初出 2011年2月4日(のちに一部を改稿)
『限りなく透明に近いブルー』という小説は、仔細に見ればかなり周到に組み立てられているのだが、「龍さんの中ではやっぱりあれがいちばん好き」という人に尋ねてみても、意外とその緻密な設計に気づいていない場合が多い。盛り込まれた内容の過激さと(発表から40年近く経ったいま読んでも十分に刺激的!)、それを織りなす濃密かつスピーディーな文体に目を奪われて、こまかいところまで視線が届かないらしい。
社会現象となったこの『ブルー』の席捲から3年ののち、同じ群像新人賞を取った村上春樹さんの『風の歌を聴け』が、かのムラカミ・ハルキの記念すべきデビュー作ってことを別にして、作品そのものの魅力で絶大な支持を集めていながら、その奥深い構造がさほど正しく理解されていないのと似ている。ひどく単純に言ってしまえば、それは「鼠」がじつは異界の住人で、いわば幽霊というべき存在であり、ジェイズ・バーがその「異界」と「現実」とを繋ぐ蝶番的な場所になっているといったことなんだけど、ぼくが自分で見抜いたわけではないし、ここでは本題ではないので省きます。興味がおありの方はぜひ、加藤典洋さんの『村上春樹イエローページ①』(幻冬舎文庫 495円+税)をお読みください。
さて。村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』には、主に4人の若い女性が登場するが、ぼくが訊いてみたかぎりでは、なんだかずいぶん多くの読者が、彼女たちのことを一緒くたにしてしまっていた。だけどそれではこの小説をきちんと読んだことにはならない。いや、本当を言うと、この「きちんと」っていう副詞を取り払ってもいいくらいだ。
まず冒頭に登場するリリー(この作品の主人公であるリュウは、人間というよりあたかも五感を備えたビデオカメラみたいであり、彼女はカメラに映った女優のようにわれわれの前に姿を現すわけだけど)について見てみよう。リュウの交友が乱脈を極めているせいで紛らわしいのだが、彼の恋人はこのリリー一人であって、あとの女性たちはまあ乱痴気仲間といった間柄にすぎない。
彼女はリュウより年上で、過去にファッションモデルの経験を持ち、『パルムの僧院』を読む程度にはインテリでもある。今でこそ基地の近くで米兵相手のバーのママを務め、リュウのような無軌道な青年と縺れ合うように日々を送っているけれど、まずは中流以上の家庭で育ったことが想像できる。彼女は中盤に出てくるあの有名な乱交パーティーにも参加してないし、そもそもリュウの仲間たちとは接触もせず、「あの変な連中」と呼んではっきりと距離を置いている。先述のとおり、彼女はあたかもリュウというカメラを通してのみ現前を許される女優のようにも見え、じっさい、リリーがリュウ以外の人物と同席しているシーンはついに一度も出てこないのである。
このリリーよりたぶん4、5歳ほど若く、つまりはリュウ、オキナワ、ヨシヤマ、カズオらとほぼ同年齢で、この連中と共にセックス・ドラッグ・ロックンロールに明け暮れているレイ子、ケイ、モコの3人は、一見すると確かにほとんど区別がつかないようだが、それでも執筆当時20歳そこそこの村上龍は、彼女らにそれぞれ巧みに差異を与えている。
たとえば喧騒に満ちた作品の中で、とても静謐で印象的なシーン、沖縄出身のレイ子がリュウと二人で朝の道を歩きながら、「中学時代に生物部で葉脈標本を作って先生から褒められ、賞を貰って鹿児島まで行った。」と語るくだりがある。当時の沖縄はまだアメリカの占領下だったから、その旅行にはパスポートを必要としたはずであり、ぼくたちが想像するよりもっと大がかりで、それだけに晴れがましいものでもあったろう。事実レイ子は、その時の葉っぱの標本を「まだ机の引き出しに持ってるのよ。」と誇らしげに語る。
そんなレイ子は、美容師になる勉強を中途で止して家出をし、恋人の「オキナワ」と二人で福生に出てきた。最初のほうでは「レイ子も絶対ジャンキーになるんだ。オキナワと同じくらいの中毒になっとかないと結婚してから困ると思うのよ。」などと言っていた彼女も、終盤近くになると当のオキナワとクスリを巡るトラブルで喧嘩をし、彼の生活能力のなさを罵って、クレージーな彼らの「蜜月」がそろそろ終焉を迎えつつあることをぼくたちに示す。
いっぽう、日米のハーフであるケイと、その恋人ヨシヤマとの関係は、レイ子×オキナワよりももう少し前に破綻しかけていたようだ。ケイについては所在不明の父親の話がつねに纏わりついており(ハワイにいるとの噂を聞いて渡航計画を練っていたとか、別れる前に貰った金のネックレスに執着しているとか)、それがヨシヤマの亡くなった母親の話とも呼応して、このふたりの「家族」にかかわるコンプレックスの厄介さを浮き立たせている。家族について繰り返し言及されるのはこのカップルだけであり、この点ひとつ取っても作者の(しつこいようだが、執筆当時20歳そこそこ)の力量が窺い知れる。『限りなく透明に近いブルー』は、けっしてただのヒッピー小説ではないのである。
ケイは、そのヨシヤマの母親が逝去した際、生家の側までは付いて行ったものの、葬儀には参加させてもらえず、旅館でひとり待たされたことからヨシヤマとぎくしゃくするようになり、やがて彼のDVがエスカレートするうちに憎悪さえ抱くようになって、ついには手首を切ったヨシヤマに向かい、「あんたね、死にたかったら一人で死ぬのね。」と救いのない言葉を投げかけるまでになる。
モコはドラッグごっこや乱交パーティーには興じるけれど、他の二人とは違ってジャンキーの恋人を持ってはいない(カズオは彼女の彼氏ではない)。彼女の家庭はグループの中で(たぶん、仕送りで生活しているリュウと並んで)いちばんまともであり、彼女はただ「遊べる時は滅多にないじゃない? 面白いことなんてないもん。」という理由で仲間に加わっているだけである。いずれは普通に結婚をして主婦に収まるつもりでおり、そのことを平然と口にも出す。自分の写真が「アンアン」に掲載されたと嬉しそうに述べる彼女は、ふだんはちょっと派手めの可愛い女の子なのだろう(そうは言っても舞台は70年代初頭だから、今の感覚とは異なるだろうけど)。
彼女にとってここでの日々はいささか危うい冒険に過ぎず、じっさいに彼女は、真っ先に作品の中から姿を消す。ひょっとしたらこのモコという女の子は、少し後に田中康夫が描くことになる80年代の「クリスタル」な女性たちの先駆けだったのかも知れない。結婚前の火遊びにしては、いくらなんでも深みに入り込みすぎていた気はするけれど。
才能と若さに任せて書き飛ばしたかに見えるこの作品も、ていねいに読めばこのように綿密な計算のうえで作られているのが分かる。新陳代謝の激しい文庫の世界にあって、初版の刊行から40年以上の歳月を経てなお書店の棚の一角を春樹さんと共に(例の黄色い背表紙で)占領し、改版までされて読み継がれ、新しく若い読者を獲得しつづけているのは、けっしてスキャンダラスな内容だけが理由じゃないのである。
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