ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第5回・小川国夫「相良油田」その⑧

2015-12-29 | 戦後短篇小説再発見
 3月に始めたこの連載、いよいよ年を越すのが確実になってきた。しょうがない。どうせならもう、腰を据えてじっくりやろうじゃないすか。これ以上腰を据えてどうすんだ、という話もあるが。

 前回の末尾で、この短編と三島由紀夫の「雨のなかの噴水」との類似にふれた。あれは徹頭徹尾、「水」のイメージに囚われた作品であった。主人公の明男は、自分でもはっきり意識せぬまま、より大量の水が勢いよく流れる(噴き出ている)方へ方へと惹かれていって、皇居の公園の噴水の前まで至る。連れの雅子は黙ったまま(両目から涙を際限なく流出させながら)ずっと付き従っていく。対して「相良油田」では、道行きを主導するのは年上の女性たる上林先生のほうである。もともとは浩の嘘から発したことだが、彼のほうが引っ張られている感じだ。そしてその先生を突き動かしているのは、「雨のなかの噴水」における水ほど露骨ではないが、「油田」ひいては「油」のイメージであるといっていい。

 この連載の第2回で、ぼくはこう書いておいた。「石油とは、ドロドロしていて、濁っていて、何かしら暗いエネルギーに満ち、地の底から湧き上がってくるものだ。そして、「油田」とはまさに石油が湧いて出てくるその場所なのだ。このことを弁えておかないと、作品の魅力は半減してしまう。」

 浩の夢のなかの先生がなぜこれほど「油田」に執着するのか、そう考えるとわかってくる。上林先生が油田を目指すのは、好奇心というより、そのような場に彼女が引き寄せられているということだろう。彼女の欲望がそのように働いているわけだ。まあ、思えばこれは浩の夢の中なのだから、それはすなわち浩の欲望の投影であるわけだが。だからこれは、結局のところ大抵の夢がそうであるように、なかなかに性的な夢なのである。

 「鱏の岩」駅で降りたのは二人だけだ。駅のホームでも、駅舎を出て大井川の川原まで歩いていくときも、依然として浩はぴりぴりしている。のみならず、目的の地が近づくにつれ、その切迫感はさらにいや増すばかりである。川原を臨む位置まで来たところで、ひどく印象的なシーンが挿入される。引用しよう。


 いつもなら、そういうものとしてしか見ない、おびただしい数の石ころが、なにか途方もない間違いとして眼に映った。いつか彼が鱏の岩へ兄と来ると、そこに川上から夕日が射していたのを、当たり前な眺めだとしか思わなかったが、きっと人間は馴らされ、騙されて、そう思うのだ、と彼は感じた。彼はたよりなげな口調で、突然いった。
――先生、世界に夕焼ってものがなくて、或る日急に夕焼が見えたら、みんなよく見るでしょうね。
――……………。
――地球が出来てから無くなるまでに、夕焼が一回しかなかったら、その晩には気が狂う人が出るでしょうね。
――夕焼……。
――ええ、夕焼が。
――そうね、世界中の学者が調べるわ、きっと。
――みんな、きれいだって思うでしょうか。
――不思議な、美しいものだって思うわよ。
――怖ろしいものだって思わないでしょうか。
――これから、なにが起るかって思って……。
――ええ。
――結局はなにも起らないのね。
――でも、夕焼が起ったってことだけで、なにかが起ったんです。
――ふふふふ、なにをいってるの、柚木さんは。

 じっさい、「なにをいってるの、柚木さんは」と返すしかないような、いまひとつわからない浩少年の言いぐさなのだが、論理としては不得要領ながら、それでいて妙に心に残る会話である。やっぱりそれは、「夕焼」というもののイメージがそれだけ鮮烈だからであろう。かつて三島由紀夫が「現代の定家」と賛辞を呈した歌人・春日井健に、「大空の斬首ののちの静もりか没(お)ちし日輪がのこすむらさき」なる作品がある。春日井自身の代表作であるのみならず、現代短歌を代表する一首ともされるが、夕焼のもつ不穏さを鋭く感受している点で、浩くんのこの発言は春日井の歌と通底しているように思う。そしてまた、ここで仄めかされた「赤」=「血」のイメージは、こののち作品のクライマックスにおいて、より凝縮されて再現されることになる。

――それよか、油田のことよ。
――…………。
――あなたのいうのは、あれじゃあないのかしら。
 彼女が指差したのは、川原の真中の洲に建てられた採石の小屋だったようだ。二階の小屋で、一階には大きな鉄の調車のついた機械が据えられてあるのが見えた。
――えーと、あれだったかな、といった時、浩は腕の下側を擦って彼女の腕が添えられたのを感じた。彼女のうぶ毛がわかった。脈を見るくらいのかたさに、彼女の指が手頸(てくび)を圧えていた。

 「手を握る」とか「腕を組む」というのとは違うようだが、ともあれこれは初めての身体的接触にほかならず、ふたりの距離がぐっと親密になったあらわれだとは思うのだが、意外と浩の反応は薄い……というか、浩がこのとき何を感じたか、作中にはまるで書かれていない。相変わらず少年は、「自分は先生を騙しているのか、それとも先生にからかわれているのか……」などと、そこのところにかかずらって、いたずらに神経を痛めるばかりである。正直なところ、こちらもいささかうんざりさせられるのだが、年が明けてもいましばらくは、付き合ってやらなきゃしょうがない。