映画「マトリクス」3部作を再見した。
われわれが生きている世界はAIが作りだしたヴァーチャルレアリティの世界。
われわれが見て感じている世界はAIが作りだした仮想世界。
これは画期的な設定でしたよね。
はじめて「マトリクス」を観た時、本当に驚いた。
主人公たちがいる世界は1991年だが、実はこれは仮想世界。
現実は核で汚染され、AIが支配する2199年の不毛世界。
なぜそうなったかと言うと、AIが人間について次のように考えたから。
・人間は環境を考えず繁殖する。
・人間は資源を食い尽くして繁殖する。
・人間は地球にはびこるウイルス、病原菌だ。
・われわれAIはその治療薬だ。
つまり人間は害悪だから「仮想世界の中で生活させて管理してしまおう」ってわけだ。
……………………………………………
さて、ここでAIの支配に反抗する人間たちが出て来る。
・モーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)
・トリニティ(キャリー=アン・モス)
といった人物だ。
彼らは現実を知って、「人間はマトリックスから解放されて自由に生きるべきだ」と考える。
現実を知った人間たちが集まる「ザイオン」を拠点にしてAIに対して戦いを挑む。
その戦いの救世主と目されているのが、〝ミスター・アンダーソン〟ことネオ(キアヌ・リーブス)だ。
AIにとって、彼らはプログラムを阻害する「バグ」なんですよね。
だから排除して修正しようとする。
だからエージェント・スミス(ヒューゴ・ウィーヴィング)を派遣する。
そして、この現実を知った主人公は選択を迫られる。
・マトリクスの世界でトーマス・アンダーソンとして安楽に生きるか?
・厳しい現実と戦い救世主ネオとして生きるかの?
これが「赤い錠剤」と「青い錠剤」の選択だ。
第1作「マトリックス」では主人公が葛藤の末、〝ネオ〟を選択する所で終わる。
………………………………………………
さて、ここで考えたい。
「マトリックス」はアクション映画としてとんでもなく面白い作品なのだが、
それで終わらせずにいろいろ考えたい。
まずはAIは主張している人間観。
「人間は地球にはびこるウイルス、病原菌だ」
確かにそうなんですよね。
聞いてあまり面白くないことだが、AIの主張は当たっている。
一方、支配から脱して自由を求めるモーフィアスたちの主張。
モーフィアスたちの主張は一理あるんだけれど、
「マトリックスの仮想世界に生きた方が楽しいよね」とか
「戦いで命を落とすかもしれない現実に生きるのはきついよね」とか
「自由は地球を消費して汚染することに繋がるからどうなんだろう?」とか
「そもそも人は何らかの幻想の中に生きているから仮想世界に生きているのと同じ」とか
考えてしまう。
管理か? 自由か?
空想世界の楽園か? 厳しい現実か?
トーマス・アンダーソンは後者の道を選んで〝ネオ〟になったわけだが、
映画やドラマやアニメや小説に浸っていたい僕としては前者にすごく魅かれる。
さて皆さんはどちらを選択しますか?
※追記
第2作「リローデッド」では第1作の世界観を深掘りしているので後日書きます。
※追記
同じテーマを「攻殻機動隊」シーズン1・12話で描いている。
関連記事
「攻殻機動隊~映画監督の夢」(本ブログ)
※追記
「進撃の巨人」も同じテーマを描いていますよね。
壁の世界に安住するか? 壁の外に出て戦って自由を求めるか?
われわれが生きている世界はAIが作りだしたヴァーチャルレアリティの世界。
われわれが見て感じている世界はAIが作りだした仮想世界。
これは画期的な設定でしたよね。
はじめて「マトリクス」を観た時、本当に驚いた。
主人公たちがいる世界は1991年だが、実はこれは仮想世界。
現実は核で汚染され、AIが支配する2199年の不毛世界。
なぜそうなったかと言うと、AIが人間について次のように考えたから。
・人間は環境を考えず繁殖する。
・人間は資源を食い尽くして繁殖する。
・人間は地球にはびこるウイルス、病原菌だ。
・われわれAIはその治療薬だ。
つまり人間は害悪だから「仮想世界の中で生活させて管理してしまおう」ってわけだ。
……………………………………………
さて、ここでAIの支配に反抗する人間たちが出て来る。
・モーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)
・トリニティ(キャリー=アン・モス)
といった人物だ。
彼らは現実を知って、「人間はマトリックスから解放されて自由に生きるべきだ」と考える。
現実を知った人間たちが集まる「ザイオン」を拠点にしてAIに対して戦いを挑む。
その戦いの救世主と目されているのが、〝ミスター・アンダーソン〟ことネオ(キアヌ・リーブス)だ。
AIにとって、彼らはプログラムを阻害する「バグ」なんですよね。
だから排除して修正しようとする。
だからエージェント・スミス(ヒューゴ・ウィーヴィング)を派遣する。
そして、この現実を知った主人公は選択を迫られる。
・マトリクスの世界でトーマス・アンダーソンとして安楽に生きるか?
・厳しい現実と戦い救世主ネオとして生きるかの?
これが「赤い錠剤」と「青い錠剤」の選択だ。
第1作「マトリックス」では主人公が葛藤の末、〝ネオ〟を選択する所で終わる。
………………………………………………
さて、ここで考えたい。
「マトリックス」はアクション映画としてとんでもなく面白い作品なのだが、
それで終わらせずにいろいろ考えたい。
まずはAIは主張している人間観。
「人間は地球にはびこるウイルス、病原菌だ」
確かにそうなんですよね。
聞いてあまり面白くないことだが、AIの主張は当たっている。
一方、支配から脱して自由を求めるモーフィアスたちの主張。
モーフィアスたちの主張は一理あるんだけれど、
「マトリックスの仮想世界に生きた方が楽しいよね」とか
「戦いで命を落とすかもしれない現実に生きるのはきついよね」とか
「自由は地球を消費して汚染することに繋がるからどうなんだろう?」とか
「そもそも人は何らかの幻想の中に生きているから仮想世界に生きているのと同じ」とか
考えてしまう。
管理か? 自由か?
空想世界の楽園か? 厳しい現実か?
トーマス・アンダーソンは後者の道を選んで〝ネオ〟になったわけだが、
映画やドラマやアニメや小説に浸っていたい僕としては前者にすごく魅かれる。
さて皆さんはどちらを選択しますか?
※追記
第2作「リローデッド」では第1作の世界観を深掘りしているので後日書きます。
※追記
同じテーマを「攻殻機動隊」シーズン1・12話で描いている。
関連記事
「攻殻機動隊~映画監督の夢」(本ブログ)
※追記
「進撃の巨人」も同じテーマを描いていますよね。
壁の世界に安住するか? 壁の外に出て戦って自由を求めるか?
>われわれが見て感じている世界はAIが作りだした仮想世界。
光瀬龍の小説「百億の昼と千億の夜」では、遠い未来、崩壊する宇宙を救うために主人公たちがあちこちを回るのですが、とある宇宙人種族が、環境悪化の対策として、自分たちをAIに管理させる星があったりしました。
そのAIに身を委ねると、カラダは冷凍睡眠で保管されるだけの状態になり、人格や思考は符号化してAIの中に入ります。この方が省エネだからです。
ただ、長い時間が経つうち、この宇宙人たちは自分たちがAIの中に入っていることすらも忘れ、AIを神と呼ぶようになります。符号化されてAIに取り込まれた状態は「極楽往生」なんでしょう。
ここで面白いのが、AIに符号化されているA級市民のほかに、AIから符号化を拒否されているB級市民が存在していることです。B級市民は実はロボットで、A級市民と違って「夢を見られない」ために、符号化が不可能だったというオチが明らかになります。
それにしても、環境悪化の対策として人間をデータ化して「保管」しておけば、生存に要するエネルギーを極小化するというアイディアが、1960年代くらいからあったわけです
今の時代から見ても、構想が非常に骨太です。
教えていただきありがとうございます。
意識のデータ化。
映画「マトリックス」のベースになったギブスンの「ニューロマンサー」にも同じ設定がありますよね。
それは「攻殻機動隊」にも。
「ニューロマンサー」の出版は1984年ですからギブスンは「百億の昼と千億の夜」を読んだのかもしれませんね。
機会を見つけて読んでみます。