ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

色気。

2019-03-29 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
 






 ショーケン死す。思えば松田優作が亡くなったのが平成元年。その22年後の平成23年に原田芳雄とコロンボ警部の訃報を聞き、平成28年にはすでに引退していた根津甚八が逝去して、平成の終焉が目睫(もくしょう)に迫ったこの時期になって萩原健一。これで、十代の頃のぼくが「身体論的」に魅了されたカリスマは平成のうちにみんな鬼籍に入ったことになる。寂しい。
 十代の頃のぼくが「文体論的」に魅了されたカリスマ、筒井康隆と大江健三郎という両巨匠がご健在なのがせめてもの慰めというべきか。
 筒井さんはご自身も役者でいらっしゃるわけだが、冒頭に挙げた方々のばあい、むろん醜貌ではないにせよ極めてわかりやすい美男、というわけでもないのが特徴で、顔立ちからいっても全身から発するオーラからいっても「役者」としか呼びようのない存在であった。総身から、香油のようにオトコの色気が滴っていた。
 ちなみに筒井さんによる小説講義『創作の極意と掟』(講談社文庫)には、「文体」「人物」「視点」といった真っ当な項目にならんで「色気」なる項目が設けられている。身体を用いたものであれ文章を用いたものであれ、およそ「表現」さらには「芸術」にとって「色気」はぜったいになくてはならないものなのだ。色気を欠いた芸術なんて成立しない。
 ぼくのばあい、沢田研二や坂東玉三郎、さいきんだったら山田孝之、林遣都のような美男俳優よりも、むしろサンドウィッチマンの富澤たけしのごとく、やや魁偉な雰囲気を漂わせる容貌のほうに「オトコの色気」を覚えたりもするが、必ずしもそれがすべてってわけでもなく、痩せぎすで、なよっとした繊弱な佇まいのひとを色っぽく感じることももちろんある。
 リリー・フランキーなんかもそうだが、ここしばらくでは、昨年暮れの紅白で着流しを着て椎名林檎と歌い踊っていたエレファントカシマシの宮本浩次が忘れ難い。もとより林檎嬢の色気だって只事ではなかったけれど、それよりもさらにセクシーで、ちょっと胸苦しいほどの妖しさを覚えたものである。そのあとの、桑田佳祐とユーミンによる文字どおりの「歴史的共演」よりも印象に残っているのだから、よほどのインパクトであった。
 町田康に似ているなあ、とも思ったが、見たことはないが町田康が着流しでパフォーマンスをしても相当に凄い感じになることだろう。まあ総じてニホンの男は着流し姿がいちばん色っぽく映るはずであり、あなたもぼくも、それでもしサマにならなかったらちょっともう諦めたほうがいいかもしれない。
 日本語というのはもともとが色っぽい言語ではないか、ということをつねづね思ってもいて、むろんこんなのは実証困難なただの思い込みにすぎぬのだが、しかし「漢字」という直線的で詰屈した、厳めしい字面の中に「ひらかな」といふ、みるからにたおやかでやわらかな文字が立ち交わって共存している様は世界中どこを探してもほかの言語にみられないのはたしかである。
 大江健三郎が好きなのも、とかく晦渋だの衒学的だの左翼的だのと思われがちだがじつはその文体そのものがべらぼうに色っぽいから、という理由が大きくて、その伝でいけばいまの日本でもっとも色気のある文章を紡ぎだすのは古井由吉であろう。個人的には「日本文学史上、紫式部と双璧」とさえ思っており、あとはもう泉鏡花とか川端康成とか谷崎潤一郎とか永井荷風とか三島由紀夫とか、正真正銘の「化け物」たちの名前しか思い浮かばない。