ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

芭蕉と門人たち 01 西施と蛇女

2019-07-30 | 雑読日記(古典からSFまで)。



 芥川龍之介は俳句を嗜んだ。
 「自嘲」と題した「水涕(みづばな)や鼻の先だけ暮れ残る」、感覚の鋭さを示す「蝶(てふ)の舌ゼンマイに似る暑さかな」「青蛙おのれもペンキぬりたてか」などが有名だけれど、ぼく個人は、


 蛇女みごもる雨や合歓の花


 が忘れがたい。「蛇女」のインパクトがあまりに強烈だ。これはイギリスの詩人キーツの歌った蛇女(レイミア)だろう……とぼくは目星を付けてるのだが、ちゃんと考証したわけじゃないので定かではない。いずれにせよ、怪奇趣味あるいは妖美趣味の色が濃い。ただ、最近になって改めて見返すと、むしろ「合歓の花」のいわく言い難い佇まいを際立たせるために蛇女をもってきた……ようにも思えた。つまり合歓の花が主役で蛇女のほうが従なのだ。俳句に親しんでいる人なら「何をいまさら」と仰るだろうか。







 芭蕉にも、
 象潟や雨に西施がねぶの花
 がある。「ねぶ」は「合歓」だが「眠る」の意を含んでいるのでこう表記せねばならないらしい。西施は古代中国の伝説的な美女。蛇女よりは穏やかだけど、それでも妖艶なイメージであろう。ただ、この句は「ねぶの花」よりむしろ「象潟」という土地そのものを西施に譬えたものだそうな。とはいえ、上記の句をつくるにあたり、芥川の念頭にこの句がなかったはずはない。
 芥川は芭蕉を終生敬愛していた。おもな評論とエッセイを集めた『ちくま文庫版 芥川龍之介全集 7』には、「俳句論」として、「発句私見」「凡兆について」「芭蕉雑記」「続芭蕉雑記」の4本が収められている。凡兆は芭蕉の高弟のひとりだ。




 江戸期の俳諧を代表するもうひとりの巨星・蕪村(1716 享保元年~1784 天明3)の句はイメージがくっきり浮んでわかりやすい。しかし芭蕉(1644 寛永21~1694 元禄7)はそうではない。ことばのやりくりが巧緻すぎるというか……。有名な「海くれて鴨の聲ほのかに白し」にしても、やはり「海くれてほのかに白し鴨の聲」じゃあ嵌りすぎてて駄目なんだろうし、そもそも「鴨の聲」を「ほのかに白い」と叙する感覚が江戸離れしている。フランス近代の象徴詩みたい、とまで言ったら専門家に怒られるんだろうけど……。




 これも有名な「水取りや氷の僧の沓(くつ)の音」の「氷の僧」にしても、当時はずいぶん思い切った言い回しだったはずで、げんに長らく「難題の一つ」とされていた。「(東大寺の)二月堂に籠りて」との前書があるので、「こもりの僧」の誤記ではないかという疑義を呈するひともいたほどで、それくらい奇抜にみえたわけだろう。まあ「氷」は「僧」よりも「音」に掛かるのだとは思う。「沓(くつ)」は練業の際に履く檜(ひのき)でできた木沓のことで、だから沓音が冴え冴えと鳴り響くのだ。とはいえ、「氷の僧」なる字面にはやっぱり一見はっとさせられる。

 ともあれ芭蕉は難しい。ぼくなんかには、先の凡兆さんもふくめ、芭蕉のお弟子さんたちの句のほうがまだわかりやすかったりする。とはいえむろん、すらすら読めるわけではないが。