ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第6回・丸山健二「バス停」その①

2016-02-10 | 戦後短篇小説再発見
 ぼくの文学開眼のきっかけが、高校の図書室にあった全80巻の「新潮現代文学」だったことは当ブログでも再三述べた。コンパクトで読みやすいシリーズだったので、当時(昭和50年代)、わりとあちこちの図書館でも見かけた。川端康成、井伏鱒二からはじまって筒井康隆、井上ひさし、古井由吉まで、人気と実力を兼ね備えた作家をあつめ、あの頃の「文壇」の格好の見取り図ともなっていた。松本清張や司馬遼太郎などの「大衆小説」の作家をきっちり抑えていたのも特徴で、こういった作家の巻は見るからにボロボロであった。いっぽう、小川国夫だの小島信夫だの島尾敏雄だのの巻はキレイなもんだった。いつの時代も純文学はそんなに読まれるものではない。とはいえ、仮にも本として出版はされてたわけだから、今よりは読まれていたのである。昭和の末から平成以降、もはやこのような全集は企画されることすらなくなった。悲しい。
 これまで取り上げてきた五人の作家、すなわち『戦後短篇小説再発見』第一巻「青春の光と影」のトップから五番目までを占める作家たちは、いずれもこの「新潮現代文学」に収められている。六番目のこの丸山健二まできて、はじめて未収録作家の登場となった。とはいえ、丸山といえば平成になって綿矢りさに破られるまで「芥川賞最年少受賞」の記録を保持していた人だし(昭和41年、23歳で受賞。石原慎太郎より若かった。のちの村上龍も、この記録は破れなかった)、その後も意欲的な短篇・中編を次々と発表し、実力のほども折り紙つきだった。80人のなかに入っていてもちっともおかしくはなくて、選に漏れたのはもっぱら年齢のせいだと思う。若くしてデビューしたばっかりに、当時まだ30代だったのである。
 これまでの五人、すなわち太宰、石原、大江、三島、小川と比べて、丸山健二が異色なところはもうひとつある。学歴が低く、かつ、デビューまでに同人誌などの組織に属して文学修行をしたわけでもないということだ。あ。一つじゃなくて二つだな。ともかくまあ、これは現代日本文学史を考えるうえでそこそこ大事なことなのである。
 太宰、大江、三島、小川はいずれも東大である。太宰と大江は仏文、小川は国文だ(ただし太宰・小川は中退)。三島は法学部卒(首席)ながら、十代半ばにしてすでに同人誌に作品を載せ、「神童」の名を恣(ほしいまま)にしていた。慎太郎だけは一橋の社会学部卒で、スポーツマンとの印象もあり、文学にゆかりが薄そうだけど、それでも在学中には仲間と共に文学活動にいそしんでいた。
 しかるに丸山健二は、手に職をつけるために専門学校を出て、その間もそのあとも、誰かと一緒にブンガクをやっていた経歴がない。それで独学で小説を書き、いきなり文學界新人賞→芥川賞という快挙を果たした。かつて文学青年のあいだでは、このルートはエリートコースということで、「東大法学部から大蔵省」などと称されたらしい(しかし思えば三島由紀夫というのは、この比喩をリアルに実現した人だった。秀才中の秀才だけど、まあ家柄そのものが根本的にわれわれと違う。ただし才能がありすぎたために、大蔵省は早々に退職したが)。
 ニホンの大学の文学部は、元来、小説の書き方を教えるところではない。誰だって結局のところは独学で書き方を会得していくわけだから、学歴なんか関係ない。それはじっさいそうなのだけど、明治からこの方、日本文学史ってものを見ていくと、なかなかそう簡単な話でもないのである。このあたりは長くなるのでまたの機会に譲るけれども、なんだかんだと言いながら、メインストリームたる「純文学」の書き手といったら、かなりの率で高学歴それもやっぱり東大の人(中退をふくむ)が多かった、ということは、事実としてお含みおき願いたい。
 その位階秩序が崩れ始めたのは昭和51(1976)年、上にもふれた村上龍(武蔵野美大中退)の『限りなく透明に近いブルー』からで、元マンガ家の山田詠美(明治大中退)が芥川賞の選考委員にまで登りつめたり、その山田の強い推挽で芸人・又吉直樹の『火花』が受賞に至る、といった事態も、すべて元をたどれば40年前の村上龍フィーバーに端を発している。その一年前、昭和50(1975)年には中上健次(新宮高校卒)が戦後生まれ初の芥川賞に輝いているが、この人のばあいは「文芸首都」という名門の同人誌に所属していたので、むしろ古風な文学青年タイプの最後の人とみるのが妥当だ。
 だから、もし仮に「文壇史」的な見地から芥川賞の系譜のなかで村上龍の先蹤(せんしょう)を探すなら、それは直近の中上よりむしろ十年前の丸山健二であったろう。つまり丸山健二という作家は、今日における「純文学業界」(もはや「文壇」という言葉は使えまい)の流動化・液状化の遠い淵源なり、というのがぼくの位置づけである。
 さて。長々と書いてきたけれど、こういうのはいわば「社会学」に属する話であって、ブンガクの本道とは関係がない。問題はただ、目の前の「作品(テクスト)」そのものであり、本来は、それが誰の書いたものであるかさえ、極端にいえばどうでもいい。それを読み、自分が心を動かされるか否か、肝心なのはその一点だ。
 ただ、テクストを味読するためには、こういった下世話な話題もいちおうは抑えとかなきゃなあ、ということである。
 「バス停」は1977年に発表された。ほぼ40年前だ。それこそ「新潮現代文学」シリーズが刊行されてた頃である。作家は当時34歳。すでに十年ちょっとのキャリアを積んでいたとはいえ、今日の丸山健二の到達点を鑑みるならば、まだまだ初期と言える。文体は平易で、むしろ卑俗といってもいい。いまのぼくたちがふつうに使ってるような言葉である。舞台も設定も至ってシンプル、すこし手を加えたら寸劇にでもできそうだ。

 休まずに歩いたものだから、だいぶ早くバス停に着いてしまった。母は息切れひとつしていなかったが、あたしはとても苦しんでいた。肺は穴でもあいたみたいな音をたて、膝頭がいつまでも震え、まるで病人だった。そのうえ、せっかくの服がどこかで着替えなければならないほど、汗でよれよれになっていた。

 冒頭の段落である。じつに平易で、むしろ卑俗と……あ、これはさっきも言ったな。ご覧のとおりの読みやすさで、慎太郎の「完全な遊戯」の上(下?)をいくといっていい。だが、もちろん、それでいて入念に計算されてもいる。そこいらの兄ちゃんがアタマに浮かんだ文章をそのまま綴ったものではない。当たり前だ。そんなんで芥川賞が取れちゃあたいへんである。
 1943(昭和18)年生まれの丸山健二にはもはや漢文や古典の素養はなく、ミシマのように人工的な美文を駆使できたわけでもなかったし、大江さんのように翻訳の文体から新しい日本語を作り上げていったわけでもない。小川国夫みたいに独自の鋭い感性を彫琢した文章に託すわけでもない。徹底して「口語」を用いて、ふだんのぼくたちが日常で経験するような事柄を、ふだんのぼくたちが感じるような思いを絡めて描いていく。これはこれで難しいことであり、上に述べてきた事情を踏まえて言うならば、とても斬新なことでもあったのだ。