ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

引っ越し後の最初の記事は、「物語」について。

2014-09-16 | 純文学って何?
 OCNのブログサービス打ち切りによる引っ越しを期に、2009年8月からの過去記事をすべて別のところに移して、本日からまた新たな気分でブログを始めることにした。これまではいささか雑然としすぎていたので(まあ、ブログってのはそういうものではあるのだが)、もう少しテーマを絞り込み、堅牢なものにできたらと思う。具体的には、「死んだ死んだ。」ともう30年近くにわたって言われながらもまだどうにか生き延びている「文学」という制度について、自分なりにきちんと考えてみたい。もういちど「文学」という制度について考察を深めるとともに、「文学」という制度を通して、今のニッポンについて考察を深めてみたいとも思うのだ。


 ここでいう「文学」とは「純文学」を指す。「純文学とは何ぞや?」という設問は、「通俗小説/大衆小説/娯楽小説と純文学との違いは何か?」という設問にほぼ等しいが、これに明快な答を与えることはたやすくはない。大塚英志のような人は、皮肉をこめて「文芸誌文学」という呼び方をする。「文學界」「群像」「新潮」「すばる」のいわゆる四大文芸誌に載る小説という含意である。むろんこれでは本質的な説明にはなっていないが、この件に関してはいずれまた色々な角度で扱うことになるだろうから深入りしないことにして、ひとまずここでは、「純文学とは、文學界や群像や新潮やすばるに載るような小説のこと」と、ぼくも大塚氏に便乗させていただこう(念のため言うと、「芥川賞」という権威によって選別されれば、晴れて『文藝春秋』に転載の栄誉にも浴するわけだが)。


 ぼく自身はこの「純文学」にこだわっている。それにはいくつか理由があるが、ひとつには、「物語」に抵抗しうる手段として、この「純文学」が今でもおおいに有効であると信じるからだ。しかし、こんな言い方ではちょっと何言ってるんだかわからない。説明しよう。「物語」とは、昔むかしあるところにお爺さんとお婆さんが、とか、シンデレラがかぼちゃの馬車でうんぬんといったあの「物語」とは別の、さらにもっと大きな含意で使っている。「世界」に意味を付与するもの、もっと言えば、「世界(社会)のなかを寄る辺なく漂う私」に「生きることの意味」を与えるものが物語である。すなわち、宗教の教義なんかはいうまでもなく、ナショナリズムもまた「物語」たりうるということだ。それも十分に巨大かつ強固な物語である。


 先に名前を出した大塚英志はこう述べている。
「だが、例えば、たった今、日本を呪縛しているのも戦争に負け、マッカーサーに《十二歳の子供》と定義された《日本人》が、《民主主義》という誤った《母性》から離脱し《憲法》や《歴史》を書き換え、そして《強い父》である《アメリカ》に認められ《一人前の国家》になる、という《日本》をめぐる《ファミリーロマンス》に他ならないことに気づいた時、《神話》や《昔話》に起源が求められる、《偽りの父母に育てられた子供が自分の来歴を書き換え、強い父性に統合される》という《ファミリーロマンス》的な枠組に、いかにこの国の半端な近代が依存しているかがわかるというものだ。ネット上のナショナルな気分のマッチョぶりを無自覚に規定するのも、このような近代的言説が抱え込んでしまっているファミリーロマンス的な偏差に他ならない。」


 大塚氏にしては読みづらい文だが、言わんとするところはよくわかる。これは2000年代初頭、アメリカが仕掛けたイラク戦争の頃に書かれたものだが、2014年の現下のニッポンにおいていよいよ迫真性を増しているのは誰の目にも明らかであろう。ただ単にこれは、21世紀に入ってからの日本の歩みが構造的(物語論的)にそう分析しうるという話ではない。私どもの心性そのものが、「偽りの父母に育てられた子供が自分の来歴を書き換え、強い父性に統合される」という「物語の呪縛」に深いところで囚われてしまっているということだ。この辺りの心情を、保守派の論客の語法をもちいて露骨にはっきり言うならば、「押し付けられた平和憲法の下での戦後民主主義はすべて欺瞞であり、そこで語られた歴史も一方的な東京裁判に基づく自虐史観であった。すみやかに憲法をかえて自衛隊を軍に昇格させ、真にアメリカの盟友(実は子分なんだけど)にふさわしい一人前の国家になれ。そして歴史教科書も書き換えよ。」といったところか。


 ところで、物語論になじみのない方には、「ファミリーロマンス」という用語がわかりづらいかもしれない。もともとはフロイトの概念で、エディプス・コンプレックスといえば何となく聞いた覚えがあるのではないか。「息子」は「父」を殺し、「母」を犯すことによって成長する、つまり一人前の大人になるというやつだ。もとよりここでの「殺害」なり「侵犯」とは象徴的な意味なのだが、この構造が古今東西、ありとあらゆる「物語」のなかに伏在しているのはぼくも認める。しかし「息子」はそうだとしてもじゃあ「娘」はどうなんだよ?という疑念もあり、今日の見地からはまだまだ考察の余地はありそうだ。ともあれ、ここでいう「ファミリーロマンス」とはそのような含意なんだけど、戦後ニッポンのばあい、父としてのアメリカは主神ゼウスのごとくあまりにも強大で「殺す」ことなど思いもよらぬので、せめて盟友(実は子分)として「承認」して貰おうと切望しているわけである。歪んで矮小化されたファミリーロマンスなのだ(泣)。


 それが現下のこの国を覆っている「大きな物語」であり、安倍晋三なる人格は、そのような物語=ファミリーロマンスを肉体化・具現化した総理大臣である。私どもがそのような首相を高い支持率で支えていて、だからとうぜん政治日程はその物語に沿って進んでいる。この辺りの事情をもう少し微分するならば、新自由主義の進行によってアトム化し、希薄化した個々の「私」が拠りどころを求めて大きな「物語」に自らを委ね、平成ふうにアレンジされたナショナリズムへと回収されている、といった感じになろうか。図式的すぎて情けなくなるが、いろいろなことが図式的というかマンガ的になりつつあるのが「現代」のひとつの特徴かもしれないとは思う。


 このような「物語」は戦後この方ずっと底流にはあって、政治家の「失言」とか、または「右派」の言説として定期的に浮上してはいた。それがここまでの力を持ち始めたのは90年代の半ばからで、その背景にはバブル崩壊以降の慢性的な不況、ソ連(理想的な未来像としての共産主義の幻想)の解体、阪神大震災とオウム事件、相次ぐ未成年の凶悪犯罪、北朝鮮による拉致問題の発覚、韓国における反日運動の激化、そして中国の経済的・軍事的台頭、といったような要素があった。小林よしのりというじつに分かりやすい扇動家=商売人もいた。しかし結局は、私どもの依拠していた(はずの)「戦後民主主義」が、さらにいうならそれこそ私どもの「近代(的主体)」が、それしきのことでグダグダになっちまうほど脆弱なものにすぎなかったって話で、これまた情けないかぎりだけども、そこは大塚英志に限らずとも、多くの心ある方々がさんざん指摘しているとおりだ。


 先の引用は『更新期の文学』(2005年。春秋社)からのものだが(P126)、ほかにも大塚英志はその名も『戦後民主主義のリハビリテーション』(角川文庫)といった本などを出し、一貫して「戦後民主主義」、および歴史観も含めた「戦後民主主義的なるもの」を擁護する立場に立って発言している。ぼくはその多くに共感するけど、大塚氏が戦後民主主義ならびに日本の「近代」との絡みで論じる「純文学(文芸誌文学)」についての意見は首肯できない。冒頭部分に記したように、おそらく「純文学」だけが、今回縷々述べてきたような「大きな物語」に抵抗しうるメディアである、いや少なくとも、「抵抗しうる可能性をもつ」メディアなんじゃないかな、という感触をぼくは抱いており、大塚氏はそんなことぜんぜん思ってもいない。「純文学(文芸誌文学)」に向ける大塚氏の視線が頑なすぎるのか、ぼくが純文学に対して甘い理想を持ってるだけなのか、その点がいまいち分からなくて、次回以降もそういったことを問題にしていくことになると思う。