初出は2010年2月23日。頂いたコメントと共に再掲します。
この記事はネタバレを含む。そうなることをできるだけ避けて、草稿を一本書いたんだけど、いかにも隔靴掻痒というか、言いたいことの半ばも言えず、これだったら取り上げる意味がないと思えた。だから改めて書き直したこの稿では、なるべく露骨にならぬよう努めたものの、やむをえず小説の核心に触れた部分がある。いかに原作の刊行が8年前とは言え(注・2010年当時)、映画化を機に読んでみようという方もおられるだろうし、未読の方はくれぐれも、原作を読むか、せめて映画を見てから目を通されることをお勧めします。
2LDKのマンションをシェアする五人の男女(男3+女2)が、代わる代わるに語り手を務めて、それぞれの過去と現在を喋っていく。見た目は仲良く馴れ合いつつも、相手の内面には踏み込まない、ほどほどの距離感こそが円満な共同生活のモットーだ。現実にこんな暮らしを送っている若者は多数派とはいえないだろうけど、これはまた、学校やサークルや仲間同士の集まりなど、都会に生きるぼくたちが、そこで他人とふれあう「場」のメタファー(比喩)でもある。だから特殊な話じゃないのだ。
「嫌なら出て行くしかない。いるなら笑っているしかない。」(2番目の語り手・大垣内琴美)という言葉には、だれもが共感するだろう。もう一人の女性、3番目の語り手・相馬未来はそれを、「ここでうまく暮らしていくには、ここに一番ぴったりと適応できそうな自分を、自分で演じていくしかない。」と表現する。これもまた、大方の共感を得られそうな台詞だ。
「ロスのハイウェイって、合流するのが怖いね」という台詞で始まる『レス・ザン・ゼロ』なる小説があって、著者のブレット・イーストン・エリスは、「ニュー・ロスト・ジェネレーション」などと名指され、『ブライト・ライツ・ビッグ・シティ』のジェイ・マキナニーなんかと共に、日本でもけっこう持て囃された。
時あたかも80年代後半、こちらでは、まさにバブルがモンスターのように膨らんでいた時期だ。それから「失われた十年」が来て、何だかすっきりせぬままに、新しい世紀が訪れたけれど、2002年に著者初の書き下ろし長編として上梓された吉田修一さんの『パレード』の出だしは、たぶん少なからぬ影響を、『レス・ザン・ゼロ』から受けている。吉田さんがあれを読んでないってことは考えにくい。
「他人との適正距離」をクルマの運転になぞらえるあのオープニングは、もういちど238ページ(ページ数は幻冬舎文庫版。以下も同様)で反復されて、本作のテーマを、改めて読者の前に視覚化してみせる。距離の目測を誤れば、たちまち「事故」が起こるのですよ、と。
『パレード』は、何よりもまず、「よく出来た風俗小説」なんだけど、最終章の後半に至って、一気にモダン・ホラーの様相を帯びる。ネットの感想を見ていたら、「血に逃げた」と評してる人がいた。「そっちの方向に持っていかないほうが、むしろもっと《怖く》なったはずだ。」とも、その人は言っておられた。ぼくもまったく同感だ。以下、この点について分析的に述べてみる。
『レス・ザン・ゼロ』でも、終わりのほうに、スナッフ・ムービーにまつわるおぞましい挿話があったけれども、贅沢しすぎておかしくなってしまったビバリーヒルズの青年たちを描くブレット・イーストン・エリスはその後、『アメリカン・サイコ』というどうしようもないタイトルの小説を書き、この作品はほんとにもう、中身もまったくどうしようもない。
ぼくは残酷描写が生理的にだめで、本当に勘弁してくれよって感じなんだけど、それでも今の時代にあって、小説を読んでたり、ましてマンガや映画を観ていれば、これを避けては通れない。既製の批評言語の内に、適切なものが見当たらぬので、自己流の概念を作ったのだが、ああいう技法をぼくは「戦場の導入」と名づけている。
あの手の事件、さらには描写が、フィクションの中で現れた時は、そこに「戦場が導入されてる」のだ。そう考えるようにしている。初めから戦争を描いたものならば、読む側にも覚悟はできているけれど、日常の点綴の中にとつぜん戦場の光景が出てくりゃ誰だってそれは吃驚する。目眩をおぼえる。胸が悪くなる。亀裂が走り、風景が異化される。世にいうショッキング・ホラーのやり口は、この公式でほとんど説明がつく。
『パレード』において吉田さんは、ラスト部分(と、その前に174ページでもちらっと)この「戦場の導入」をやってるんだけど、もうひとつ、それに併せて「バナナフィッシュ・エフェクト」という技法を使っている。これもまたぼくの自家製用語なんだけど、現代の古典ともいうべきサリンジャーの名短編集『ナイン・ストーリーズ』の巻頭を飾る「バナナフィッシュにうってつけの日」(もしくは「バナナフィッシュ日和」)のなかで、主人公の青年シーモアは、これと言って明確に納得できる説明(伏線)もないままに、最後の一行で唐突にピストル自殺してしまう。
発表当時はずいぶん物議をかもしたらしいし、それから五十年以上が過ぎた今もなお、「あれはおかしい」と主張する学者がいるそうで、十分それは頷ける話だ。読者の鼻先でばたんとドアを閉めるようなあのやり方は、他人がぜったいに覗き込むことのできない個人の心の深淵(それを「闇」と呼ぶことも許されるだろう)を否応なく類推させて、ぼくたちを揺り動かすけれど、いっぽうで「あざとさ」と紙一重なのもまた事実だ。
すでに優れた風俗小説の書き手としての評価を得ていた吉田さんは、『パレード』を手がけるに当たって、たんなる風俗小説の域を超え、「人の心の闇」を読者に提示しようとした。ひとまずはそういう言い方ができる。新進から中堅に歩を進めようとする作家にとって、その心意気はもとより至当なものであったろう。
ポイントは、それがうまくいったかどうかだ。誰しもが想像できるとおり、「戦場の導入」も「バナナフィッシュ・エフェクト」も(考えてみれば当たり前だけど、この二つはよく対になって使われる)、きわめてインパクトが強い反面、おそろしく反動のきつい技法だからだ。「純文学」の中で使われる場合はとくに。……下手をすると、「文学」が一瞬にしてスプラッタ・ゲームと化してしまいかねないのである。
「あの人」があのような凶行を起こす伏線は、92ページ、137ページ、184ページ、223ページ、そして248ページに敷かれている(281ページから282ページへの流れは、すでに事件が始まりつつあるので、もう伏線とはいえない)。とりわけ小石を小屋の窓に投げつける223ページのエピソードは重要だ。この話を彼がどうやらサトルだけにしかしていないことは、彼とサトルとの親和性を物語るものだろう。
また248ページの挿話は、彼の人格が子供の頃から乖離していたことを示すのかも知れない。とはいえ、それにしたって、たったこれだけの伏線で、果たして彼が「壊れている」ことを十全に浮かび上がらせていると言えるだろうか? ぼく個人はそうは思えない。つまり作者は、「バナナフィッシュにうってつけの日」でサリンジャーが受けたのと同質の批判を受ける余地がある。ようするに、あざとい。
ただし、もともと「バナナフィッシュ・エフェクト」自体がそういうものであり、伏線が不十分で、余白が多いからこそ当人の「闇」の深さが際立つのだとはいえる。だからやっぱりここでは「戦場の導入」を、「血に逃げた」ことの是非をこそ問題にする必要がある。
それというのも「彼」には、この凶行に比べたらまったく些細なことだけど、作品のテーマからすれば本質的な、もうひとつの秘密があるのだ。彼自身はべつに面倒見がいいわけでもなく、人恋しいわけでもないのに、いわば≪投げやり以上、悪意未満≫ていどの気分で次々と彼ら・彼女らを引き入れてきた。その結果、意図せずして妙に居心地のいい空間ができあがってしまい、彼もまたどこかしら兄貴分のように遇されているけれど、それは別に彼の本意ではなくて、彼自身は「自分が得になるようにしか行動していない」のである。
実をいうとぼくは、同居人たちが「知っている。」というのは、凶行ではなく、そっちのほうのことなんじゃないかと思えてならない。それならば辻褄は合うが、凶行のことだとすると途端に絵解きが難しくなる。都合三回読み返したものの、それぞれのみんなが、一体いつ、凶行の犯人が「彼」であることに気がついたのか、どうしてもぼくには分からなかった。
ことに未来は、途中まで別の人を疑ってたわけだし、気づいた時点で明確な徴候が表れたはずだが、目を皿にして作品を読んでも、どこにもそういうものが見当たらない。ほかの三人についても同様だ(ただし隣家の占い師は、なぜか知ってるようだけど、これはさほど不思議っていう気がしない。フィクションに出てくる占い師ってのはそういうものだ)。
川上弘美さんは解説で怖い怖いを連発しておられるけれど、芥川賞の選考を務めるこの方の目には、読み返すたび、誰がどこで「気づいた」のかが、逐一見えていったのだろうか? もしこれだけの悪事を知ってて何ひとつアクションを起こさないとしたら、その集団はもちろん怖い。
作品のテーマからすれば、彼らが何も言わない理由は、「その人がよそで何をしてようと、僕の・私の前でいつものように振舞ってくれるのならばそれでいい。変に距離を詰めたりして、この居心地のよい空間を台無しにしたくない。」ってことになるだろう。だけどこの場合、その「よそでやってること」の凶悪さの度合いが桁外れなのだ。万引なんかとはレベルが違う(注・万引は犯罪です)。
仮に百歩ゆずってモラルの問題を棚に上げるとしても、それほどの暴力性を秘めた人と同居を続けるなんて、それこそこんなに「怖い」事態はないではないか。どう考えてもそりゃ変だ。
もし本当にそれで平然としていられるならば、ほかの四人も(美咲は「知ってる」かどうか不明瞭なので除く)、「あの人」と同じか、下手するとそれ以上に壊れてるってことになる。しかし、そんなことがありうるだろうか。
「あの人」と親和性があり、一風変わった経歴をもつサトルはともかく、あとの三人はそれぞれに偏ったところがあるとはいえ、生い立ちもまあ普通だし、独白の部分を見ても、結構まともな感性と良識を持っている。ラストまで話を持ってきて、いきなり「彼らもじつは、こんなにも壊れてたんですよ。」なんて落ちにするのは、もはや単なるあざとさを超えた、無理無体なバナナフィッシュ・エフェクトだと思う。設定に無理があるってことは、つまり、あからさまに作り物ってことであり、そこに怖さは生じない。
だからぼくは、「そっちの方向に持っていかないほうが、むしろもっと怖くなったはず」だと言いたいわけである。これはまさしく作者の力量というよりないが、良介の5本目の鍵と、琴美の宅配便の段ボールはたしかに怖い。未来のお手製つぎはぎビデオは、作品の中でもうシャレにされてしまっているけれど、ピンクパンサーのコミカルなパレード(作品のタイトルはここから来ている)を上書きされたその画像は、あのシチュエーションで流されなくてもやっぱり怖い。
とどめを刺すのは、「あの人」が向かいのマンションの踊り場から自分たちの部屋を眺める件りだ。「あのマンションで暮らしている誰もが、実はそれぞれ別の場所で暮らしているのではないか……」
これだけの道具立てを揃えたうえで、彼が部屋を提供している身勝手な動機を、同居人たちが「知っている。」としたら、それでもう十分ではないか。なにもことさら、「戦場を導入」する必要なんてなかったんじゃないか。十分それで、ラストのあの一行に繋がっていくではないか。
以上のような理由から、ぼくはこの作品をけっして評価できないけれど、もし「戦場の導入」がなく、ただ同居人たちが「あの人」の身勝手な動機を知ってましたってだけのことなら、かくも異様な読後感は生じないだろうし、この本はこんなに売れなかったろうし、おそらくは映画化されることもなかっただろう。そしてぼくも、ここでこうして論じようという気にはならなかったはずだ。
じつはぼく自身、三回ちょっと読み返し、こんなにも時間を費やして考察していながら、「あざとさ」と「文学性」との紙一重の「距離」が、いまだにうまく見極められないでいる。小説とはどこまでも難しいものだ。
はじめまして。
楽しくブログ拝見させていただきました。
この本は読む人によって捉え方が大きく変わる小説だな、と思いました。
私が怖いと思ったのは、自分自身を振り返ってみて感じました。
上辺だけの関係でよくて、ここに一番ぴったりと適応できそうな自分を、自分で演じていく、
それがいやなら出ていくだけのこと。
一見、楽しいじゃないか、何が悪い、今よくある話だ。なんて思っていて、むしろ共感してしまった自分。
そうなると登場人物が自分自身に思えてきて……
結局何が言いたいかといいますと、
私も、直輝がどうなってもいいと思っている人たちと同じ位置にいる、ということに怖さを感じました。
ジョギング(犯行)へ向かうときは、彼らのように迷惑な顔をする。
でも、ジョギング(犯行)を止めようとはしない。
ダブって見えてしまったんです。
投稿 ブースカ | 2011/02/18
コメントありがとうございます。
この記事はかなりアクセス数が多いのですが、コメントを頂いたのは初めてで、うれしいかぎりです。
記事をアップしたのはもう1年も前なので、ぼくの感想もいくらかは深まっているかと思うのですが、ひとつ気がついたのは、作者はこれを、パソコンのチャットルームを想定して書いたのではないか、ということでした。
それも、実際にはまったく面識がなく、ただネットの上だけで繋がっている間柄をモデルにしたのではないか?と。
それだったら、繋がってる時だけ愉しければいいわけで、相手のひとがリアル世界で何をしてようと、まったく知らぬ存ぜぬでOKですもんね。
そういう意味なら、ぼく自身も、ここに出てくる人物たちに十分に感情移入できます。自分の中にもそういう面があると思います。
とはいえ、小説の中では、この人たちは現実に一緒に暮らしているのだから、同居人がそんな「危険」なひとだったら、やっぱりここまで平静ではいられないと思うんですよ。
記事の中ではその点を強調してみましたが、この小説が、現代社会の一面を鋭く切り取った優秀な作品であることは、間違いないと思っています。
投稿 eminus(当ブログ管理人) | 2011/02/19
昨日、久しぶりに読み返してみて、
面白い本なんだけど
表現的に「納得出来ない感」を解消しようと
ここに辿り着きました。
本ブログ楽しく読ませて頂きました。
本作はチャットルームでの人間関係のような生活
まさにそのままです。
かく言う私も東京都内のシェアハウスで
男女8人の生活を送っています。
自分が快適に暮らす為には、
苦手な相手にも笑顔で接し
住人同士、相手に深入りしない
無用なトラブルは避ける
皆、もの分かりがいい大人を演じる
そんな不文律があります。
本作のそういった浅い善意などの
描写のうまさにはとても感心させられました。
直輝の狂気や残虐性の伏線などはさておき、
サトル以外の皆もその犯行について知っていたか?という点について
「皆が知っているが、日常の生活を壊さぬようにしている住人達の怖さ」
みたいな感想が結構多くて驚いています。
サトルには、他人の生活を覗く趣味があり、
ちょっと興味を持っただけのおじいさんの後を尾行したりするのも当たり前、
倒錯した性の持ち主で、バイオレンスな事も日常的
直輝の倒錯した性衝動(犯行)を割と早い段階で
知っていてもおかしくない設定です。
が、他の住人は知っていたか?
直輝自身が最後に「こいつら、本当に知っているのだと肌で感じた」
と思っただけで(それも思考が狂気モードの時)
そんな伏線はどこにも出てきません。
イラストレーターの未来などは、
サトルの犯行だと思い込み、
寝ている直輝を起こして相談するくだりまであります。
なので、何故読まれた方が
皆知っていた恐怖、のような感想を持つのか不思議でなりません……
何が言いたいかというと
直輝が「こいつら、本当に知っているのだと肌で感じた」という表現が
読み終わっても全く納得いかないのです。
(いくら狂気モードとはいえ)
「皆、知っていたのか?」の問いかけなら、ありがちですが、
まだ納得出来ました……
いずれにせよ全体的に面白かっただけに、残念なラストでした。
投稿 | 2012/05/20
コメントありがとうございます。じっさいにシェアハウスにお住まいとのことで、興味ぶかく読ませて頂きました。
吉田修一さんの作品では、『悪人』がいちばん上手くできており、『パレード』はむしろ失敗作に属するかとさえ思うのですが、破綻を生じている分だけ、ひどく謎めいていて、いつまでも心に残る小説です。小説の魅力が「完成度」だけに掛かっているわけではないことがよく分かります。
ちょっと今、肝心の幻冬舎文庫が見当たらなくて、うろ覚えで書きますが、おっしゃるとおり、サトル以外の住人たちが直輝の凶行(もっといえば、衝動および性癖および狂気)をほんとうに知っているのかどうかは、やはり極めて不鮮明ですよね……。
「犯行のあと、精神状態がものすごく不安定になっているところへ、ふいに現れたサトルに誘導され、そのように思い込んでいるだけ。」という解釈も十分に成り立つでしょう。どちらかといえば、そう取るほうが常識的かと思います。この記事の中で強調しているとおり、ほんとうに「知っている。」としたら、ルームメイトたちがこれほど平静でいられるはずはないだろうから(ぼくは家族以外の者とルームシェアした経験はないけど、ぜったいそうですよね?)
だから、世評の多くが、「知っている。」という点をあっさりと受け入れているらしいのには、ぼくも違和感を覚えます。
客観的な事実としては、じつはサトル以外のルームメイトたちは真相を知らない。しかし直輝の主観の中では、みなが彼の本性を知悉しており、しかも誰ひとり踏み込もうとはせず、冷ややかな仮面の向こうで、しらじらとこちらを眺めている。
ラストシーンがわれわれ読者に示しているのは、そんな情景なのかもしれません。少なくとも直輝にとっては、それは耐えがたい恐怖なのでしょう(ぼく個人としては、このような凶悪犯に同情する気は毛ほども起きないのですが)。
投稿 eminus(当ブログ管理人) | 2012/05/21
はじめまして。
読後のスッキリしない感からここにたどり着きました。
一番納得できるというか、共感できる感想でした。
ふと思ったのですが、サトルの「みんな知ってるんじゃないの?」という「嘘」で直輝をあの部屋に縛り付けたという見方もできますよね。
そう考えた方がキャラクターの特徴が引き立ってて面白い気がします。
そうすると他の伏線が台無しにはなりそうなんですが、
適度な距離を保つため、言いたいことだけを言う、相手に深入りしない、トラブルは避ける、という部屋の不文律をサトルが象徴的に体現したとしたらそうでもないですかね?
投稿 | 2012/07/07
コメントありがとうございます。
そうですね。サトルは、「みんな、そんなのとっくに知ってるよ。」という言い方はしていない。
「みんな知ってんじゃないの? よく分かんないよ。」と言ったんですね。
この作品の世界においては、誰ひとり「腹を割って話す。」ということをしないから、すべてが曖昧なんですね(そこに強烈なリアリティーがあって、多くの人が惹きつけられるのでしょうけれど)。
直輝はその言葉を聞いて様々な符合に思い至り、さらに帰宅したのち彼ら全員の態度を見て、「こいつら、本当に知っているのだと肌で感じた。」と確信するわけですが、それはあくまで彼の主観であって、「事実」かどうかは疑わしい。
そのあげく、「これまでと同じように、俺さえ一歩前へ踏み出せば、それでいいのかも知れない。」などと、開き直ったかのような述懐をしています。もし直輝がじっさいにそう振る舞うならば、彼らの「日常」=「パレード」は、少なくともいましばらくは、このまま続いていくのでしょうか……。
それがサトルの思惑どおりであるならば、直輝は彼の術中にまんまと嵌まったことになりますね。たしかにサトルは、そのていどの策を弄するくらいは世間知に長けた少年でしょうし。
その解釈でいくならば、「適度な距離を保つため、言いたいことだけを言う、相手に深入りしない、トラブルは避ける、という部屋の不文律」、すなわち「作品のテーマ」をもっとも端的に体現するのはおっしゃるとおりサトルであり、彼こそがいちばん「怖い」キャラクターということになるのかも知れません。
この返信を書くうえで、あちこちをひっくり返して『パレード』の文庫版を探し出し、ラスト部分を読み返したのですが、「未だ裁かれもせず、許されもせず、俺はゼロのまま入り口に立たされている。まるで彼らが、俺の代わりに、すでに悔い、反省し、謝罪し終えてでもいるように見える。お前には何も与えない。弁解も懺悔も謝罪も、お前にはする権利を与えない。なぜかしら自分だけが、ひどくみんなに、憎まれていたような気がする。」という最後の独白には、あらためて違和感を覚え、腹が立ちましたねえ……。
凶悪犯が何をひとりで自己憐憫に浸って、甘ったれたことをほざいてるんだ、というね……。お前に無惨に殺された人たちや、その遺族たちのことはどうなるんだ、と言いたい。
この作品を書き上げた時点で、吉田修一さんがどれくらい直輝のことを突き放して見ていたのか、正直ぼくにはよく分からないんですよ。全編を読了したあとの「スッキリしない」感じは、じつはそこのところから発しているように思います。
投稿 eminus(当ブログ管理人) | 2012/07/08
占い師の言葉から読み取ると直輝の抱えていた闇は延々と続くパレードの様な世界の中から抜け出したいという欲望でした。しかし、また占い師は世界の中から抜け出してもそこには1回り大きなだけの同じ世界が拡がっており、直輝に対して世界の方が優勢だとも言ってました。
これが最終章で浮き彫りになったのだと思います。
まず直輝以外の4人の章では犯行の存在は仄めかされましたが、それが直輝のものだと読み取れる要素は読者、そして「4人」にとって一切書かれていません。
これはパレードを乱す事が出来なかったと素直にとって良いと思います。殺人犯が身近にいたらあそこまで平常通りには直輝以外の「普通の人」にはできないでしょう。そういう意味ではサトルは例外だった訳ですが
そして最終章、ここまで何度も凶行を起こしてしまった直輝は今更止められる訳もなく犯行に及んでしまいます。そしてそこをサトルに見つかり、ようやく変化が訪れる、弁解、懺悔、謝罪ができると期待した矢先、絶望します。「こいつら、本当に知っていたのだと肌で感じた」と
しかし、直前に目撃したサトル以外の3人はこれまでの描写から直輝の身勝手さを知っていたとしても、直輝の凶行は全く知らない、つまり直輝は4人がこれまでずっと知っていたと勘違いしてしまった。自分の内面から自壊し、余りにも重い罪を背負い込みながらパレードを歩き続けるしかないと思い込んでしまった、
実際に縛り付けているのはサトルだけで他の3人は何も変化していないのに。
気づいたサトル以外はそれこそ何も変わっていないのにもう変化させる事はできないモノなんだと世界を自分の中で固定した直輝は正に敗北したと言えると思います。
つまり、直輝にとっての世界を縛り付け固定する為に、この共同生活が終わったとしても一生苦しみ続ける程の、罪の重さは必要だと考えます。
表面上の付き合いを切り崩そうという欲望を根源として凶行(性衝動)に走った人間が犯したショッキングな罪は勿論ですがそれ以上にその中でも日常が続いていける事の不気味さがこわいと感じました。
私の妄想が過分に入ってしまってすいません。
このところ「君の名は。」のことでアタマがいっぱいで、『パレード』の世界になかなか入っていけないのですが……(苦笑)。
いま『怒り』が上映されてますが、吉田さん、ほんとに大きな作家になりましたね。ちょっと変わった風俗作家から、ひとの心の闇を描ける書き手になった。その契機となったのがおそらくこの『パレード』で、刊行から十年以上が過ぎてなお、こうやって多くの読者を惹きつけるのは、まことに羨ましいかぎりです(羨ましい、というのは、ぼくも小説を書いてるから)。
今回いただいたコメントは、ぼく自身が、ほかの皆さんからのコメントの助けを借りて辿り着いた結論(めいたもの)とさほどの違いはないように受け取れたので、その点について異議はないのです。
ぼくがいま『パレード』という作品について感じる「もどかしさ」というか、もっとはっきり言うなら「苛立ち」は、「直輝が、犯した罪に相応しいだけの報い(罰)を、この作品の中において受けていない。」ということに尽きると思います。
「とりあえずここまで書いて、その先のことは、直輝の苦悩も、今後の身の処し方も、読者の想像に任せる。」という書き方は、小説の作法としてはもちろん可能であるとは思いますが、ぼく自身は、もしこの小説の書き手であれば、ここのところで小説を終わらせることはできませんね……。
やや的外れかも知れませんが、これでご返事になっておりますでしょうか。
私も直輝の罰について考えてみましたが...
確かに直輝への罰は存在し、「パレード」から抜け出す事ができない苦悩と想像する事ができます。そして、それは直輝にとって勝目のなくなった勝負を永遠に続けるに等しい程のものだと。
しかし、肝心の「パレード」はこの小説で散々書かれた様に、表面上の付き合いであり、直輝にとって打破できなくとも逃げる事はできるものであると気付きました。例えば、あの最後の場面の後、居心地がどうしても悪いのならば自分から引っ越してしまえばいいのですし。
この「パレード」の軽さが、何人もの女性の日常を修復不可能なまでに破壊した直輝への罰としては相応しくないと納得出来ました。
直輝の内面にとって救われる機会はサトルによってもう永遠に失われたのかもしれません。ですが日常をこれまで通り過ごす事はできます。直輝の罪はこの事から生まれる幸せを真に実感しようとしなかった(あるいは性分としてできない)事もあると感じました。
哀れではあるが、やはり許されるべきではない異常者が直輝だと思います。
女性を何人も暴行し、「健常な」同居人達を巻き込もうとしておきながら、最後の1文まで自分本位、都合良く『ひどく憎まれている様に感じた』事が、直輝という人物が真に己の罪を理解することはこれから先無いというこわさが表れているのではないでしょうか。
多分、続きがないのは、これ以上先で直輝は罪を実感する事は無い、それ即ち報いを受けさせることは出来ないからだと思います。(逮捕されて施設に入るために若い女性に暴行したお婆さんの話を思い出しました。)
「君の名は。」の人気の衰えのなさは凄いです。これだけの人気、さぞかし面白いに違いないですね(ミーハー)「君の名は。」、ここでの論考を読む事を楽しみに、見てみようと思います。
ことに今回の追伸は、より深いところに踏み込んでおられて、「倫理」について読者にこれだけ考えさせる吉田修一という作家に、あらためて羨望を覚えましたね……。
たしかに直輝という男は、許しがたい凶悪犯ですが、単純な意味での「悪人」というわけでもなく、いかにも現代的だなあと思います。
残虐なことをやってのける、という以外にも、おっしゃるような意味において、つくづく怖い。
ぼくの小説がいまいちなのは、直輝みたいな人物像を造型できないところに、その一因があるのかもしれない。
それとサトルの怖さですよね。いま『パレード』を読み返す時間がないのが残念ですが(そもそも本が見当たらない)、もういちどサトルを中軸に据えて再読したら、また発見がありそうな。そんな気もしています。
ぼくの小説がいまいちなのは、サトルみたいな人物像を……(以下略)。
映画「君の名は。」は、「ひとの心の闇」とはまったく無縁で、むしろ綺麗すぎるほどですが、とりあえず今のぼくには、もっとも大切な作品なのです。