ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

「文学」の外側にあるもの。

2014-09-28 | 純文学って何?
 初訳からほぼ30年を経てこのほど文庫化された『文学とは何か』(岩波文庫 上下)のなかで、テリー・イーグルトンはこう書いている。「この本のなかで私たちは、文学理論の諸問題について考えてきた。しかし、すべての問いのなかでも、もっとも重要な問いが、まだ答えられないまま残っている。文学理論の意義とは何か、そもそもなにゆえに文学理論に頭を悩ませなければならないのか? コードやシニフィアンや読書主体といったことよりも、もっと深刻で切実な問題が、世界にはあるのではないか?」(下巻 P155 終章―政治的批評より)

 まったくもってそのとおりであり、ぼく自身、こうやって文学の話を書きながら、なんとも迂遠なことをしているなあ……というもどかしさはある。引っ越し後の「ダウンワード・パラダイス」は、当面のあいだブンガク専門サイトとして続けていくつもりだが、世の中には、もちろん、ほかにブログで取り上げるべき喫緊の事柄があまた犇いているのである。冒頭に掲げた一文のあとでテリー・イーグルトンは、全世界に配備された核ミサイルのことを述べているけれど、今の私どもなら、そうだなあ、原発の問題もあるし、集団的自衛権の問題もあるし、日本全体の貧困化という問題もあろう。文学について考察することが、いや、さらに言うなら、文学に携わる行為そのものが、そういった深刻なトピックから逃避するための知的遊戯に過ぎないとしたら、文学者はおしなべて高等遊民と見なされても仕方ないだろう。

 ご存知の方もおられようが、イーグルトンはイギリスの労働者階級出身の文芸批評家であり、マルクス主義に依拠している。『文学とは何か』は、近代西欧社会における本格的な文芸批評の誕生から、解釈学/受容理論、構造主義/記号論、ポスト構造主義、精神分析批評を経て、カルチュラル・スタディーズやフェミニズム批評までを総ざらいした好著だが、その根幹を、マルクス主義(的な問題意識)ががっしりと貫いているからこそ、本国はもちろん他の国でも、たんなるお勉強用の入門書に留まらぬ支持を集めたし、今も集め続けているのである。

 だからもちろんイーグルトン自身は、この著作のなかで、文学理論、ひいては文学という制度そのものが、現実の社会における生々しい政治的な力学の産物として私たちの前に形成されてきた/今も形成されていることを繰り返し強調する。そのようにして形成された「文学」は、誰しもが推察できるとおり、ほとんどのばあい既往の「権力」を補完し、その勢力をより強める方に働くというわけである。ところで、ここからはもう、イーグルトンから離れていくことになるけれど、社会への影響力でいうならば、いまの日本にあって、かつて「文学」が担っていた役割を務めているものは、「文學界」「群像」「新潮」「すばる」といった四大文芸誌に載る小説でもなければ、むろん大学の文学部で研究される作品群でもない。

 「文學界」「群像」「新潮」「すばる」といった四大文芸誌に載る小説(すなわち純文学)や、大学の文学部で研究される作品群(すなわち古典)は、とにかく哀しいくらい読まれないんだから社会への影響力を持つべくもない。「だから純文学の雑誌なんぞ廃刊しちまえ。大学の文学部だって、人間総合科学部とかなんとか、なんかよく分かんないけどそれっぽい、イマっぽい名前に代えて再編成すりゃいいだろう」と乱暴なことを言う人もおり、じっさいに、幸いにして文芸誌はまだ存続しているが文学部のほうは絶滅の危機に瀕してたりもする。もちろんぼくは、そんなのはとんでもない話であると思ってるわけだが。

 世に蔓延しているのはアニメでありマンガでありライトノベルである。ぼくはラノベのことはぜんぜん知らぬがアニメやマンガのなかには大好きな作品もあり、これらを一括りにして裁断するつもりはない。しかし、客観的にいってこれらのジャンルがほぼ95%以上ファンタジーに属していることは指摘せざるを得ないだろう。ファンタジーとはなにも、道をぽくぽく歩いていたらいきなり空から露出の大きい服を着た美少女が落ちてきて、なぜかその日から自分の部屋に同居することになる……といった類いの荒唐無稽で楽しそうな設定の話をいうのではない。私どもを取り巻く外面的・内面的な数々の「危機」を作品世界から排除し、ぬくぬくと自足(自閉)した「自分たちだけの空間」に甘んじているメディアのことをまとめて私はそう呼びたいのだ。

 その意味では「サザエさん」もファンタジーといえる。むろん慰みとしてそういうものがあってもいいが、芸術表現の95%以上をそればかりが占めるというのはやはりおかしい。また、この考えをもっと拡張することもできる。つまり、私どもを取り巻く外面的・内面的な数々の「危機」を排除し、ぬくぬくと自足(自閉)した「自分たちだけの空間」に甘んじているというなら、テレビのバラエティー番組などはまさしくそうだ。これは前々から思っていながら、「旧ダウンワード・パラダイス」では結局取り上げられなかった件のひとつだが、テレビのバラエティー番組は、紛れもなくひとつのイデオロギー装置として私どもの前にあるわけだ。このニッポンに大江健三郎を知らないバカが、いや失礼、ゆとりが、いや失礼、若者がもし居たとしても、タモリを知らないってことは考えられない。それは異常な事態なのだが、その異常さが当たり前のものになってしまったのが私どもの戦後社会なのである。

 「純文学」は、そのようなものであってはならない。ファンタジーであってはならない。それはSF的、ないし幻想的な手法をとっちゃいかんということではない。安部公房を思い浮かべればよくわかる。またもちろん、言語遊戯を伴ってはダメだという話でもない。現代文学はジェイムス・ジョイスから始まっていて、ジョイスは言語遊戯の達人であった。現代文学と言語遊戯とは不可分のものだ。だからぼくは、純文学はリアリズム(写実)でなければいけないなどと、ひところのプロレタリア文学理論のような素朴なことを言っているのではない。

 「純文学はファンタジーであってはならない」とは、私どもを取り巻く外面的・内面的な数々の「危機」を作品世界から排除し、ぬくぬくと自足(自閉)した「自分たちだけの空間」に甘んじていてはいけないよ、という含意である。直接に題材として取り扱うかどうかは別として、純文学は、今回の記事の冒頭でぼくがいくつか挙げたような切実な問題群と、必ずどこかで関わりを持っていなくてはならない。つねに「文学」という制度の外部とつながりを保っていなくてはならない。それこそが真のリアリズムである。逆にいえば、そのような「リアリズム」に支えられていなければ、現代における純文学の存在意義はそれこそ疑わしいものになるだろう。

 次回以降も引き続き純文学について考察していきたい。