ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

描写の力。

2014-11-10 | 純文学って何?

 純文学と「物語」とを分かつもの、さらに言うなら、純文学を物語から超え出させるものは、なんといっても「描写」だろう。描写の力にめざめたときに、物語は「文学」へと脱皮するきっかけを得たといっていい。誰でも知ってる物語として、「桃太郎」を例にとってみる。ちなみにこの「桃太郎」というテクストそのものもじつに面白い問題を孕んでいて、少し注意ぶかい読み手なら、「鬼がいったいどんな悪さをしたというのか? ひょっとしたらこれ、桃太郎サイドが難癖を付けて乱暴狼藉を働いたってことじゃないのか?」と疑問を抱いても不思議ではないと思う。侵略を正当化してるんじゃないかということだ。芥川龍之介はいち早くその点に注目して、その名もずばり「桃太郎」というパロディーを書いた。抱腹絶倒のコントであり、青空文庫で読めるので、興味のある方はぜひご一読のほど。

 さて。鬼ヶ島へと向かう桃太郎はイヌ、キジ、サルをお供に従えるわけだが、ネットで見つけた文章によると、ここの件りはこんな感じである。「村のはずれでイヌと出会いました。イヌが桃太郎にどこに行くのかと尋ねるので、鬼退治に行くと答えると、お腰に付けた日本一の吉備団子を一つくれたら家来になってついて行くと言いました。そこで、一つ与えて家来にしました。山の方へ行くとキジがやってきたので、吉備団子を一つやって家来にしました。二人の家来を伴ってさらに山の奥へ進んでいくと、今度はサルがキャッキャッと叫びながらやってきたのでまた吉備団子を一つやって家来にしました。そして、犬に日本一の旗を持たせて鬼ヶ島へ向かいました。」

 それで、次の段落ではいきなり「鬼ヶ島に着くとサルが大きな門を叩きました。」となる。あっさり着いてしまうのである。「島」というからには海上にあるのだろうと思うが、「山の奥」を突き進んでいったらとつぜん浜辺に出たのだろうか。そのあと船はどうやって調達したのか、顔ぶれを見るに、あまり操舵や海路に詳しそうな面子はおらぬようだが、時化に遭ったりしなかったのか、方角はどうやって見定めたのか、何日くらい掛かったのか、などなど、その他もろもろの事情はいっさい何も書かれていない。

 いやそもそもその前に、桃太郎が陸路をぽくぽく歩いていって、イヌ、キジ、サルと巡りあうプロセスも、まるで新聞の四コマまんが並みの淡白さである。鬼たちの襲来を受けて荒らされているはずの村の様子も、桃太郎と第一の家来たるイヌとが分け入っていく山中の景色も、やっぱり何も書かれていない。彼ら一行がどこで雨露をしのぎ、どうやって食料を賄ったのか(吉備団子ばかり食ってたわけではなかろう)も分からない。旅は苦難の連続であったろうけれど、一方では道中において様々な人との巡り会いもあったはずである。そしてまた、渇いた喉を潤す湧き水の旨さや、東の空をゆっくりと紫に染めながら昇っていく朝日の美しさなんかに関しても、「桃太郎」というテクストはなにひとつ語ってはいない。もちろん、それらのことはストーリーとはまるで関係ないからだ。

 「主」としてのニンゲンと、従者たる三匹の異形のものたちが旅をするという構図は「西遊記」と同じだ(そういえば初期の筒井康隆が、この類似を生かして「旅」というSF短編を書いていた)。道中でのエピソードや四人のキャラおよび人間(?)関係をあれこれと膨らませていけば、いくらでも面白くもなるし長くもできるってことは誰にでもお分かり頂けるだろう。ただ、その「西遊記」にしても、「桃太郎」より遥かに長大で複雑とはいえ結局は「物語」であって、それを超え出ていくものではない。そこに「描写」が欠けているからだ。たとえ風景が点綴されていたにせよ、あくまでそれは芝居の書き割りにすぎず、彼らの性格もまたキャラクターとしての類型の枠を逸脱するものではないのである。

 さきほどの例をもういちど繰り返すならば、そこにもまた、「渇いた喉を潤す湧き水の旨さや、東の空をゆっくりと紫に染めながら昇っていく朝日の美しさ」は書かれていない。ストーリーと関係ないからだ。いっぽう、ストーリーそのものにも増して、というのが言いすぎならば、ストーリーそのものと同じくらいに、「渇いた喉を潤す湧き水の旨さや、東の空をゆっくりと紫に染めながら昇っていく朝日の美しさ」を重んじるのが純文学なのである。

 「桃太郎」のような民話や、「西遊記」のような近代以前の空想譚に引き比べるのはルール違反という気もするが、最近また再評価されている野呂邦暢の短編の一節を引用してみたい。40年近くも前に書かれたものではあるけれど、日本の現代小説(純文学)における「描写」の水準の高さを示して余りある文章だ。

「蠱惑(こわく)的なまでに暗い緑の葉身がぶつかりあう音に包まれていると、浩一の内部でも荒々しく裂けるものがあり、それは今、空中に漲っている棕櫚の葉の乾いた軋りに和すようになる。深く割れた硬質の葉片が無数の鞘をかき鳴らす音さながら風にさからう響きは楠の葉がそよぐ気配と比べて全く異質のものだ。風がしばらく勢いを衰えさせた。彼もそれに合せて息をついた。やがてまた風が起り木々をゆすぶり始めると彼も目に見えない棕櫚の葉の強くかち合う響きに聴きいっている。」

 読んでいるこちらも、「それに合せて息を」つきたくなるような緊密さだ。ここで「蠱惑的なまでに暗い緑」という部分だけは視覚に基づく描写といえるが、あとはほぼ聴覚描写である。ただ、「浩一の内部でも荒々しく裂けるものがあり、」というのはもはや視覚や聴覚といった五感にまつわるものですらなく、すでにそれ自体が「内面」の描写としかいいようがない。「私」(ここでは浩一)の五感に響く森羅万象が「私」の内部へと干渉し、密接に働きかけることで「私」の意識を揺るがしていき、その錯綜する絡み合いによってストーリーが進んでいく。ストーリーに細部が従属するのではなく、細部の積み重なりがいつしかストーリーとなる。そのような事態を可能にする「描写の力」こそが、純文学の最大の特質のひとつであり、純文学を物語から超え出させるものだ。