ずいぶん空いてしまったが、芥川賞のことでいうならば、いま取り上げている小川国夫には、芥川賞の候補に選ばれること自体を辞退したという逸話がある。理由ははっきりわからないけれど、ようするにまあ、この手のバカ騒ぎ、空騒ぎに巻き込まれたくなかったのだろう。そんなドタバタは文学の本質とはなんら関係ない、という信念があった。小川さんは頑ななまでに自己の流儀を貫いたひとだが、そういった気概は昭和中期までの純文学作家たちには或るていど共有されていた節がある。文学とは自らの魂を刻む崇高な営みであり、社会に対して一矢を報いるものなのだから、ジャーナリズムとは一線を画さなければならない。おれたちはエンタメ(娯楽小説)系とは違うのだ。そんな心意気である。純文学の矜持といっていいだろう。そういった気概なり心意気なりが払拭されてしまったのも、80年代バブルの頃であったかと思う。そもそも今や純文とエンタメとの境界線がアイマイだ。
……さて。「相良油田」はここから夢の話になる。講談社文芸文庫版にて、ほぼ4・5ページ分が導入部で(これまで延々と紹介した分だ)、残りのほぼ14・5ページがじつに夢の話なのである。この「戦後短篇小説再発見」全18巻の収録作品は、リアリズムだけで貫かれたものが大半だけど、島尾敏雄の「夢もの」をはじめ、夢から着想を得たと思しき作品も多い。それらはおおむね「幻想小説」という括りで呼ばれる。幻想小説と「夢小説」とは厳密にいえば違うけど、面倒なのでここではひとまず一緒にしておこう。「夢」というテーマは現代小説の本質に関わるもの(のひとつ)で、まともに論じれば分厚い本が一冊書ける。日本の現代文学だと、安部公房、筒井康隆の作風は「夢」ととりわけ縁がふかい。掌編(15枚くらいの短編のこと)で有名なのは、残念ながらこのシリーズには入ってないが、吉行淳之介の「鞄の中身」だ。むかし丸谷才一が口をきわめて絶賛していた。この吉行さんの掌編は、「切り出しナイフが、鳩尾(みぞおち)のところに深く突刺さったが、すこしも痛くない。その刃は真下に引き下げられてゆき、厚いボール紙を切裂いてゆくのに似た鈍い音がした。」というショッキングな出だしで始まり、次の行で「夢の話である。」と、あっさり種明かしをする。
いっぽう、いわゆる幻想小説のなかには、「夢」という単語を一切使わず、むしろ周到にその一語を排除するようにして創られたものも少なくない。「夢ですよ。」と断ったとたん、その箇所はほかの「リアリズム」の部分から切り離されて、いわば額縁に収められた格好になってしまう。「鞄の中身」はそこを逆手にとって、その「額縁」をことのほか巧みに用いた作品なのである。その逆に、「あ、ここから夢ですからね。」と断りを入れず、リアリズムからすううーっと幽明境を異にする感じで移行してゆき、結果として凄い効果を上げているのは、残念ながらこれも本シリーズに収められていないが、ぼくがこれまで読んだ中では河野多恵子の「骨の肉」および永井龍男の「秋」だ(日本文学に限る)。いずれもラストまで来て鳥肌が立つ名品である。
「相良油田」はその点、拍子抜けするほどシンプルだ。ここまでの段落からわざわざ一行あけて、「浩は夢の中で彼女に会った。」とくる。淳之介と同じ額縁式だ。「火花」のamazonレビューに「純文学とか読むのってこれが初めてなんですけどぉー」などと臆面もなく書いてるいたいけな、頑是ない少年少女でも、これなら一目で「あ、こっから夢のハナシなんだあ」って分かるよね。よかったね。それでまあ、量からいっても内容からいっても、この「額縁」に収められた「夢」のくだりこそが「相良油田」のメイン、肝(きも)であるのは明白なのだ。油田の存在をめぐる上林先生とのやりとりを何度となく反芻し、悶々としながら床に就いたんだろう。浩はその夜、彼女との「道行」の夢を見るのである。
「……なまぬるい埃が立つ焼津街道を、海の方に向って歩いていると、前を行く若い女の人があった。上林先生だった。髪にも、水色のスカートにもおぼえがあったし、歩く時の肩の辺の動かし方も、そうだった。彼は駆けて行き、息を弾ませながら、
――先生、と声をかけた。彼女は、彼が近づくのを待っていてくれた。彼は追い縋ると、自分でも思い掛けないことをいった。
――僕は物凄い油田を見ました。
またいってしまった、と彼は思った。彼女はちょっと目を見張って、それなりに生まじめな表情になって、しばらく考えていた。彼には、なんだか癪にさわることがあったが、それを抑えなければ……、という自制も働いていた。彼は自分のことを、緑シジミの幼虫が、暗くみずみずしい葉陰で、一人で翻転しているように感じた。」
「緑シジミの幼虫が、暗くみずみずしい葉陰で、一人で翻転しているように感じた」という比喩が何とも生々しいではないか。そこまで冷静に自己分析しながら、しかし浩は、「アメリカよりも、ボルネオやコーカサスよりも大きな、油田地帯です。」としつこく言い募ってしまう。このあたり、身体(感情)が内面(理性)を裏切って暴走する感じが如実に出ていて絶妙だ。ここのくだりはほんとに良くて、いくらでも引用を続けたくなる。
「……彼女は、浮世絵人形のような表情を動かしはしなかった。彼は、自分が無為に喋っているのを感じた。そして、なにをいってもいいのなら、いうことは一杯あるぞ、と思った。自分で自分に深手を負わせてしまい、血が止らなくなった感じだった。彼はまたなにかいおうとした。…………」
大好きな異性を目の前にして、彼女と少しでも長く話を続けたい。できればもちろん、相手に熱中して欲しい。だけどそれはぜんぜん無理っぽくて、もう何を話していいかさえわからない。共通の話題が見当たらない。だって向こうは自立した大人の女性で、こっちはただの子供なんだから……。それで、とりあえず共有できる唯一のネタ(このばあいは油田の話)をずるずると引っ張ってしまう。それも、内容がないから口ぶりだけが誇大になって……。ひどく軽薄なことだとわかっていて、自己嫌悪にもかられるのだが、どうしてもそれが止められない。そのうちにだんだん、開き直った気分になってくる……。
「オトナ」をまえにした「コドモ」の焦り。この焦燥をよりいっそう掻き立てるのは、彼女の恋人である(と噂されている)「海軍士官」の存在である。どうしても届かない、絶対に乗り越えることのできない強大な恋敵(ライバル)の存在(じっさいには出てこないけど)が、たえず少年の心にのしかかり、間断なく揺さぶり続けている。これぞまさしくエディプス・コンプレックスの典型である。
ぼくのお父っつぁんは堂々たる社会的名士なんかじゃなかったし(むしろその対極に近い気がする)、ぼく自身も息子として母親とはなはだ折り合いが悪かったので、現実の家庭においてエディプス・コンプレックスを感じた覚えはない。だが、20歳になるやならずの時分にひょんなことからダンナのいる女性(つまり人妻。もちろん年上)に恋をしてしまったことがあり、もとより片思いで終わったんだけど、だから浩の感情の動きがイタいくらいにわかるのである。
空転し、なかば自暴自棄となっていく浩。ところが事態はここから展開を見せる。冷ややかに聞き流していると思っていた上林先生が、彼の話に乗ってくるのだ。「彼はまたなにかいおうとした。」のあと、
「すると彼女が、いつもの口調できいた。
――それはどこなの?
――大井川の川尻です。」
小川さんは節度を保ってこう書くが、本来ならばここはもう「――お、大井川の川尻ですっ。と浩は勢い込んで言った。」くらいのもんだろう。ここでようやく上林先生が、いまどきの用語でいえば「食いついて」きてくれたわけだから。
「――大井川の川尻……。あんなところだったの、と彼女は少し声を顫わせて、いった。浩には、彼女が胸をはずませているのがわかった。駄目だと思いながらも叩いた扉が、意外にも手応えがあって動き始めたようなことだった。彼は自分の嘘の効果が、怖ろしく美しく彼女に表れたことに呆然としていた。」
いうまでもないとは思うが、大井川の川尻ってのは、ふたりが(夢のなかで)この会話を交わしている場所のすぐ近所で、むろんそんな所に油田なんかあるわけがない。「自分の嘘」とはそのことである。浩としては、あわよくばこれから二人でそこに行きたいと目論んでいるわけで、ほんとうに話はそんな具合に進んでいく。わりと嬉しい夢なのである。とりあえず途中まではね。ただその前に、ここで浩が、
「――僕はなにか海軍の士官のことをいったんだっけ」
と内心で呟いているのがなんともおかしい。ここだけは何度読み返してもくすっと笑ってしまう。小川国夫は生真面目な作家で、その作品はあまり笑いとは縁がないけれど、それでもこんなふうにしてユーモアが生まれることもある。こういうのを「巧まざるユーモア」というんだろう。それはたいそう上質のものだ。
その⑥につづく。
……さて。「相良油田」はここから夢の話になる。講談社文芸文庫版にて、ほぼ4・5ページ分が導入部で(これまで延々と紹介した分だ)、残りのほぼ14・5ページがじつに夢の話なのである。この「戦後短篇小説再発見」全18巻の収録作品は、リアリズムだけで貫かれたものが大半だけど、島尾敏雄の「夢もの」をはじめ、夢から着想を得たと思しき作品も多い。それらはおおむね「幻想小説」という括りで呼ばれる。幻想小説と「夢小説」とは厳密にいえば違うけど、面倒なのでここではひとまず一緒にしておこう。「夢」というテーマは現代小説の本質に関わるもの(のひとつ)で、まともに論じれば分厚い本が一冊書ける。日本の現代文学だと、安部公房、筒井康隆の作風は「夢」ととりわけ縁がふかい。掌編(15枚くらいの短編のこと)で有名なのは、残念ながらこのシリーズには入ってないが、吉行淳之介の「鞄の中身」だ。むかし丸谷才一が口をきわめて絶賛していた。この吉行さんの掌編は、「切り出しナイフが、鳩尾(みぞおち)のところに深く突刺さったが、すこしも痛くない。その刃は真下に引き下げられてゆき、厚いボール紙を切裂いてゆくのに似た鈍い音がした。」というショッキングな出だしで始まり、次の行で「夢の話である。」と、あっさり種明かしをする。
いっぽう、いわゆる幻想小説のなかには、「夢」という単語を一切使わず、むしろ周到にその一語を排除するようにして創られたものも少なくない。「夢ですよ。」と断ったとたん、その箇所はほかの「リアリズム」の部分から切り離されて、いわば額縁に収められた格好になってしまう。「鞄の中身」はそこを逆手にとって、その「額縁」をことのほか巧みに用いた作品なのである。その逆に、「あ、ここから夢ですからね。」と断りを入れず、リアリズムからすううーっと幽明境を異にする感じで移行してゆき、結果として凄い効果を上げているのは、残念ながらこれも本シリーズに収められていないが、ぼくがこれまで読んだ中では河野多恵子の「骨の肉」および永井龍男の「秋」だ(日本文学に限る)。いずれもラストまで来て鳥肌が立つ名品である。
「相良油田」はその点、拍子抜けするほどシンプルだ。ここまでの段落からわざわざ一行あけて、「浩は夢の中で彼女に会った。」とくる。淳之介と同じ額縁式だ。「火花」のamazonレビューに「純文学とか読むのってこれが初めてなんですけどぉー」などと臆面もなく書いてるいたいけな、頑是ない少年少女でも、これなら一目で「あ、こっから夢のハナシなんだあ」って分かるよね。よかったね。それでまあ、量からいっても内容からいっても、この「額縁」に収められた「夢」のくだりこそが「相良油田」のメイン、肝(きも)であるのは明白なのだ。油田の存在をめぐる上林先生とのやりとりを何度となく反芻し、悶々としながら床に就いたんだろう。浩はその夜、彼女との「道行」の夢を見るのである。
「……なまぬるい埃が立つ焼津街道を、海の方に向って歩いていると、前を行く若い女の人があった。上林先生だった。髪にも、水色のスカートにもおぼえがあったし、歩く時の肩の辺の動かし方も、そうだった。彼は駆けて行き、息を弾ませながら、
――先生、と声をかけた。彼女は、彼が近づくのを待っていてくれた。彼は追い縋ると、自分でも思い掛けないことをいった。
――僕は物凄い油田を見ました。
またいってしまった、と彼は思った。彼女はちょっと目を見張って、それなりに生まじめな表情になって、しばらく考えていた。彼には、なんだか癪にさわることがあったが、それを抑えなければ……、という自制も働いていた。彼は自分のことを、緑シジミの幼虫が、暗くみずみずしい葉陰で、一人で翻転しているように感じた。」
「緑シジミの幼虫が、暗くみずみずしい葉陰で、一人で翻転しているように感じた」という比喩が何とも生々しいではないか。そこまで冷静に自己分析しながら、しかし浩は、「アメリカよりも、ボルネオやコーカサスよりも大きな、油田地帯です。」としつこく言い募ってしまう。このあたり、身体(感情)が内面(理性)を裏切って暴走する感じが如実に出ていて絶妙だ。ここのくだりはほんとに良くて、いくらでも引用を続けたくなる。
「……彼女は、浮世絵人形のような表情を動かしはしなかった。彼は、自分が無為に喋っているのを感じた。そして、なにをいってもいいのなら、いうことは一杯あるぞ、と思った。自分で自分に深手を負わせてしまい、血が止らなくなった感じだった。彼はまたなにかいおうとした。…………」
大好きな異性を目の前にして、彼女と少しでも長く話を続けたい。できればもちろん、相手に熱中して欲しい。だけどそれはぜんぜん無理っぽくて、もう何を話していいかさえわからない。共通の話題が見当たらない。だって向こうは自立した大人の女性で、こっちはただの子供なんだから……。それで、とりあえず共有できる唯一のネタ(このばあいは油田の話)をずるずると引っ張ってしまう。それも、内容がないから口ぶりだけが誇大になって……。ひどく軽薄なことだとわかっていて、自己嫌悪にもかられるのだが、どうしてもそれが止められない。そのうちにだんだん、開き直った気分になってくる……。
「オトナ」をまえにした「コドモ」の焦り。この焦燥をよりいっそう掻き立てるのは、彼女の恋人である(と噂されている)「海軍士官」の存在である。どうしても届かない、絶対に乗り越えることのできない強大な恋敵(ライバル)の存在(じっさいには出てこないけど)が、たえず少年の心にのしかかり、間断なく揺さぶり続けている。これぞまさしくエディプス・コンプレックスの典型である。
ぼくのお父っつぁんは堂々たる社会的名士なんかじゃなかったし(むしろその対極に近い気がする)、ぼく自身も息子として母親とはなはだ折り合いが悪かったので、現実の家庭においてエディプス・コンプレックスを感じた覚えはない。だが、20歳になるやならずの時分にひょんなことからダンナのいる女性(つまり人妻。もちろん年上)に恋をしてしまったことがあり、もとより片思いで終わったんだけど、だから浩の感情の動きがイタいくらいにわかるのである。
空転し、なかば自暴自棄となっていく浩。ところが事態はここから展開を見せる。冷ややかに聞き流していると思っていた上林先生が、彼の話に乗ってくるのだ。「彼はまたなにかいおうとした。」のあと、
「すると彼女が、いつもの口調できいた。
――それはどこなの?
――大井川の川尻です。」
小川さんは節度を保ってこう書くが、本来ならばここはもう「――お、大井川の川尻ですっ。と浩は勢い込んで言った。」くらいのもんだろう。ここでようやく上林先生が、いまどきの用語でいえば「食いついて」きてくれたわけだから。
「――大井川の川尻……。あんなところだったの、と彼女は少し声を顫わせて、いった。浩には、彼女が胸をはずませているのがわかった。駄目だと思いながらも叩いた扉が、意外にも手応えがあって動き始めたようなことだった。彼は自分の嘘の効果が、怖ろしく美しく彼女に表れたことに呆然としていた。」
いうまでもないとは思うが、大井川の川尻ってのは、ふたりが(夢のなかで)この会話を交わしている場所のすぐ近所で、むろんそんな所に油田なんかあるわけがない。「自分の嘘」とはそのことである。浩としては、あわよくばこれから二人でそこに行きたいと目論んでいるわけで、ほんとうに話はそんな具合に進んでいく。わりと嬉しい夢なのである。とりあえず途中まではね。ただその前に、ここで浩が、
「――僕はなにか海軍の士官のことをいったんだっけ」
と内心で呟いているのがなんともおかしい。ここだけは何度読み返してもくすっと笑ってしまう。小川国夫は生真面目な作家で、その作品はあまり笑いとは縁がないけれど、それでもこんなふうにしてユーモアが生まれることもある。こういうのを「巧まざるユーモア」というんだろう。それはたいそう上質のものだ。
その⑥につづく。