平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

天地人 第15回「御館落城」

2009年04月13日 | 大河ドラマ・時代劇
 景虎(玉山鉄二)のせりふが悲愴。
 「兄を頼っても裏切られるのがオチ」
 「私には人を信じ抜く力が残っておらぬ」
 「我、生き過ぎた」

★<絶望>というのはこういうことを言うのでしょうね。
 人に裏切られ続けて誰も信じることが出来ない。
 どんな言葉も受け入れることが出来ない。

 確かに息子を殺されたことは決定打だったでしょう。
 仙桃院(高島礼子)の言葉を受け入れ降伏。
 景勝(北村一輝)を信じてみる気持ちになる。
 それが景虎の最後の人を信じる行為。
 しかしその人質に差し出した息子・道満丸(村山謙太)が殺される。
 これで人間への信頼という糸がプツリと切れた。
 それは降伏を潔しとしない景虎側の人間がやったことだとしてもその言葉を受け入れることが出来ない。
 景虎の心の中はもはや<怒り>とか<憎しみ>とかのレベルではない。
 <怒り>や<憎しみ>はまだ人間の<愛情>を求めているから起きる感情。人間を信じているから起きる感情。だって人を愛し信じようとしなければ裏切られたという感情とそれに伴う憎しみや怒りはないわけですから。
 そして今回の景虎の心の中はそれを通り越した<哀しみ>と<諦め>。
 もはや涙も出て来ない。
 こんな絶望を味わう前に死んでしまえばよかった(「我、生き過ぎた」)。

 我々は日常生活で<落ち込む>ということはあるが<絶望>という体験は滅多にない。
 その<絶望>を描いたことで今回のお話はなかなか。

★ただそんな絶望の中にあって華姫(相武紗季)の存在は唯一の救いであったでしょうね。
 「どこまでも華はお側にいたいのでございます。あの世までお供させて下さいませ」
 景虎にとっても華姫の側が「おのが身の置き所」。
 華姫の存在が景虎の人生の光であった。
 
★そして生きることの怖さ
 人生というのはちょっとした<ボタンの掛け違え><歯車がひとつ狂う>ことで別の方向に行ってしまうのですね。
 景虎が多くを望まず、華姫の側にいることが幸福と考えていたらこの悲劇は起こらなかった。
 兼続(妻夫木聡)の本丸占拠の時、少し立ち止まって考えてみたらその後の人生は変わっていた。
 そして何よりも景勝と腹を割って話していたら……。
 そんなことを考えさせてくれます。
 人が生きるには景勝ぐらい自己主張せず慎重な方がいいのかもしれません。

 今回は兼続の描写が少なかった分、ドラマになっていた感じがします。
 兼続が入ると話がややこしくなる。
 主役としてこれでいいのか……。
コメント (7)
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