ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第7回・中沢けい「入江を越えて」その⑤

2016-04-11 | 戦後短篇小説再発見
 借りたヘルメットをかぶって後部シートに腰を据え、運転する稔の背中にしがみつくという、ありがちなスタイルで苑枝はキャンプ場へと走る。稔のほうは、一つっきりのメットを彼女に貸したため何もかぶっていない。まことに危ないことである。そもそも二人乗り自体がたいへん危険な行為だから避けたほうがよろしい。しかし苑枝は、すこし伸びた稔の髪に鼻先をくすぐられ、「身体の表面にまといつくことなく乾いて行く汗はやっぱり樹木のにおいに似ているのだ……」などと、なかなか上機嫌である。なにやってんだ高校生が。しょうがねえなあまったく。家に帰って勉強しろ勉強。
 そんな私のヤジなどお構いなしに、バイクは街路を抜けて林道へと入る。


 林道に入った稔は街路を入る時とはうって変って、強引ときには乱暴とも苑枝には思えるような走り方をした。苑枝は何も見なかった。ただ稔の身体にしがみついていた。


 このへんの描写に深入りすれば昔懐かしい片岡義男の世界に移行していくところだが、もちろんそんなことにはならない。
 原文ではここで段落がおわり、一行あけて次の段落へと映る。


 瞼を開いた時、苑枝は稔の少しあぶらが浮いた鼻先を見た。稔もまた瞼を開く。目覚めたばかりの稔の瞳をもう少し眺めていたかったのに、彼は意味のない微笑を浮かべると、すぐに寝返りを打ち、背中を向けた。ランニングシャツから出た肌に、床板のすき間のあとがみみず腫れのように赤く印されていた。(…………)



 というわけで、いきなりである。いきなりもう、「事後」になっている。下には何も敷かなかったようだし、さぞ事態は慌ただしく進んだのだろうと推察される。これまでの中沢さんの作品では、「初体験」の舞台は高校の部室だったり理科室だったり、なんともトホホな場所が多かったので、じつはこれでもずいぶん向上したほうなのだった。
 前回の記事で、ぼくは「夜になるのも待たずに」と書いてしまったが、それは思い違いで、いちおう日が落ちるまではお互いに自制していたようだ。事が行われたのは夜である。このあと稔を残してひとりでバンガローの外に出た苑枝が、東の空を見て「6時半くらい」と見当をつけるシーンがある。
 着いたのが夕方だとしても、そこに至るまでにはいろいろと会話なんかもあったはずだが、ぜんぶ省かれているのでよくわからない。そんなことに拘るのも、行為のあとでふたりは甘く睦み合うどころか、何やらかえってよそよそしくなり、妙にぎくしゃくしてしまって、その齟齬は作品の後半になっても延々とつづき、ついにはそのままラストを迎えてしまうからだ。行為のまえに、どれくらい感情の交流があったものか。
 「からだの関係を持ったあとで、男のほうが冷淡になり、ヒロインが男を追いかける」というのが処女作いらいの初期中沢文学のパターンだったんだけど、この短篇では互いが互いの気持を持て余している感じで、しかもむしろ男のほうが彼女を追いかけ、彼女のほうがなんとなく微かな嫌悪を覚えて彼を避ける、といった構図になっている。これは文学としての深まりという点でよかったと思う。
 ふたりの関係はもちろん誰にも内緒なので、合宿のメンバーが集まる前に苑枝は駅へと引き返し、何食わぬ顔でそこでみんなと合流しなければならない。「駅まで送るよ」と稔は言い、待ち合わせの11時まで何をして過ごせばいいのか、と苑枝はおもう。
 そこでまた一行あけて、次の段落は、かなり詩的に粉飾された昨夜の回想シーンとなる。このパラグラフは麗しい。本編のなかでもっとも麗しい。先ほどのくだりで抜け落ちていたこと、書かれるべくしてあえて書かれなかったことが、べつのかたちで描かれているからだ。

 (…………)目をつぶるまいとしながらも、いざ稔の腕が苑枝の身体を抱えると、瞼は仕かけでもあったように降りてきた。瞼の裏にあらわれたのは、行きの電車の中から見た入江だった。
 山と田の間を走っていた電車が千倉駅を出たあたりから、段々とつらなる田と畑のはてに海が見えかくれする。かたわらに山が近づいてきたかと思うと、電車はいきなり海の真っただ中へ出た。海が線路よりも深く、陸地へと入り込んでいるのだった。くだけ散る波が、白っぽい砂を灰色に染めてはひくあたりに建った支柱の上を、電車は猛スピードで駆け抜ける。海面に反射する光で、車内は驚くほど明るくなり、波の飛沫が明け放された窓から飛び入る。東京湾を抱え込んだ内房では見られない、高く、白く、跳躍する波が、飽くことなく騒いでいた。
 額と額を合わせ、手足を絡めていると、あの波の飛沫のひとつひとつが、鴨川駅にむかえに出ていた稔のズボンのポケットからころがり落ちた小指の頭ほどの緑の実に変る。緑の実が、曲線を描く水平線のかなたまで、飛んでは跳ね、跳ねては転げる。



 あまり見事なもんでついつい長く引用しちまった。ここではセックスのさなかの陶酔(の記憶)と、行きの電車の車窓から見た光景(の記憶)とが複雑に混じり合い、しかもそれがセックスそのものの鮮やかな暗喩にもなっていることがおかわりいただけるだろう。まさに名人芸であり、超絶技巧といってもいいかと思う。こういった技法はたぶんフランスの現代小説あたりに類例があるんだろうし、執筆当時24歳の中沢さんもそれを参考にしたのだと思うけれども、そうはいっても溢れる才気は見紛うべくもない。
 このあたりのことばのつらなりは、ありきたりのポルノグラフィーよりもはるかにエロティックで、そしてもちろん、瑞々しい。