この「応仁の乱」シリーズは、私の中にしっかりとした定見があって、それを少しずつ披歴しているわけではないんですよね。書きながら考えてる、書くことで練っていってるところがあって、それでこんなに時間がかかる。「雑談」と銘打っている所以ですが……。せめて週イチくらいで更新したいと思ってるんだけど、そんなぐあいで遅々として進まない。他にやることが色々あるとか、そもそも根が怠け者だとか、そういった理由もありますが。
だいたい室町時代って馴染みが薄いでしょ? 大河ドラマで滅多に取り上げないのは前にも述べたとおりだし、サブカルのほうでもね……。ぼくがこの時代に関心をもつきっかけとなった『どろろ』以外だと、子どもの頃にテレビでやってたアニメの『一休さん』くらいじゃないかなあ。あれは足掛け8年ばかし続いたけども、ぼくはあいにくソロバン塾に通っててあまり観られなかった。それでも好きなアニメだったんで、走って帰ってよく途中から観てた記憶があるね(若い人のために念を押しとくと、まだ家庭用のビデオはぜんぜん普及してません)。
いま思えばあそこに出てきた「将軍様」って3代義満だったんだよね。どうりで金ピカの衣装を着ていたわけだ(笑)。当時はこっちもまるきり子どもだったんで、そんなこともよくわかってなくて、ただ、「なんか普通の時代劇とは違うなあ。」と感じてはいた。実在の一休宗純和尚は1394(明徳5)年の生まれで、アニメの一休さんは8歳くらいの設定だっていうから、史実に従えばあれはちょうど西暦1400年ごろのお話ってことになる。江戸開府に先立つこと実に2世紀ですね。そして舞台は江戸ではなくて(まだ太田道灌が江戸城を築く前だから、当時の江戸はそんなには開けていない)、京の都であったわけだ。
それでも、幕府御用達の豪商である桔梗屋さんをはじめ、あそこに出てくる町衆たちはじゅうぶんに文化的な暮らしを営んでましたね。とはいえ初期の頃には戦災孤児とか、「いくさによって家を焼かれて行き場を失った人たち」なども描かれており、社会的な階層ってものにもきちんと目配りがなされていた。一休さんが社会の矛盾を憂いて、錫杖の先に髑髏(しゃれこうべ)を掲げ、正月に浮かれる町なかを「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と唱えながら練り歩いてみんなから石を投げつけられるショッキングな回もあったりね。
しかし戦火はさすがに京の市内までは及ばなかったわけで……。ほぼ70年後の応仁の乱のさい、桔梗屋さん(店がちゃんと存続してればの話だけど)やほかの町衆たちはどんなことになって、どんな生活を送ったのか、かなり気になるところですが。
最新の研究によれば、「京都一面が焼け野原になった。」「焦土と化した。」という表現は大げさで、たしかに無傷では済まなかったにせよ、わりと被害の薄い地域も多かったっていうんで、意外と無事だったのかもしれないね。もしくは、仮に屋敷や蔵が焼けても、従来からのコネクションや蓄財をつかって早々と復興したのかもしれない。スクラップ・アンド・ビルドってやつで。
前回の話に絡めていうと、たしかに不安定要素は山ほど抱えていたけれど、15世紀ともなると社会の「システム」はもはや相当に強靭なものになっていたってことでしょうか。ちょっとやそっとじゃ揺るがない。慢性疾患みたいな中~小規模の戦闘が10年にわたってだらだらと続いてるのに、ひとびとはそのことすらも織り込みながら、逞しく、したたかに日々を送ってたってことなんですかね。そういう理解でいいのかなあ。
歴史観ってものは人それぞれに違うんで、それこそ各々の「世界観」が如実に反映されるんだけど、わたしは元来たいへんにペシミスティック(悲観的)な性格なもんで、ついつい暗いほうへ、暗いほうへと物事を見てしまうけれども、当時のわれわれのご先祖ってものは、もちろん今よりはずっと大変だったと思うけれども、大変ななりに何やかんやと工夫を凝らして、けっこう楽しくやっていたのかもしれないんだよね。ぼくなんかが想像してる以上にね。
「大変ななりに何やかんやと工夫を凝らして精いっぱい楽しくやっていく」。ああ、これはまさしく「文化」ですよね。そうなんだ。それは文化の果たす大切な役割のひとつでもある。
文化で思い出したけど、前々回ぼくは、8代将軍義政のことを、「桃源郷としての文化に逃避した。」みたいに書いたけれども、あれはいかにも「近代的」すぎる解釈であったなと今は考えています。たしかに「民の暮らしを一切顧みない」という点においては逃避には違いないけども、それは義政という個人が己の趣味の中に引きこもって沈殿していたということではない。
当時の上流階級にとって、「文化」というのは何よりもまず「社交」なんですよ。以前に書いた連歌はもとより、室町期に成立・発達した他の芸事、お茶も生け花もみんなそう。能だってそうですね。すべてが社交の具なわけだ。けっして個人が単独でやるもんじゃない。「文化」が純粋に個人のものになっていくのは近代いこうの話です。とくに文学、もっというなら小説ですね。そう考えるなら近代小説ってものは文化史においては「異常」なメディアなんだよね。もともと文化ってのは社交の具として豊かになってくものなんだ。
そして、将軍とはいえあそこまで公家化しちゃった義政みたいな政治家にとっては、「社交」はほとんどそのまま「政治」でもある。幕府を支える有力大名やら重臣たちと入れ代わり立ち代わり毎日のように顔を合わせて、閑談から高級な遊戯まで、くだけた宴会から堅苦しい評定まで、べちゃべちゃと、ねちねちと、均衡を保ちながら世を治めていく(ろくに治まってないんだけどね)のが義政流の「政治」であった。今はそんなイメージをもってます。
例の御所とか庭園にしても然りで、自分ひとりがそこに籠って書を読み耽ったり夢想したりしたいからそういうものを設えたわけではなくて、人をそこに招いて色んなことをするために、いわばサロンの会場にするために、贅を尽くしてそういうものを造ったわけね。そこのところはしっかり抑えておくべきですね。
それが領民や町衆からの税収によって賄われたことを思えばもちろん腹は立ちますがね……。ただ、そうやって練磨されたもろもろの技芸が庶民のあいだに行きわたることでさらなる活力を与えられ、幅広く浸透していって、今へとつながる日本文化の厚みを形づくったことは認めざるをえませんね。
補足
言い忘れましたが、3代義満は晩年に出家して息子の義持に将軍職を譲った(ほぼ一休さんが生まれた年のことですが)から、本来ならば僧形で描かれなければならないし、そもそももう「将軍様」ではないわけです。でも、そんなこと言ったら小僧の一休さんと(いかに後小松天皇の落胤であったとしても)あんなに親しく交わることもありえないわけで、つまりは対象年齢層に向けてわかりやすく仕立てた設定だってことですね。やはりネームバリューのある義満のほうが面白いし、話もつくりやすいもんね。なお、「蜷川新右衛門」にも実在のモデルがいますが、これは一休が禅僧として名を成してから師事したひとで、もっと後年、いま話題にしている8代義政に仕えた役人であったということです。アニメ『一休さん』はこれらのさまざまな史実をうまく脚色しながら各回のエピソードを組み立てていたわけですね。
だいたい室町時代って馴染みが薄いでしょ? 大河ドラマで滅多に取り上げないのは前にも述べたとおりだし、サブカルのほうでもね……。ぼくがこの時代に関心をもつきっかけとなった『どろろ』以外だと、子どもの頃にテレビでやってたアニメの『一休さん』くらいじゃないかなあ。あれは足掛け8年ばかし続いたけども、ぼくはあいにくソロバン塾に通っててあまり観られなかった。それでも好きなアニメだったんで、走って帰ってよく途中から観てた記憶があるね(若い人のために念を押しとくと、まだ家庭用のビデオはぜんぜん普及してません)。
いま思えばあそこに出てきた「将軍様」って3代義満だったんだよね。どうりで金ピカの衣装を着ていたわけだ(笑)。当時はこっちもまるきり子どもだったんで、そんなこともよくわかってなくて、ただ、「なんか普通の時代劇とは違うなあ。」と感じてはいた。実在の一休宗純和尚は1394(明徳5)年の生まれで、アニメの一休さんは8歳くらいの設定だっていうから、史実に従えばあれはちょうど西暦1400年ごろのお話ってことになる。江戸開府に先立つこと実に2世紀ですね。そして舞台は江戸ではなくて(まだ太田道灌が江戸城を築く前だから、当時の江戸はそんなには開けていない)、京の都であったわけだ。
それでも、幕府御用達の豪商である桔梗屋さんをはじめ、あそこに出てくる町衆たちはじゅうぶんに文化的な暮らしを営んでましたね。とはいえ初期の頃には戦災孤児とか、「いくさによって家を焼かれて行き場を失った人たち」なども描かれており、社会的な階層ってものにもきちんと目配りがなされていた。一休さんが社会の矛盾を憂いて、錫杖の先に髑髏(しゃれこうべ)を掲げ、正月に浮かれる町なかを「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と唱えながら練り歩いてみんなから石を投げつけられるショッキングな回もあったりね。
しかし戦火はさすがに京の市内までは及ばなかったわけで……。ほぼ70年後の応仁の乱のさい、桔梗屋さん(店がちゃんと存続してればの話だけど)やほかの町衆たちはどんなことになって、どんな生活を送ったのか、かなり気になるところですが。
最新の研究によれば、「京都一面が焼け野原になった。」「焦土と化した。」という表現は大げさで、たしかに無傷では済まなかったにせよ、わりと被害の薄い地域も多かったっていうんで、意外と無事だったのかもしれないね。もしくは、仮に屋敷や蔵が焼けても、従来からのコネクションや蓄財をつかって早々と復興したのかもしれない。スクラップ・アンド・ビルドってやつで。
前回の話に絡めていうと、たしかに不安定要素は山ほど抱えていたけれど、15世紀ともなると社会の「システム」はもはや相当に強靭なものになっていたってことでしょうか。ちょっとやそっとじゃ揺るがない。慢性疾患みたいな中~小規模の戦闘が10年にわたってだらだらと続いてるのに、ひとびとはそのことすらも織り込みながら、逞しく、したたかに日々を送ってたってことなんですかね。そういう理解でいいのかなあ。
歴史観ってものは人それぞれに違うんで、それこそ各々の「世界観」が如実に反映されるんだけど、わたしは元来たいへんにペシミスティック(悲観的)な性格なもんで、ついつい暗いほうへ、暗いほうへと物事を見てしまうけれども、当時のわれわれのご先祖ってものは、もちろん今よりはずっと大変だったと思うけれども、大変ななりに何やかんやと工夫を凝らして、けっこう楽しくやっていたのかもしれないんだよね。ぼくなんかが想像してる以上にね。
「大変ななりに何やかんやと工夫を凝らして精いっぱい楽しくやっていく」。ああ、これはまさしく「文化」ですよね。そうなんだ。それは文化の果たす大切な役割のひとつでもある。
文化で思い出したけど、前々回ぼくは、8代将軍義政のことを、「桃源郷としての文化に逃避した。」みたいに書いたけれども、あれはいかにも「近代的」すぎる解釈であったなと今は考えています。たしかに「民の暮らしを一切顧みない」という点においては逃避には違いないけども、それは義政という個人が己の趣味の中に引きこもって沈殿していたということではない。
当時の上流階級にとって、「文化」というのは何よりもまず「社交」なんですよ。以前に書いた連歌はもとより、室町期に成立・発達した他の芸事、お茶も生け花もみんなそう。能だってそうですね。すべてが社交の具なわけだ。けっして個人が単独でやるもんじゃない。「文化」が純粋に個人のものになっていくのは近代いこうの話です。とくに文学、もっというなら小説ですね。そう考えるなら近代小説ってものは文化史においては「異常」なメディアなんだよね。もともと文化ってのは社交の具として豊かになってくものなんだ。
そして、将軍とはいえあそこまで公家化しちゃった義政みたいな政治家にとっては、「社交」はほとんどそのまま「政治」でもある。幕府を支える有力大名やら重臣たちと入れ代わり立ち代わり毎日のように顔を合わせて、閑談から高級な遊戯まで、くだけた宴会から堅苦しい評定まで、べちゃべちゃと、ねちねちと、均衡を保ちながら世を治めていく(ろくに治まってないんだけどね)のが義政流の「政治」であった。今はそんなイメージをもってます。
例の御所とか庭園にしても然りで、自分ひとりがそこに籠って書を読み耽ったり夢想したりしたいからそういうものを設えたわけではなくて、人をそこに招いて色んなことをするために、いわばサロンの会場にするために、贅を尽くしてそういうものを造ったわけね。そこのところはしっかり抑えておくべきですね。
それが領民や町衆からの税収によって賄われたことを思えばもちろん腹は立ちますがね……。ただ、そうやって練磨されたもろもろの技芸が庶民のあいだに行きわたることでさらなる活力を与えられ、幅広く浸透していって、今へとつながる日本文化の厚みを形づくったことは認めざるをえませんね。
補足
言い忘れましたが、3代義満は晩年に出家して息子の義持に将軍職を譲った(ほぼ一休さんが生まれた年のことですが)から、本来ならば僧形で描かれなければならないし、そもそももう「将軍様」ではないわけです。でも、そんなこと言ったら小僧の一休さんと(いかに後小松天皇の落胤であったとしても)あんなに親しく交わることもありえないわけで、つまりは対象年齢層に向けてわかりやすく仕立てた設定だってことですね。やはりネームバリューのある義満のほうが面白いし、話もつくりやすいもんね。なお、「蜷川新右衛門」にも実在のモデルがいますが、これは一休が禅僧として名を成してから師事したひとで、もっと後年、いま話題にしている8代義政に仕えた役人であったということです。アニメ『一休さん』はこれらのさまざまな史実をうまく脚色しながら各回のエピソードを組み立てていたわけですね。