ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

深掘り談義 すこしだけ、大江さん。

2020-07-21 | 純文学って何?




 dig フカボリスト。「毒舌上等!」がモットー


 e-minor 当ブログ管理人eminusの別人格。digより気が弱い




☆☆☆☆☆☆☆




 どうもdigです。


 e-minorです。


 なんだこの「たまらなく、アーベイン」みたいなサブタイトルは。


 あー、田中康夫さんのエッセイ集な。あれもバブルを体現するような一冊だったけど……


 レコード・ガイドだ。最近になって復刊されたぜ。菊地成孔の推薦文付きで。


 へえ、そうなのか。当時は「アーベイン」の意味がわかんなくてねえ。


 それで今日は何なんだ。「バナナフィッシュ」の続きはやんなくていいのか。


 その前にちょっとね。前回の記事をアップしたあとで、大事なことを言い落したのに気付いた。


 それが大江健三郎のことってわけかい。


 うん。akiさんからいただいたコメントのなかの、「文学の大目的とは、アイデンティティの探究」って話ね、あれがたいへん示唆的だったんだけど、ぼくはその「アイデンティティ」を「自我」さらには「私」と読み替えて、「中上健次いこう、村上龍・村上春樹あたりから、文学はそれまでの『近代的自我』を手放すようになってきた。」というようにお答えしたわけだ。


 いや違うだろ。龍だのハルキだのって名前は出てなかったぞ。


 まあそうだな。そこもついでに補足しとくわ。とにかく、70年代末から、80年半ばのそれこそバブル期にかけて、「文学」は漱石・鴎外以来の課題であった「私=近代的自我」から離脱していくようになった。今日におけるアニメやライトノベルの……つまりは「物語」の隆盛にしても、たんにエンタメ業界内部のジャンル的な成熟ってだけではないんだ。より高次もしくは中枢にあると思われていた「(純)文学」の側でそのような激動が起こったために、「物語」がいわば暴走しはじめたわけだよ。


 ようするにそれはポストモダンってことだろ。前回聞いててそう思ったよ。めんどくさいんで言わなかったけど。


 いやそういうことは思ったときに口添えしてくれよ。


 けど高度成長期が過ぎて生活が豊かになってモダン(近代)が終焉したからポストモダンがはじまったなんて、ほとんど同義反復だからな。いちいち口に出すまでもなかろうぜ。


 うん。それでしばらくのあいだ「なんとなく、クリスタル」「たまらなく、アーベイン」とわがニッポンは浮かれてたわけだけど、それからバブルが弾けて失われた10年があって平成大不況があって、こういう状況が来てみると、『日本の同時代小説』(岩波新書)の斎藤美奈子さんなんかが、「いまいちどブンガクは『個』を確立して『社会』と向き合うべし。」みたいなことをおっしゃるわけだ。


 みんなが貧しくなったから「近代(モダン)」の課題が復活してきたってのも、これまた同義反復だよ。それ自体は退屈な話だ。だがこのご時世、若くて文才のある連中はよっぽどのことがなければ純文学になんか向かわんだろう。「近代(モダン)への回帰」とはいっても、それはかつての「近代(モダン)」とは違う。情報化された高度資本主義ってものができあがってるんだから、カネに結び付くほうへ流れていくのが当然だ。


 ライトノベルを書いて、それがメディアミックスされて売れれば、そりゃ純文学よりカネにはなるよね。


 かくして当該ジャンルはますます爛熟していくだろう。しかし、そんな現状を指して「ラノベやアニメのほうが純文学の先を行ってる。」と言ってのけるのは荒っぽすぎたぜ。これも前回聞いてて思った。めんどくさいんで言わなかったけど。


 それはジャンルの総体として「先へ行ってる。」と言ったんだよな。ラノベ作家ひとりひとりの力量が純文学作家のそれを上回ってるってことじゃないよもちろん(笑)。たとえば宮崎駿とか高畑勲とか富野由悠季とか押井守とか細田守とか新海誠といったビッグネームはいるにせよ、そもそもサブカルチャーにどこまで「作家性」が求めうるか。もちろん個々のラノベ作家にコアなファンが付いている、ということはあるかも知れぬが、それがもしアニメ化された作中キャラへの「萌え」に起因するものだとしたら、その熱狂は当の作者だけの手柄かどうか疑わしい。ましてやアニメなんてのは監督ひとりの手でできるものではないし。


 だいたいの流れはわかった。いってみりゃ書き手と読み手との関わり方の話だな。「私」というテーマに即していうならば、一人称語りの「私」ないし「僕」に対して読み手を強く感情移入させる、というのは今もなお純文学に残された数少ない強みの一つだわな。それも、作中の「僕」と書き手(作者)自身とがダブッてくりゃあいよいよもって効果は増す。


 うん。村上春樹があそこまで支持をあつめる理由の一つは、韜晦を重ねて高度に虚構化されたものとはいえ、基本的に「僕」という一人称で書くせいだし、又吉直樹の『火花』にしても、「…………徳永と相方は花火大会の会場を目指し歩いて行く人達に向けて漫才を披露していた。」なんて冒頭だったら興ざめだろう。これ、だれが語っとんねん、という感じになる。徳永と又吉さんとはずいぶん違うけど、読んでるほうは、やはり「僕」の背後に芸人・又吉のあの戸惑ったような笑顔を思い浮かべつつ作中に引き込まれていくわけだから。


 わかったから、そろそろ大江の話をしろよ。


 うん。まさに大江健三郎こそ、日本の現代小説における「僕」の淵源というべきひとだ。東大在学中のデビュー以来ずっと、基本的には「僕」の作家だった。1957(昭和32)年に『東京大学新聞』に掲載されたそのデビュー作いこう、2013(平成25)年発表の「最後の小説」たる『『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』まで、1994(平成6)年のノーベル賞をはさんで50年近くにわたって営々と続けられたその文業のなかで、あのひとは「僕」を途方もなく豊かなものに育て上げた。


 そのことは前にもブログに書いてたよな。なんかぐちゃぐちゃ読みづらい文章なんで、さっと流し読んだだけだが、大江のことはこれまでたびたび書いてるだろ?


 うん。「純文学」における「私」という大事なテーマをakiさんから提示されたのに、それくらい心酔してる大江さんのことを書き漏らしたんで、こうやってdigをまた呼んだんだ。


 こっちはいい迷惑だぜ。で、それは失念してたのか? あえて口にしなかっただけか?


 まるっきり失念してた。あとで自分でびっくりした。


 それはあれだろ、前半で軍事がどうのって話をやったからだろ。ああいう話題ほど大江文学から隔絶したものはないからな。


 そうか。アタマの切り替えができなかったのか。digは大江さんが苦手なんだよな。


 だからそこだよ。軍事の話をしたらアタマからすっ飛んじまうような作家だから苦手なんだ。それはおれがこの国の「戦後民主主義」を苦々しく思ってるのと同じことなのだ。


 だけどそれは、裏返せば、すごく認めてるってことでもあるよね。いうならば、ニッポンの戦後精神そのものだと見なしてるわけでしょ。


 戦後精神というか、中国がここまで台頭してくる前の、古き良き時代のニッポンの象徴だな。しかし一方、そんな括りでは収まりきらぬ偉大な作家だとわかってもいる。しかしその偉大さはこの国の戦後民主主義のなかでこそ涵養されたものなのだ。このあたりの絡み合いがうまい具合に解析できなくて苛々する。個々のテキストを単体でピックアップして深掘りしていけば、もっと具体的なことが言えるがね。


 「私」ないし「僕」の話に戻ると、デビュー当時の大江さんの「僕」は東大生とはいえアルバイターであり苦学生であり、しかも「死」に対する蠱惑めいた恐怖に囚われ続けるちょっとアブない青年だったわけだね。時代背景は1960(昭和35)年の安保闘争前夜から、まさに「政治の季節」へと突入していく頃だが、「僕」はどこにも帰属先を見出すことができず、いかにも寄る辺ない。


 そのあたり、「バナナフィッシュ」のシーモアと通底するな。


 うん。たしかに似てるね。年長の旧友でもありのちに義兄ともなる伊丹十三(伊丹氏の妹が大江さんの伴侶)をモデルにしたクセの強い青年とバディ(相棒)を組むことはあっても、初期大江文学の「僕」はいかにも社会の中で孤立……とうじの用語でいえば疎外……されている印象がつよい。そんな青年が作家としての地位を固めるなかで結婚し、障害をもつ息子が生まれて「父」としての責任を引き受けることで少しずつ成熟=成長していく。


 家長になってくわけだな。それも自覚的に。


 いっぽうで世界および日本の正系につながる大きな文学への親炙も怠りなく、最先端の思想や理論も自家薬籠中のものとして、その作品は世界文学へとまっすぐに連なる普遍性を獲得していく。


 そのぶん作品が知識人くさくなってきて、一般の読者がだんだん離れていくんだけどな。


 その壮大な軌跡は2018(平成30)年に刊行のはじまった『大江健三郎全小説』全15巻によってつぶさに辿ることができるわけだけど、それはそのまま大江的「僕」の歴史でもあるんだ。家族との営みを中心に据えて、もろもろのしがらみや雑事を含めた実生活と、巧緻につくりこまれた虚構とを綯い交ぜにして、ときには自作そのものへの批評も取り込みながら、大江さんがほぼ半世紀をかけて育てあげた「僕」の奥行きと厚みと複雑さは、世界全体を見わたしても、20世紀のあらゆる作家の中で最高のものだ。そのことはぼくのすべての知見を賭けて断言できる。ノーベル文学賞選考委員の目は確かだった。これは前にも書いたと思うけど、あらためてこの機会に言っときたかったわけだ。


 それを言うのにいちいちおれを召喚せんといかんのか。さっさとeminusに復帰してもらえ。


 まあまあ……(笑)。


 でもそれは、最初の話に戻っていえば、大江健三郎は「ニッポンの近代(モダン)の最後の作家」ってことだからな?


 たぶんそういうことなんだろうね。モダンうんぬんをいうなら、大江さんと同世代でもうひとり、古井由吉という巨匠がいる。お二人による対談集も出ているが、この方のばあい、デビュー作からすでに「私」が蜃気楼のごとく妖しく揺らめいていた。それはホーフマンスタールの「チャンドス卿の手紙」(1902=明治35)に源をもつと思うけど、「私(近代的自我)」の揺らぎがすでに生理的な前提としてあるわけだね。今や古井文学は日本語の極限に挑むかのような境地に達しているが、大江さんと古井さん、このお二人によって現代日本文学の水準が達成されてきたとはいえると思う。このお二方が厳然として聳えておられるから、ほかの作家たちは自分なりの器に応じて好きなことをやってられるってところはあるよ。


 おまえもさっさと小説書けよ。理屈ばっか言ってないでさ。eminusに言っとけ。


 そうするよ。


 にしても、やめるっつっといて「深掘り談義」が妙に続くな。ひょっとしてこれ、面白くなってきてんじゃないか?


 だな。ふつうに書くより興が乗って話が弾むね。


 でもおれはいつまでも付き合ってやらないからな? 早いとこ「バナナフィッシュ」やっつけようぜ。


 うん。なるべく早く再開しよう。