ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

三島由紀夫への長い迂路(うろ)。

2014-11-17 | 戦後短篇小説再発見

 魅死魔幽鬼王、と仮名を当ててみたい。ぼくにとっての三島由紀夫はそれくらい不気味で謎めいた作家だ。いかに根が浪漫主義者とはいえ、あれほどの明晰な知性がなぜあのような死を遂げられるのか。才能が涸れたわけではない。市ヶ谷へと向かう日の朝に『豊饒の海』の完成稿を仕上げていたことはあまりにも有名である。その第四部「天人五衰」の結末は森閑たる虚無に満たされてはいるけれど、そのことと作家としての生命の終焉とはまったく違う。永らえていれば70年代にも80年代にも90年代にも、ひょっとしたらぎりぎりゼロ年代にも傑作や問題作を書き続けていたに違いないのである。バブル時代のミシマや冷戦終結後のミシマ、インターネット時代のミシマを是非とも読んでみたかった。

 よもや決起を促すアジ演説に自衛隊が乗ると本気で思っていたはずもなかろうし、割腹(および介錯)による自裁までの経緯は完璧に計算ずくだろう。それを考慮に入れてもなお、カーニバル的とまで呼ぶのは憚られるにせよ、少なくとも蕩尽的とは言いたい行動である。明晰な陶酔、というのは例えば「甘美なる苦痛」と同じく撞着語法ではあるけれど、ただひとり三島由紀夫に関してだけは、その形容が矛盾にならぬのかもしれない。戯曲家・ミシマが生んだ数々の華麗で犀利(さいり)な芝居のように、すべては明晰な陶酔のなかで繰り広げられた一場の夢幻劇ででもあったのか……。そのとき彼の演出にのっとって、否応なく観客席に座らされたのは、万博に浮かれた当時のニッポンそのものだった。

 「戦後短篇小説再発見」の次の回が、三島の「雨のなかの噴水」なのである。これ自体は、彼の全文業から見れば小品にすぎぬが、なにしろ相手はミシマであり、「旧ダウンワード・パラダイス」でも正面切ってこの人を扱ったことはなかった。だからそれ相応の前置きが要ると思った。ところが、これまでミシマをきちんと読んでこなかった。はっきり言えば逃げ回ってきた。2年まえ、ある方からのコメントに答えて、ぼくはこんな返事をかえしている。「残念ながら、ぼくは昔から三島由紀夫という作家が駄目なんですよ。エッセイはわりと読めるんですが、小説のほうが駄目なんです。生理的に受けつけないとまで言ったら大げさですが、どうしても作品世界に入っていけない。「サーカス」とか、短編ではいくつか偏愛しているものもあるんですけど。」

 2年まえにしてなお、このありさまである。このたびも、草稿を書いては消し書いては消し、これで何度目になることか。試行錯誤を繰り返し、どうしてミシマを扱うのかがかくも難しいのか、とりあえずその理由はわかった。トピックがすぐ広くなり、かつまた深くもなってしまうのだ。たとえば性倒錯を極上の日本語で綴った先達として、川端康成と谷崎潤一郎の名前がつい出てしまう。こうなってくると大変だ。ミシマひとりでも手に余るのに、さらに二人の化け物を召喚してしまうわけだから。あるいは、国粋主義の話にもなれば、それこそ政治の話にもなる。気を緩めると話柄はたちまちそっちへ行く。こうなるともう泥沼である。相当の覚悟と準備がなければ、軽々に踏み込んでよい領域ではない。

 とりあえず、暫定的にでも小文をまとめたいならば、題材をできるだけ絞り込むよりほかにない。この週末、以前に挫折して書棚の奥に押し込んであった『春の雪』(豊饒の海・第一部 新潮文庫)を引っ張り出して、一気呵成に読み終えた。面白かった。以前に挑んだのは9年まえの2005年、自らも三島ファンだという宇多田ヒカルの主題歌つきで映画化された際だった。あのときは紅葉見物の折の清顕と聡子とのやりとりまで来て、「なんでわしがこんな甘ったれたボンボンの恋愛沙汰につき合わされんといかんのじゃあ。」と腹を立てて読むのをやめたのである。その同じ作品が、このたびは陶然とするほど面白かったのだ。今回はひとまずそのことだけ書こう。

 学界や文壇にはすでに三島研究や三島論があふれかえっているだろう。ぜんぶ集めたら市民図書館くらいは建つんじゃないか。汗牛充棟というやつだ。そういった蓄積をいっさい参照することなく、ここは自らの印象だけでいうのだが、禁忌を犯す19歳の松枝清顕は、父帝の愛妾たる藤壺の女御とひそかに通じる光源氏にどうしても重なる。藤壺の女御は源氏の実母の代償だから、より生々しくエディプス・コンプレックスに近いわけで、そういう意味では三島由紀夫より紫式部のほうがさらに凄かったりもするわけだけど、いずれにしても「春の雪」は、おそらくは日本文学史における「最後の王朝文学」といえるのではないか。

 三島の文体は絢爛たる美文とも称せられるし、また、生のリアリティーを伝えない人工的な構築物ともいわれる。要は読んだこっちが酔えるかどうかだろう。ぼくはこれまで酔えなかった。それが、この齢になってあらためて試してみたら酔えてしまった。

 あの文章は、もちろん、フランスの近代小説が開拓した精緻きわまる心理描写から多くを学んだものである。されどフランスの近代小説、たとえばスタンダールやフロベールやラ・ファイエット夫人やラクロ、さらにはラディゲの文章に対して「人工的な構築物」といった言い方がされることはない。それは人間心理のちゃんとした科学的解剖とみなされている。高1の春に『金閣寺』を読んだとき、20代半ばに『仮面の告白』を読んだとき、そして9年前に『春の雪』を読みかけたとき、ぼくはそれを「人工的な構築物」と感じた。しかるに今は、ごくごくしぜんに、フランスの、というか西欧の近代/現代小説の列につらなるものとして読める。自分のなかで何が起こったんだか知らないが、これはちょっとした異変である。

 初めて新潮文庫の『金閣寺』に挑み、何度も放り出しそうになりつつどうにかこうにか読了したものの、異物感にも似た妙なわだかまりを胃の腑のあたりに覚えて落ち着かなかった高1の春。あのときから長い長い迂路を経て、やっと私はミシマへと辿り着いたのかもしれない。だとすれば三島由紀夫とは、わが半生における最大の欠落だったって話にもなりかねぬのだが……。書きたいことの百分の一も書けなくて、なんとももどかしいけれど、なにしろ相手が相手である。モービー・ディックを付け狙うエイハブ船長の心境で、じっくりと追い回すよりしょうがない。