ダウンワード・パラダイス

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中世について 02 「中世」はいつから始まったか?

2019-09-27 | 歴史・文化
 そもそも西欧史学から借りてきた「中世」なる概念が日本の歴史に当てはまるのか、という議論はまたの機会にいたしましょう。「古代」「中世」「近世」「近代」「現代」といった区分がほぼそのまま通用するものとして話を進める。


 このうち、「近世」「近代」「現代」はわかりやすい。それぞれ、江戸期、明治維新の前後から太平洋戦争の惨敗まで、そして占領期から高度成長~バブルとその崩壊を経て現在である。むろんそんなにすっぱり截然と切れるもんじゃなく、徳川270年の治世によって涵養された経済や社会や技術のシステムがなければああ易々と(でもないけど)「文明開化」が成し遂げられるはずもない。そういう意味ではすべての時代はいうまでもなく繋がっている。されどおおまかな目安としては十分に機能するとは思う。


 もんだいは、「中世」がどこから始まるかだ。ぼくなんかの学生の頃は頼朝の政権、すなわち鎌倉幕府の開府をもってそう見なすのが標準だった。イイクニ作ろう鎌倉幕府ってやつだけど、1192年は頼朝が征夷大将軍に任じられた年だ。しかし近年の日本史学では「これを以って鎌倉幕府の成立とみるのが妥当か?」との問題が提起され、「頼朝が鎌倉に居を構え、南関東の支配に乗り出した」1180年、「守護・地頭の設置を行った」1185年あたりがふさわしいとされる。他にもいくつか候補はあるが、いずれにせよ1192年よりけっこう早い。つまり実質的な開府はもっと早かったとされているわけだ。


 当時はまだ律令制が生きている。律令制の中での「征夷大将軍」はいわば「東部軍総指令官(それも臨時の)」くらいのものだ。それからほぼ400年のち、家康が江戸に開府した際の「将軍様」よりまだずっと軽い。だからその任命が必ずしも起点にはならないという話なのである。


 さて。開府の起点をどこに置くにせよ、頼朝の政権は紛れもなく「軍事政権」だった。京の朝廷はそのまま置いて、軍事力をバックに、鎌倉の地にもうひとつの「権力の中枢」をつくった。そのためにフル活用したのが、律令制の埒外にある「令外官(りょうげのかん)」というシステムで、そもそも「征夷大将軍」自体が令外官にすぎない。さらに、日々の実務や頻発するトラブルに対処すべく、京の認可を待たずに現地で人材を登用していったわけだ。


 そうなれば勢い律令制は緩んでいくが、ただしこの臨時(だったはず)の軍事政権は、京の公家社会に手を付けぬばかりか、「権威」の源泉としては、ずっと利用しつづけていた。この二重構造は世界史上ほかに類例を求めづらい。あえて言うならヨーロッパにおける歴代のローマ法王と皇帝たちとの関係に近いか……とも思うが、いろいろ条件が違うからここではそれ以上踏み込めない。ともあれ、京と鎌倉、ふたつの場所に政権ができた。そしてこの権力の二重……より正確にいえば多重……構造こそが「中世」のありようであるとするならば、じつはそれは、頼朝の政権よりずっと早くに始まっていたじゃないか、というのが今日の中世史学の見解であるらしい。


 つまり、「鎌倉幕府の開府」をどの時期に置くにせよ、じつはそれすら「日本の中世のはじまり」とは規定できない。近年の日本史学の中世像は、そのようになっているらしい。つまりそれだと清盛の平氏政権や、それに先立つ「武士の台頭」が「古代の末期」に収まってしまうが、その歴史観はおかしいぞ、というわけである。


 では、「中世」はいつから始まったのか。


 むろん研究者によって意見の相違はあるにせよ、「院政期」こそが「中世のはじまり」であるというのが今日の一般的な見解なのだ。院政とは、天皇の父親である院(僧形をしている)が、天皇以上の権限をもって政治を主導することだ。この院のことを「治天の君」と呼ぶ。2012(平成24)年の大河ドラマ『平清盛』では、伊東四朗の白河法皇がおそるべき存在感を放っていた。そののち三上博史の鳥羽法皇、松田翔太の後白河法皇が登場したが、この三人が院政を行っていた時期が「院政期」である。


 白河天皇が譲位して院政を始めたのが1086年だから、もし鎌倉幕府の成立を1180年まで前倒ししても、ほぼ100年も前に「中世」が始まってたんですよ、って話になる。