んで過度に期待せずに満足しようということが非常にいい落とし所だなあと思っているのです。今、自分が抱える問題が分相応で、丁度いい程度なのだろうから、その問題そのものや「生きにくさ」を大事にして味わっていこうという気でもいるのです。

一度しかない人生ですから、たのしく生きていきたいとは思っています。
小野原さんのブログにも「哲学をすることで楽に生きられるようになりました」という文があったと記憶しています。楽しいということが、満足よりもより幸せに近い気がしています。しかし たのしく というのも自分が思うにその4分の1は く(苦) が混じっているような気がしています。逆に苦しさも内包していないと、本当の意味で楽しくなれないのかなと考え到りました。

言葉遊びみたいになりましたが、小野原さんの定義から出発した僕なりの 幸せ の定義は、 幸せとは 辛さに 一(横棒)を足したものです。になりました。
辛さの上の方に何か横棒が加われば、幸せ だし、幸せ から何か一つ無くなれば 辛いです。辛さも幸せもほとんど同じ(基礎とか母体)もので、そこに何かのきっかけや物の見え方次第で変化するのかなあと思えます。
何だか、演歌の歌詞にでもありそうな駄洒落みたいな定義になってしまいました。


また今回の 幸せ を別な言語で考えてみると HAPPY でしょうね。
僕の定義は漢字に立脚しているのでおそらく英語圏の方々のとらえ方とは、かなり違うものになると想像されます。




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Tさんの書き込みから (ししまる)
2012-01-26 04:07:14
書き込み拝見して、また考えました。
願望のスケールを小さくして、幸福感を得る話、確かに私としては、ずっとなんだかスッキリしなくて…
てつカフェで、この話出た記憶があるのですが、幸福に向かう努力の過程もまた幸福という論。
今、自分は、その過程にいるつもりで、イロイロもがいて楽しいです。
まさおさまのブログの願望のスケールを小さくするという論は、てつカフェで出た、 一瞬の幸せに近い、なんだか身近な、そしてプロセスが深くない、幸せ?単発の幸せの話かな?とも考えました。
例がヤクルトが一点とるとかいう内容だったような?私で言うと、まさおさまに「バカだな」って言われた時です 照
まさおさま、今週の金曜日に福島へ行きますので、研究室奇襲します 笑
追伸。純せんせー、報告お疲れ様でした。
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幸福論 (まさおさま)
2012-01-27 03:16:21
私はカントの幸福の定義に立脚して自分の幸福論を立てていました。
「自分のすべての欲求・欲望が満たされて、自分の状態に満足していること」。
この定義は未だに私にとっては一番納得のいくものです。
これに基づいて、幸福になる方法論として、「1.自分の欲求・欲望を小さくすること」 と、
「2.満足しやすい精神状態を作っておくこと」 を提唱しました。
「欲求・欲望を小さくする」 というほうは、あまり皆さんに理解していただけなかったので、
表現が適切ではなかったのかなと反省しているところです。
言いたかったのは、自分がコントロールできる範囲内のところに目標を置くということです。
試合に勝つことを目標にしてしまうと、これは相手があることだし、
集団競技の場合はチームメイトの出来不出来にも左右されてしまうので、
その欲求が満たされるか満たされないかは五分五分にならざるをえません。
しかし、いいプレーをするという目標であれば、これは自分の努力でコントロールできますので、
偶然の要素を少なくして幸福になれる可能性が高まります。
しかも、プレイヤーの1人ひとりがいいプレーをすることに集中できれば、
結果的に試合に勝つ確率も高まるだろうと思います。
ただみんなが試合に勝つことを目標にしている場合よりも、何重もの意味において、
幸福になる確率が高まるだろうと思うのです。
結果ではなく過程に喜びや価値を見出すようにするというのも、
自分がコントロールできる範囲内のところに目標を置くことの一例だと思っています。
結果が得られなければ不幸だと思うのではなく、
プロセスで得られる一瞬の幸せを確かに感じ取りながら、だからこそそれを継続していくことができ、
それを続けていくことのできたその先にはひょっとすると大きな成果が得られて、
大満足できてものすごく幸福になれるかもしれないし、
(これが英語のhappy、つまりhappen=たまたま生じる幸せでしょう)
たとえ大きな成果は得られなかったとしても成長した自分は残っているはずで、それはそれで幸福、
というのが私の言いたかったことでした。
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幸せの種を蒔こう~哲カフェに参加して (最期のあいさつ)
2012-01-28 02:37:47
第8回哲カフェ開催をラジオで聴き、初めて参加させて頂いた者です。忙しない普段の仕事を暫し忘れ、とても充実した時間を過ごすことができました。有難うございました。正直、クセになりそうです...(笑)

哲カフェからおよそ一週間、私も恐縮ながら自分の「幸福論」を整理・再考してみました。以下、最後までご覧頂けたら幸いです。

哲カフェでも申し上げましたが、幸せ(最低限)とは「自分自身のやりたいことができる状態」であり、これを段階的に大きくするのも、小さくするのも「自分」の主観的な意思決定しだいである、と考えます。またそうした最低限度の幸せこそ「みんなにとっての幸せ」であり(これ以上は求められない)、これを保障するのが立法者の責務と心得ます。

上記の持論をもっと柔軟に解釈するならば、各々個人の幸福追求は1個の「果実」を「育て上げる」ようなものと表現できるかもしれません。「果実」とは幸せを意味し、「育て上げる」とは幸せになるまでの過程(プロセス)を意味します。

では、果実を育てるにはどうすればよいか。

まず肥沃な土と豊かな水、そして日光が必要です。かような立地の良い土壌こそ「自由」または「平和」であり、立法者はこの土壌を常に保持する役目を担います。仮に養分の少ない土地に果樹を植えても、自分の思うように果実は収穫できないでしょう。歴史的に比較しても、何十年何百年もの間、旧体制に「自由」を支配され、懊悩し続けてきた市民を慮ると、現代の社会環境がいかに恵まれているかが想像できます(格差など、自由が故に起きる現代の問題は抜きにして)。
次に果実の種を蒔きます。これこそ持論でご紹介した「主観的意思の決定」を意味し、最も重要な点といえます。即ち、①「自分にとっての幸せとは何か」という抽象的な問題を自問し(あれ?哲カフェのテーマに似てますね)、そして①が満足されたと仮定した場合、②幸せの主体(自分・他者<家族・国家・経済的弱者等>)になる者(物)は誰(何)かを確認します。哲カフェで出たストーカーの例で、私が「ストーカーは『追いかける』ことに幸せを感じるのでは?」と発言したのは、幸せの照準をストーカー自身にしか合わせていないと考えたからです。本当に被害者を想い、愛しているのならば、そんな犯罪はするはずがありません。従って「種蒔き」は一歩間違えば、自己のその後の人生を左右しかねない程意味があると考えます。なお「他者」を巻き込む幸せは規模が大きくなる程実現は難しくなります。なぜか。もし他者も人間であれば、彼も自分と同じく幸せの種を蒔くからです。幸せの「種」が同じであれば共同で果実を育てることもできますが、違っていればそこに齟齬(哲カフェで出た「本人と家族との間の幸せのズレ」)が生じるからです。
種を蒔いたら、あとは果実になるまで懸命に育てていきます。その「育て方」も各々一様にはいかないでしょう。
哲カフェにて、「いかんともし難い『不条理』」や「他者の目(評価)」によるいわば不幸が自身の幸せを阻害・制限されるのでは?という意見がありました。私は「これらをいちいち論っては、自分の幸せに対しての限界をつけるものでしかない」と発言しました。これについては「ちょっと言い過ぎた部分もあったかな…」と反省してますが、でも「不条理」と嘆き悲しむのも自分の意思決定しだいだし、それをまた評価するのも他者しかいないと考えると、そういう時間があれば、少しでも幸せの果実を育てる方に神経を注いだ方がいいです。それでもなお、自分の育てた果樹が不条理という不可避な「天災」に遭うことで腐食し、実がならなかった(自分の幸せを掴めず、断念した)としても、また新しく幸せの種を蒔けばよいのではないでしょうか。そして過去の苦い失敗を生かして、今度は太い幹となり果実を実らせた(幸せを掴んだ)時、失敗を含む今までの経験(幸せを掴むまでのプロセス)すらも幸せと感じることができるのではないでしょうか。ここに幸・不幸は「表裏一体」といわれる所以があると私は考えずにはいられないのです。

以上、第8回哲カフェに出た話に沿って私の幸福論を書いてみました。最後までご覧頂き有難うございました。









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