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ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

ひきつづき、『風立ちぬ』のこと。③ 菜穂子とお絹/辰雄と二郎

2019-04-21 | ジブリ




 まあ、「運命の再会」といやあ聞こえはいいけど、あれは通俗ロマンにありがちな「ご都合主義」ですよね。そこで初めて出会って恋に落ちたんだったらわかるけど、震災の日に縁を結んだ相手とそこで再び巡り合うってのは……。菜穂子のほうは、療養をかねて長期滞在してたとしても、現実にはまずありえない偶然でしょう。
 実在の作家・堀辰雄は、たしかにこの年、1933(昭和8)年に最初の妻(お名前は綾子さん)と出会っています。だけど、べつに再会したわけではないし、そもそも堀辰雄という人は、ご自身も結核を患っていて、しょっちゅう軽井沢に泊まってたんですよね。
 もちろんお話なんだから、そこは構わないんだけど、菜穂子があんなに二郎を慕い続けていたのなら、どうしてそれまで彼女の方から一回も接触を試みなかったのかなあという疑問は残る。二郎が東大の学生ってことはわかってたわけだし、父親に頼めば、三菱に勤めてるのは簡単に調べがつくでしょう。時代が時代だし、深窓の令嬢だからそこまでの勇気はなかった、ということかもしれないが、「自分の口からきちんとお礼を言いたい」という口実ならば、会うことくらいはできたはずですよね。
 6年前に劇場でみたときは、そういったことが気になって、このあたり、なかなかストーリーに乗っていけなかったなあ。
 あと、高台で絵を描いている菜穂子が、眼下の小道を歩いてくる二郎をみたときの反応もよくわからなかった。ふつうはもっと驚くんじゃないか? なのに、ちょっと微笑を浮かべるだけで……。まるで、そこに来るのを予期してたみたいに見えました。あるいは、すでにホテルのなかで見かけていて、二郎の滞在を知ってたのかな?
 そのあとすぐに突風が吹いて、二郎が彼女のパラソルを捕まえる「アクションシーン」に移るんで、そこのところもどうも曖昧なままなんですね。
 とはいえ、出会いのときに菜穂子が二郎の帽子を捕まえるくだりが、主客を入れ替え、よりスケールアップして反復される趣向は見事なものでした。あれは屈指の名シーンですね。『風の谷のナウシカ』が出世作となった宮崎駿さんですが、世界のすべてのアニメ作家のうちで、風の表現においてこの人を凌ぐ才能はいないでしょう。
 とにかく、菜穂子はこの時点ではっきり二郎のことを認識してるけど、二郎はぜんぜんわかっていない。
 13歳の少女がいきなり23歳の女性に成長して現れたんだから、そりゃ二郎ならずともわからないのがふつうかもしれない。けど、あとで二郎が菜穂子に告げたとおり、「初めて会った時からずっと好きだった」んなら、気づいてもおかしくないはずだ。
 だからたぶん、「ずっと好きだった」は事実じゃないですね。嘘というわけではないにせよ、感情の高まりによって、過去の自分の記憶がそのように改変されたんだと思う。そういうことって確かにある。
 ヴァレリーの詩句を原文ですらっと口ずさむような少女だし、あれだけの体験を共有したんだから、印象に焼き付いてたのは間違いないわけで。
 いずれにしても、ここまではぜんぶ「偶然」でした。しかし、その翌日、森の奥の泉であらためて「再会」を果たした時は、あれはもう偶然ではなかった。森の入り口に、あきらかに不自然なかたちでイーゼルとパラソルが置かれてたからね。あれは菜穂子が二郎を呼び込んだというか、誘ったわけでしょ。
 あそこで二郎が口ずさんでた「だぁれが風を見たでしょう……」という詩は、西條八十の訳詩「風」(詳しくはコメント欄を参照のこと)。まあ庵野さんの朗読はひどかったけど。
 そのあと、菜穂子が二郎に、お絹がお嫁に行ったこと、2人目の子供を出産したことを告げますね。ぼくの考えだけど、あそこでやっと、それまで未分化だった「菜穂子」と「お絹さん」とが分離して、ストーリーの上でも、二郎の情感の上でも、菜穂子がヒロインとして自立したんですよ。
 『もののけ姫』いこうの宮崎作品は、作劇上の理屈からいえば破綻してるんだけど、逆にそのぶん、なんだろう、ユング的とでもいうのかなあ、「物語」としてはより根源的っていうか、すごく深いものになってるんですね。
 二郎をめぐる菜穂子とお絹さんとの関係性を考えても、強くそう思います。
 ここんとこ、もう少し詳しくやりましょうか。つまりアニメの二郎は、設計技師・堀越二郎と作家・堀辰雄との融合体ですよね。友人の本庄もそんなようなこと言ってたけど、当時の技師の奥さんには、教養なんて必要なくて、家庭をしっかり支えてくれる相手がいいわけだ。たぶん本庄が所帯を持ったのも、お絹さんみたいなタイプだと思う。
 料理を作って、家事もこなして、子供も産んで子育てもして……というタイプね。ヴァレリーなんて知らなくていい。そんなことより、健康で、ちゃんと夫をサポートして、家庭を守ってくれる奥さんのほうがいいわけ。
 二郎だって、飛行機の設計に夢中で、ほかのことにかまけてる余裕はないんだから、ほんとはお絹さんタイプがいいんですよ。それなのに、菜穂子のほうを選んじゃう、菜穂子と恋に落ちちゃうというのは、そこは「堀越二郎」ではなく、「堀辰雄」の感性なんだよね。
 じっさい、技師・堀越二郎氏は敗戦後もずっと三菱重工業に勤めて、最後は参事~顧問にまで出世される。まあ科学立国・経済大国としての戦後ニッポンを築いた世代の代表の一人といっていい。亡くなったのは1982(昭和57)年。ほぼバブル前夜ですよ。
 対して作家・堀辰雄は、1944(昭和19)年、つまり敗戦の前年には大喀血して絶対安静にまで陥り、戦後はもう、さしたる作品を発表することもなく、1953(昭和28)年に48歳で亡くなってしまう。
 「実学」と「ブンガク」との相違ってのをロコツに見せつけられる感じで、ちょっと索然としますが。
 これは、前にも述べたラストシーンでの菜穂子のせりふ「生きて。/来て。」にも関わってくることだけど、アニメの「堀越二郎」だって、仮にもし敗戦の衝撃に耐えて生き延びたとしても、天寿を全うすることはなく、たぶん40代の半ばくらいで世を去ったように思うんですよね。もちろん、ここはあくまでワタシの想像ですけども。



ひきつづき、『風立ちぬ』のこと。②

2019-04-19 | ジブリ

 二郎と菜穂子とが汽車のデッキで出会うのは、まさに関東大震災の日だから1923年(大正12年)9月1日なんだけど、このとき二郎は20歳で、東京帝国大学の学生。いっぽう菜穂子は13歳くらいなんですね。せいぜい中学生なんだ。
 風に飛ばされた二郎の帽子を菜穂子が受け止め、礼を述べる二郎に悪戯っぽく微笑んで “Le  vent  se   lève,” という。
 二郎はすこし面食らったあと、“  il  faut  tenter  de  vivre.” と、続きを返す。
 意味は、二郎があとから呟くように「風が立つ。生きようと試みなければならない。」20世紀前半を代表するフランスの詩人(にして批評家)ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」の最後のほうに出てくる有名なフレーズです。
 このフレーズが日本で有名になったのは、堀辰雄が自作の小説『風立ちぬ』のエピグラムに引用して、「風立ちぬ。いざ生きめやも。」と、えらく格調の高い文語調の訳をつけたから。
 ただ、格調高いのはいいんだけど、これだと「風が立つ。いざ! うーん、とはいうものの、はてさて。生きようかなァ、どうしようかなァ」みたいなニュアンスになる。原文の力強い調子とは別物になっちゃうわけ。でも『風立ちぬ』という小説のもつアンニュイな空気には、むしろそっちのほうが相応しい。だからこれは誤訳じゃなく、あえてそう意訳したのでは? とも言われてますが。
 堀の小説『風立ちぬ』は、もちろんアニメ『風立ちぬ』の「原作」のひとつでもある。でもこれが発表されたのは1938(昭和13)年。アニメの中での二郎と菜穂子の出会いから、15年もあとのことです。2人が出会った時分には、まだヴァレリーの翻訳なんて出てないし、そもそもそんなに知られてなかった。「古典的教養」なんかじゃなく、ほんとに最先端の文学だった。だから、専門外なのにこれを知ってる二郎も凄いし、菜穂子はさらに凄いですよね。じっさいには、いかに良家のお嬢様でも、あんな中学生はいなかったでしょう。
 お絹さんは当時の用語でいうところの「女中さん」ですね。さいきんの日本もまたそうなりつつありますが、昔は厳然たる階級社会だったので、貧しい農家の娘なんかがけっこう幼い頃から都会のお屋敷に雇われて、住み込みで家事や子育ての手伝いをする。そうして妙齢になったら適当な相手を世話してもらってその家から嫁いでいく。そういう制度ができあがっていた。二郎の家にも、それらしき「女中さん」がいましたね。
 お絹さん、あのとき20歳の手前くらいかなあ。そうすると二郎とほぼ同い年だけど。
 菜穂子にとっては、主従とはいえ姉みたいな存在で、いわゆる「姉(ねえ)や」ってやつでしょう。
 二郎が直接に助けたのは菜穂子ではなくお絹のほうで、彼の情感としても、ストーリーの上からも、初めのうち菜穂子とお絹は渾然一体というか、まだ未分化のままでいる。2年後に、学校まで礼状を添えてシャツと計算尺を返しに来たのもお絹のほうだしね。
 下宿で待ってた「若い娘」にしても、お絹でも菜穂子でもなく妹の加代だったし、あのあたり、宮崎監督は観客をはぐらかして遊んでるようにも見えました。
 そのあとは卒業~入社、前途ある優秀な技術者として身を立てていく二郎の描写が続いて、ヒロイン菜穂子がふたたび二郎および観客の前に現れるのは、1933(昭和8)年のこと。出会いから数えてちょうど10年が経過している。そのあいだ、二郎はまるっきり菜穂子のことを忘れてたわけですが、菜穂子のほうはそうではなかった。
 ここで時系列をおさらいすると、二郎が「三菱内燃機株式会社」に入ったのが1927(昭和2)年。これは実在の堀越二郎氏の経歴とも一致してます。作中でも描かれてたように、世間ではあちこちで取り付け騒ぎが起こっていた。芥川龍之介が自裁した年でもありますね。
 二郎が本庄らとともに遠路はるばる「ユンカース社」に視察に出向いたのが1929(昭和4)年。世界恐慌の始まった年だ。あ。もちろん渡航手段は船ですよ。
 夜、二郎と本庄が気晴らしのためにホテルを出て散策していたとき、民家の窓からシューベルトの「冬の旅」が聴こえてきたあとで、なにか不穏な捕り物騒ぎに巻き込まれそうになりますね。
 逃げていく男と追いすがる一団との影が、一瞬、大きくビルの壁に映し出される場面、それこそフリッツ・ラングばりの表現で、「凝ってますなあ。」と、映画好きならニヤリとするところ。
 追っかけていた男たちの中に、昼間、格納庫で二郎たちの視察を邪魔した男がいたのは、つまり彼はユンカース社の人間じゃなく、機密漏洩を防ぐための警察関係者だったということですね。ちなみに彼が吐き捨てたセリフは “ Geh  zurück  nach   japan! (とっとと)日本に帰れ! ” です。
 だからあのあと捕まった男はスパイであった。どこの? 当時のドイツの軍事機密を命がけで盗もうとするのは、とうぜんソ連のスパイでしょう。
 ところで、「堀越二郎」のもうひとりのモデル、小説家・堀辰雄が東大の国文科を卒業したのもこの年です。堀辰雄は堀越二郎よりも1年下で、かつ、病弱ゆえに休学したので、こんなに遅れたんですね。
 1932(昭和7)年、二郎は上司の服部および黒川から、「七試艦上戦闘機」の設計主務者に選ばれる。これも実在の堀越二郎さんと同じ。ただし、アニメではそんな台詞はなかったけども、じっさいに完成した七試艦上戦闘機は、堀越二郎が「鈍重なアヒルだ……」と自嘲するほど不格好な機体でした。しかも、試作した2機はいずれも大破してしまう。
 それでアニメの二郎は失意のあまり、おそらくは入社以来はじめての長期休暇をもらって、静養のために軽井沢へと赴くわけですね。
 そしてここから、アニメの「堀越二郎」は、実在した技術者・堀越二郎から、作家・堀辰雄および堀辰雄の描いたフィクションのほうへと傾斜していく。すなわちその地で菜穂子と「運命の再会」を果たし、静謐ながら激しい恋が始まるわけです。
 それが、上にも述べたとおり1933(昭和8)年のこと。




ひきつづき、『風立ちぬ』のこと。①

2019-04-17 | ジブリ



 6年前(2013=平成25年)に劇場で観たとき、いちばん強烈だったのはやはり序盤の「関東大震災」のシーンですね。文字どおり、「震撼させられる」という感じになった。とはいえ、あのくだりは3・11ショックの影響で出てきたものではないんだ。そういう意味では、『風立ちぬ』は『シン・ゴジラ』や『君の名は。』とは違うんですよ。3・11に触発されて生まれた作品ではない。
 2011年の3月あたりには、『風立ちぬ』はもう製作段階に入ってたんですね。宮崎監督はすでに絵コンテを切り始めていて、「ちょうど関東大震災の絵コンテができた翌日に3・11が来まして」と、パンフレットではっきり語っておられる。これは予見性というより、シンクロニシティー(共時性)と呼ぶべきだろうと思いますが。
 だから「そのシーンを描くのかどうか、本当に深刻に考えなければならなかった。」といってもおられる。むしろ逆に、自粛すべきかどうか慮(おもんぱか)るくらいだったわけですね。最終的には、当初の構想どおり完全に映像化できたらしいけど。
 アニメにおける「堀越二郎」のモデルは、実在した技術者(零戦の設計者)堀越二郎氏なんだけど、この方は群馬県の生まれで、東大の工学部航空学科に受かって東京に出たのは1924(大正13)年、つまり震災の翌年だから、じっさいには体験していない。ただ、もうひとりのモデルである作家の堀辰雄(小説『風立ちぬ』や『菜穂子』の作者)のほうは、震災で母親を亡くしている。町が火事になって、みんな隅田川へと押しかけるんですね。これはそれからほぼ20年あとの大空襲の時もそうだったんだけど。
 だから堀辰雄の母親も、ほかの人たちと紛れてしまって遺体が結局見つからなかったらしい。アニメ『風立ちぬ』を見ている限り、そこまでの悲惨さは伝わってこないですよね。二郎がお絹さんと菜穂子を屋敷まで送り届けるくだりも、命懸けというほどではなさそうだったし、あとは、大学で研究室の本を運び出して、その傍らでタバコ吸ったりとか。まあ、本の避難も大事だろうけど、じっさいには、町中はもっと酷いことになってたんだ(のちに、水辺に並んだ無数の卒塔婆でぼんやりと示唆はされますが)。むろん、宮崎監督は百も承知で作ってるわけだけど、そういった姿勢への評価が作品そのものに対する賛否を分けるかなあとは思う。
 ともあれ、堀越二郎と堀辰雄ですよ。ほぼ同じ年の生まれで、ほぼ同時期に東大で学生生活を送り、苗字に同じ「堀」の一字をもつこの2人だけど、専攻はぜんぜん違うし(堀辰雄は国文科)、まったく面識はなかったでしょう。しかしアニメ『風立ちぬ』の主人公「堀越二郎」は、この2人の半生を巧みに綯い交ぜにしながら綴られるわけね。
 ざっくりいえば、飛行機の開発にかかわるパートが堀越二郎で、菜穂子との恋愛にかかわるパートは堀辰雄。
 理系のパートと文系のパート、あるいは、リアルのパートとロマンのパートといってもいいか。
 ただ、謹直なエンジニアであるはずの「二郎」も、夢のなかではカプローニと共に「官能的」といいたいくらい色彩豊かで豪奢なイメージの世界に遊ぶわけですね。角川文庫で出てる『零戦 その誕生と栄光の記録』を読むかぎりでは、じっさいの堀越さんは、とてもあんな夢を見るタイプとは思えないんですが(笑)。
 そうやって、作中ではずっと「楽園」のイメージで表されてきた「夢の世界」が、ラスト、菜穂子の死と日本の敗戦(に伴う零戦部隊の壊滅)の後には、一転して「地獄」のごときイメージになってしまう。打ちひしがれる二郎(庵野さんが下手すぎて心情がいまいち届いてきませんが)。そこでカプローニだけが妙にのんきで落ち着いてるのが、救いのようでもあるし、何とも無責任のようでもある。そこに遠くから菜穂子が歩いてきて「(あなたは)生きて。」と二郎にいう。
 あそこのとこ、最初のシナリオでは菜穂子のセリフは「来て」だった……っていう話をネットで見たけど、どうなんだろう。初夜に二郎を布団へと招く「来て」と対になってはいるものの、それだとまったく逆の意味になっちゃいますよね。作品全体の意図ががらっと変わってしまう。そんな重大な変更をするかなあ。これについては懐疑的にならざるをえない。
 ただ、前回も書いたように、『もののけ姫』いこうの宮崎作品はぜんぶ構成が破綻してるので、土壇場で「来て。」が「生きて。」に変わっちゃってもさほど支障はないのかなあ……って気もしてます。「トトロ」のラストでさつきとメイがじつは死んでたって都市伝説は噴飯もので、ぼくも本気で反論を書いて当ブログにアップしてますが、「ポニョ」のラストで宗介はじめ全員がじつは「あの世」にいるっていう解釈については、正直なところ「あー、そうとも読めるな。」と思うんですよね。それくらい、このところの宮崎作品は良くも悪くも融通無碍(ゆうづうむげ)になってきている。
 作劇の常識からいけば、「敗戦の痛手から少しずつ、しかし懸命に立ち上がろうとするニッポンの姿」を最後に描き添えるのが筋ってもんですよ。片渕須直監督の『この世界の片隅に』では、きっちりそういうことをやってるでしょ。でも宮崎さんはやらないんだよね。




平成最後のスタジオジブリ

2019-04-16 | ジブリ






 ジブリ作品が「金曜ロードSHOW!」のメイン・コンテンツになったのはいつ頃からかな。平成に入ってからってのは間違いないけど、それでも10年やそこらの話じゃないよね。
 ともあれその平成を締めくくる2本が、高畑勲さんの『平成狸合戦ぽんぽこ』と宮崎駿さんの『風立ちぬ』だったというね……。これがまた切ないんだわ2本とも。今回もまあ、泣いた泣いた。「ぽんぽこ」は4回くらい観てるんだけど、見るたびにナミダの量が増えてく感じでね。齢をくうにつれ切なさがいや増す作品ですよあれは。
 『風立ちぬ』は6年前(2013=平成25)かな、劇場まで行って観たんですよね。『もののけ姫』いこうの宮崎作品はぜんぶ構成が破綻してるんだけど、あれもやっぱりそうなんだ。宮崎さんって作家はひょっとしたら作品を収束できないんじゃないか、とすら最近ぼくは思いはじめてるくらいでね。もともと職人じゃなく、天才肌のアーティストなんだろうね。
 『風立ちぬ』もラスト付近がばたばたでしょ。菜穂子の死と日本の敗戦とが二郎の中で綯い交ぜになってるんだよね。
 あと、全体のバランスも異様でしょう。二郎チームの作った零戦は、けっきょく本編中では一度もまともに空を飛ばない。回想シーンのみ。それもほぼ残骸ばかり。それなのに、カプローニとの夢のくだりはやたらと尺を取っててね。
 作中では「カストルプ」と名乗っていた、ゾルゲと思しき人物も何だかよくわからなかったしね。ふしぎなアニメだと思う。あれがそのまま宮崎監督における「日中~太平洋戦争」観だとは思わないけど、面妖なアニメですね。庵野秀明氏の棒読みがいっそうその面妖さを増幅していて、その点は好配役だったんだろうね。
 いっぽう、「ぽんぽこ」は巧すぎるくらい巧緻に組み立てられた作品で、そこは好対照ですね。高畑さんはあくまでも手練れの職人だから……。むろん、それだけで済むような方でないのは言うまでもないですが。あ、いや、主役が棒読みだったのはこちらも同じか。あれだけの顔ぶれを揃えておいて、なんで正吉役が野々村真さんになったのだろうか。
 いずれにせよ、「ぽんぽこ」も『風立ちぬ』も敗北を描いた話なんだ。敗れ去った者たちを悼むお話ですよ。挽歌といってもいいかなあ。それが平成の〆に2本まとめて来ちゃったわけですよ。なんとも象徴的だなあと。
 「ぽんぽこ」は多摩ニュータウンの造成が背景だから、じっさいは昭和の出来事なんだよね。戦後の高度成長期。いっぽう「風」は大正末期から戦前~戦中~敗戦直後まで。どっちも平成が舞台ってわけじゃない。それでもすごくリアルなんだよね。
 劇場でみた6年前にはさほど思わなかったけど、いまのニホンっていよいよ『風立ちぬ』の感じに似てきてますね。「戦前」って感じがすごくしますよ。「どこと戦争するつもりなんだろう」と、ぼくも言いたい気分ですけども。
 「ぽんぽこ」にしてもね、科学信仰の行きつく果て、みたいなことを考えたら、どうしてもフクシマのことが頭をよぎるし、狸たちが幻術でもって「百鬼夜行」を繰り広げるシーンで、住宅街を大津波が襲う場面があるでしょう。あそこは今回、やはりドキッとしましたね。優れた芸術ってのは、おしなべて予見的なんだなあと。
 じつはぼくにとっての「ベストワン・ジブリ」は「ぽんぽこ」なんですよ。シンプルに好きだし、作品としても卓越していると思う。『風の谷のナウシカ』は、アニメ史どころか映画史に残る傑作だけど、あれはジブリ作品じゃないから……。当時はまだスタジオジブリはなかった。「ナウシカ」が大方の予想を超えてヒットしたことで、ジブリという会社ができたわけですね。それも結局、平成のうちに事実上の解体となりましたが。
 だから『平成狸合戦ぽんぽこ』がぼくにとっての「ベストワン・ジブリ」なんだけど、若い人なんかはあれ、「説教くさい」と敬遠したりするみたいだね。「説教くさい」って言い回しはよくわかんないんで、たぶん「メッセージ色が強すぎる」って意味かなあって思うんだけど、まあねえ、みんな齢とりゃ自ずと分かるよ。
 あの作品って、完敗に終わった政治闘争の話にもみえるし、自然破壊を難詰する寓話にもみえるし、人間中心主義へのこっぴどい批判のようもみえるんだけど、ぼくは今回、あの狸たちがそのままぼくたち一般ピープルに重なってみえましたね。「近代(モダン)」の目まぐるしさに疲れて「前近代」を夢見る気持ちは誰しもが心の底に抱いていると思うけど、やっぱりそれでもぼくたちは、この「現代社会」でしか生きられない。生きていくしかない。そういってるようにも見えたなあ。
 あの作品が上映された時分は、まだスマホもネットも普及してなかった。ちょうどその前夜でした。ハイテク社会がこれからどこまで行くのかは見当もつかないけれど、節目節目に思い起こされ、繰り返し参照される一作であると思いますね、「ぽんぽこ」は。


ジブリ「都市伝説」を斬る(笑)02 魔女の宅急便

2018-06-30 | ジブリ

このカットも本編にはないが、作品の「世界観」を凝縮した素敵な画像だ


 さて。ジブリでもうひとつ有名な「都市伝説」は、「『魔女の宅急便』(1989年)の黒猫ジジ(CV 佐久間レイ)は、途中から話せなくなったわけではなくて、じつは最初から人語を解してなどおらず、彼との会話のくだりはすべて孤独なキキの夢想だった。」というものだ。
 つまり「喋るネコ」としてのジジは、キキにとっていわゆる「イマジナリー・フレンド」の一種だったってことになる。
 この説の裏づけは、「『魔女の宅急便』の公開時(だからほぼ30年前だ)に宮崎駿監督が行ったトークショーでの発言」ってことになってるんだけど、ぼくが探したかぎりでは、その「発言」は伝聞(の伝聞)にとどまっており、書籍はもとより、パンフレットみたいな形ですらも活字になってはいないようである。
 だからその「発言」そのものの信憑性がうたがわしい。また、じっさいに監督ご自身がそのような意味のことをおっしゃったのだとしても、あの方は非常に韜晦(とうかい)癖のある人だから、素直に受け取っていいものかどうか。
 さらに、そもそも作り手がまじめにそう述べたところで、それはけっして「絶対」ではない。作り手は作品を統べる「神」ではもはやないのである。それが現代批評の常識だ。「作品」に対して「作り手」が開陳する「製作意図」や「裏設定」などは、「重要な参考資料」ではあるかもしれないが、所詮はそれ以上のものではない。すべての作品は、それが作り手の手を離れてわれわれに届けられた時点で読み手(観客)のものになるのである。もちろん、あからさまな曲解は退けられるべきだとしても。
(『魔女の宅急便』にはもちろん角野栄子さんによる原作があるが、アニメ版は「製作途中で角野さんが難色を示した」といわれるくらいオリジナルなものに仕上がってるので、ここでは宮崎さんの作品として扱う。)
 「魔女」が「黒猫」を「使い魔」として伴うのは西洋のおとぎ話の常套で、だからジジが細い箒の柄にちょこんと乗って一緒に空を飛ぶのも、キキとひんぱんに話をするのもあの世界ではぜんぜんおかしなことではない。もしジジの存在がなかったら、あのアニメの前半部分はずいぶんと色あせたものになったろう。それだけに、「ジジはほんとは喋ってなかった」という説は(サツキとメイの件ほどではないが)かなりショッキングである。
 しかしこれは明らかに変で、なぜならば、初仕事の配達の途中でキキがぬいぐるみを落っことし、それが見つかるまでのあいだジジが身代わりを務めるという挿話があるではないか。あのエピソードを持ち出すだけでたやすく反証できるこの説が、なぜ大手をふってまかり通ってるのか、これもまことにフシギである。
 だいたい、リアリズムで書かれた児童文学ならともかく、べったべたのファンタジーたる本作に対して、よくもまあこんな身もふたもない臆説が流通するものだ。それならもう、「空を飛ぶ」のも思春期特有のヒステリー系妄想といったらいいし、ようするにもう、設定から何から、ぜんぶがまったくどうでもいい。そんなことなら最初から「物語」になんか関わらず、法律の勉強でもしてればよろしい。
 はっきりといえることがひとつある。「後半部にさしかかるあたりでジジの言葉がわからなくなる」のはこの作品世界における「事実」だ。しかし、「ジジが最初から喋ってたのかどうか?」は、これに比べればじつは本質的な問題ではない。ネット上のやり取りを見ても、「ジジはほんとに喋ってたのか?」を議論してるはずが、いつのまにやらその件はどっかに行って、「なぜ途中から言葉が聴き取れなくなったか?」に移ってるケースがほとんどだ。
 とはいえ、繰り返すが、上で述べたとおり、ジジはほんとに喋っていた。それがキキの魔力によるもので、彼のせりふがキキにだけしか理解できなかったとしても、ジジが一個の人格(?)をもって彼女の話し相手を務めてたのは確かである。本質的な問題でなくとも、このことは明記しておく。
 しかし、途中からは話さなくなった。キキに彼の言葉がわからなくなった。なぜだろう。これはけっこう厄介だ。前回のトトロの件より難しい。「ファンタジーの文法」でたんじゅんに割り切れることではなく、「児童文学」としての読みが求められるからである。
 『魔女の宅急便』は、ほかのジブリ作品と同様、日本テレビ系列の「金曜ロードショウ」で何度も放映してるから、2度3度と見た方も多かろう。ぼくはたぶん3回見ているが、いちばん初めに見たとき(20代だった)には、仕事のうえでスランプに陥ったからだと思った。
 焼き上げる段階から手を貸して、苦労して届けたお祖母ちゃんのパイが、その孫娘によってにべもなく拒絶されてしまった。つまり、仕事が軌道に乗ったところで、ひどい挫折を体験し、職業意識が損なわれ、アイデンティティーを見失いかけた。おまけに雨に打たれて風邪までひき、トンボからのパーティーの誘いまですっぽかしてしまった。それで心身ともに不調になって飛べなくなり、使い魔の声も聞こえなくなった。そう思っていたのである。
 しかし、2度目に見たら(30代だったと思う)、それは間違いだった。エピソードの流れをきちんと追えていなかった。風邪をひいて寝込んだキキは、おソノさんの看病もあってけっこう早く復調する。そして元気を取り戻し、「コポリさんて人にこれを届けて」というおソノさんの依頼を受けて仕事に戻る。そのさい、ジジはもう隣家の可愛い白ネコと親しくなっているのだが、彼女のことを「リリーっていうんだ」と紹介し、「仕事? いま行くよ」と、ふつうに喋っているのである。キキは「近くだからいいよ」とジジへの気づかいを見せる。
 ここは短いシーンだし、会話もかんたんだから見過ごしやすいが、作り手の側は明らかに、「ここではまだキキの身の上に切実な変化は起っていない」旨を観客に示している。後になって振り返ると、これはキキが作品内でジジと交わした最後の会話だったのだが。
 問題はこのあとである。「コポリさん」とはじつはトンボのことだった。今回の依頼は、まえに彼からのパーティーの誘いをふいにしてしまい、そのことを気に病んでいたキキを、ふたたびトンボに近づけるためのおソノさんの粋なはからいだったのだ。
 初めてゆっくりトンボと言葉を交わしたキキは、思いのほか意気投合し、その勢いで「人力飛行機の機関部」であるプロペラ付自転車の後ろに乗せてもらって、海までの坂道を突っ走る。ちょっとした小冒険である。キキの魔力が無意識のうちに働いたのか、自転車は途中で浮きあがり、結局はプロペラが外れて砂浜に墜落してしまうのだけど、互いにケガがないことを確かめたあと、キキは、おそらく街に引っ越してきて初めて、腹の底から楽しそうに大笑いする。彼女がトンボに惹かれ始めているのは明らかだ。
 さらにそれから、ふたりは海岸に並んで腰をおろして語り合う。トンボにとって「空を飛ぶ」ことはたいへんなステイタスであり、彼がキキに抱く思いは、恋というより何よりもまず憧れと敬意なのである。キキももちろん悪い気はしない。彼女の気持ちはますますトンボに傾く。
 ところがそこに、オープンカーに便乗したチャラい一団がやってくる。運転するのは少し年上らしきキザ男。後部シートにひしめくように乗っているのは、カラフルな服に身を包んだうら若い娘たちである。彼女らは「飛行船の中を見せて貰えるんだって」とトンボを誘い、トンボはすぐに興味をひかれる(そもそも海まで来たのも飛行船を近くで見るためだった)。
 彼女たちはまた、キキを見て「誰あのコ?」「魔女だってー」「あー知ってる。働いてるらしいよ」「へーあの齢で。えらいねー」と、ロコツに軽侮の態度を示す。当初からキキは、自分の冴えない黒服に劣等感をもっていた。13にして生家をはなれ、見知らぬ街で労働をして自活している彼女には、親の庇護の下でぬくぬくと遊び暮らす娘たちは「不良」にしか見えない。そんな娘たちと、トンボは仲良く話している。キキは傷つき、追いすがるトンボを振り払うようにして、そのまま歩いて家まで帰る。
 この出来事を境にして、彼女には、ジジのことばがわからなくなるのだ。それが原因のすべてだとは言い切れぬにせよ、「初恋」が彼女の変化の引き金となったことは疑いようがない。だけど彼女は、自分がトンボを好きになり始めてることに気づいてないし、だからもちろん、自分の中に渦巻いている嫉妬やら何やらの感情もぜんぜん整理できてはいない。
 自室に戻ったキキはベッドにばたんと倒れ伏し、そこにジジも戻ってくる。「にゃー」とふつうの猫の声で鳴き、「どうしたの?」という感じでベッドに飛び乗り、横たわるキキの傍まで寄ってくるのだが、もう人間のことばは喋らない。そしてキキが、「あたしどうかしてるのかな? せっかく友達ができたのに、急に憎らしくなっちゃって……」みたいな愚痴を始めると、そそくさと行ってしまうのである。キキは、「冷たいなあ」と不平を漏らすが、この時はまだ異変にまるで気づかない。
 事態の深刻さがあらわになるのは次のシーンである。時間経過が定かではないが、たぶん同じ日の夜だろう。食卓にお皿が並んでいる。窓から入ってきたジジに、キキが「お友達ができたからって、食事の時間は守ってよね」と苦情をいうが、ジジはまた「にゃー」と鳴くばかり。そこでキキはようやく「たいへん」と顔色を変え、階下に行って箒にまたがり、自分の飛行能力が落ちていること、魔力が弱まっていることを自覚するのである。
 このくだりはわりと重要で、「空を飛ぶ力」と「ジジと会話できる力」とがいずれも「魔力」によるものであることが明示されている。このことからも、「ジジは初めからほんとは喋れなかった」という説がおかしいのがわかる。もし30年前の宮崎さんが「トークショー」で実際にそう言ったのなら、なにか勘違いされてたんだとしか思えない。
 ただ、そう言ってみたくなる気持ちはわからなくもなくて、キキの初恋とジジの恋とはあきらかに無関係ではない。密接に連動している。幼い頃の「共依存」めいた繋がりから脱し、それぞれに「性」をそなえた一個の人格として自立しつつあるわけだ。そういった面を強調したくて、つい口が滑った、ということはあるかもしれない。
 キキの母は冒頭シーンにしか登場しないが、映っているかぎり、このひとが黒猫をかたわらに侍らせている場面はないし、この家に黒猫が住みついている様子もない。使い魔は、主(あるじ)たる魔女が独り立ちするのと軌を一にして、完全に自立するのかもしれない。しかしそれなら、母がそのことを娘に伝えていないわけはなく、キキも覚悟はできてるだろう。キキが自分の家庭をもつのはまだまだ先で、それまでは、ジジは夫となり父となってもキキの身近にいるであろうし、彼女の魔力が戻ったら、また話せるようになったはずである(エンディングのカットでもそのことは暗示されている)。
 空を飛べなくなったキキは、風邪ひきの時とは比べものにならないアイデンティティー・クライシスを味わうが、メンター(先達)である画家のウルスラ(CVはキキと同じ高山みなみ。つまり二役)の来訪によって立ち直りのきっかけを得る。キキはウルスラに連れられて彼女の小屋に泊まり、そこで彼女の描いた大作を前に、真率な対話を交わすのだけれど、この時の対話は、おそらくわざと焦点をぼかしたものになっている。
 設定を見ると、ウルスラはまだ19歳。メンター(先達)といっても、キキとそんなに差があるわけではない。家を離れ、アトリエを兼ねた小屋で寝起きしていることから見て、今は絵の製作に人生のすべてを懸けてるようだし、男の子と見間違えられるルックスからしても、まだ真剣な恋をしたことはないんだろう。だから彼女がキキに送る助言は、ストーリー・ラインからは微妙にずれているのである。
 キキの魔力が弱まったのは、前述のとおりトンボへの恋が引き金だ。そのことに彼女じしんは気づいていない。ジジはけっこう早熟なところもあるようなので、もし彼が話せたら、「それはキキ、君があのトンボって子に恋をしてるのさ」と教えてくれたかもしれない。しかし彼が助言者たる役回りからおりた今、それを伝えるのは本来なら先達としてのウルスラの役のはずだけど、いかんせん彼女もまた色恋沙汰にはうとい。だからウルスラは、そっち方面の話は何ひとつせず(できず)、「血(持って生まれた才能)」とか、「誰しもが陥るスランプとその脱出法」などといった、より高尚かつ実用的な意見を述べるのみである。
 むろん、それはそれで大切な話であるのは間違いないし、それによってキキが勇気づけられるのも事実だが、「初恋」を巡って展開しているストーリー・ラインにおいて、あくまでもウルスラの意見は補助的なものにすぎない。それでいて、月明かりに照らされるこのシーンの魅力もあり、ここのエピソードは観客の心に強く残る。そのせいで、「なぜキキが空を飛べなくなったか=ジジの言葉がわからなくなったか=魔力が弱まったか」についての解釈があれこれと入り乱れることにもなる。罪な話だが、宮崎アニメにはこういうところがたくさんあって、そこがディズニーアニメと違う。
 ともあれ、ウルスラのおかげでずいぶん元気になったキキは街へと戻り、招かれた老婦人の屋敷のテレビでトンボの受難(飛行船の事故)を知って現場に駆けつけ、(愛用の箒は折れちゃったので)手近にあったデッキブラシを借用して、危ういながらもどうにかこうにか空を飛び、必死でトンボを救出して、いちやく街の人気者になる。むろん、これはたんなる人助けじゃない。大好きな男の子を助けるためだからこそ全霊を尽くせたわけだし、だからこそ魔法が蘇ったわけだ。恋によって失われた魔力が、恋によって蘇ったのである。
 上でもちらりとふれたエンディングのカットは、すっかり街に溶け込んだキキが、安定した飛びっぷりでまた宅配業にいそしむ姿だ。箒の柄には、ジジがちっちゃな仔猫と一緒にちょこんと座っている。ただの猫にそんな真似ができるものか。魔力の回復と共に彼の言葉がふたたびわかるようになったのは明らかで、ジジがほんとは最初から喋ってなかったなんて、やっぱりとんだガセネタなのである。


ジブリ「都市伝説」を斬る(笑)01 となりのトトロ

2018-06-29 | ジブリ

本編にはないイメージ画像。このアニメの「ほのぼの感」がよく出ている




 有名なアニメやマンガには、それにまつわる裏話があって、ネット上に専用のサイトもたくさんある。それを要領よくまとめたコンビニ本まで出ている。用語としては正しくないと思うけど、世間では「都市伝説」の一環として扱ってるようだ。
 ジブリアニメでいちばん知られた「都市伝説」は、『となりのトトロ』(1988年)の、「サツキとメイはじつは死んでる。」というやつだろう。ハッピーエンドを迎えたはずの作中人物がほんとは落命していたなんて、ショッキングだから印象に焼きつく。これを言ってる人たちも、おおむね面白半分で、まさか本気で信じちゃいまいと思うんだけど、「物語」のもつ社会的な意味をわりとまじめに考えてるぼくとしては、笑ってばかりもいられない。なんといってもジブリ、とくに宮崎アニメは今の日本を代表する「国民的な物語」なんだから。
 じつをいうと、この「死亡説」、まるっきり根も葉もないデタラメってわけではない。
 これはものすごく重要なことだが、あの姉妹がいちど「異界に行った」のは確かだ。なぜならば、ファンタジーってのはそういうものだから。その道行きを案内したのはトトロ(とネコバス)で、その意味でトトロが「異界の使い」という解釈もじつは誤りではない。
 ただ、ここまでだとまだ半分にすぎない。肝心なのは、そうやって「異界≒あの世」へと出向いたふたりが、「七国山病院」の母の病床までトウモロコシを届けて(そこには父が見舞いにきており、つまり両親が揃っている)、ふたたび無事に「こちら」へと帰ってくることなのである。
 なお、あの場面でのトウモロコシは、「死」に傾きかけたひと(母親)を「生」の方向に引き戻す食べ物として、とくべつな意味を帯びている。だからそれを届けるのはとても大切な行為だ。そして、樹の上にいるふたりの姿が両親に見えないのは、その時点ではまだふたりが「異界」の側に身を置いているからだ。

 ① 主人公(おもに子ども)が現実世界(この世)で困難に直面する。
 ② 「使い」が彼ないし彼女を「異界」に連れていく。
 ③ 主人公がそこでひとつの「仕事」を成し遂げる。
 ④ 現実世界(この世)に戻ってくる。
 ⑤ 直面していた困難が解決する。あるいは、解決させられるだけの新たな力を主人公が身につけている。

 ここまででワンセットである。これを称して「行きて帰りし物語」と呼ぶ。ほとんどすべてのファンタジーは、この定式を踏襲する。
(同じ宮崎アニメのなかで、もっとも見やすい例は、2001年の『千と千尋の神隠し』だろう。彼女はちゃんとトンネルを抜けて帰ってくる。「千尋はじつは死んでいる」と主張する人はさすがに見たことがない。)
 「トトロ」ももちろん例外ではない。サツキとメイはラストでこちらに帰ってくる。両親は病院にいて不在だから、ふたりを案じて捜しまわる村人たちのもとに戻り(あれ、あとで父親は村中にアタマを下げて回ったろうなあ……)、あのおばあちゃんに抱きかかえられる。親しんだ日常の中へと帰還する。そうでなければ文字どおり「お話にならない」。
 これは物語論についての知識があれば誰にでもわかるところで、いま手元に本が見当たらないが、大塚英志さんも同じことを指摘していた。さらに氏は、「なぜあんな俗説が行きわたるのだろう。世間にはこれほど物語があふれているのに、みんなは意外とファンタジーの文法に習熟していないのか」と、疑問を呈してたようにも思う。ぼくもそこはフシギに思うが、たぶん、それはみんなが「怪談」好きなせいなんじゃないか。怪談ってのは因果ものが多くて、ネガティブで陰鬱でどろどろしている。「サツキとメイはじつは死んでた。」という俗説は、その条件にぴったりだ。そういうものに惹かれる部分も、人間のなかには確かにある。
 それに、千尋の迷い込む世界はあからさまに「異界」であって幼い観客にも見紛いようのないものだけど、トトロは湯婆婆なんかにくらべて明らかにフレンドリーだし、サツキとメイがネコバスに乗って病院まで届けてもらうシーンも、あくまでも楽しげに描かれ、さほど長いわけでもなく、ふたりが「異界」に身を移していたことが一見するとわかりにくい。そこがかえって捩じくれた解釈を招くのかもしれない。
 もうひとつ、あの姉妹の暮らす昭和30年代のニホンの田園風景は、いま都会でそれをみる観客にとっては、自分たちの生活圏と地続きでありながらそれ自体がどこかしら既に「異界」めいている。そのことも大きいかと思う。
 つまり、「トトロ」は「千と千尋」に比べて、わかりづらいファンタジーなのである。そのためにかえって、見るものの深層心理にはたらきかけ、陰惨なものまで含めた多様な解釈をうむのかもしれない。しかし、いかに解釈は自由だといっても、この作品に関するかぎり、ネガティブな読みはあくまで曲解であり、妄説・奇説・珍説のたぐいであることは心得ておきたい。



風の谷のナウシカはなぜ魅力的なのか?

2016-06-18 | ジブリ
初出 2012/02/08




 金曜ロードショーで『崖の上のポニョ』を見ての感想は、「こればっかりは劇場で見なくちゃだめだなあ」だった。この作品の見所は、ポニョが「宗介んとこ行くー」と叫びつつ、リサ・カーと並走するように波のうえを疾駆していくシーンに尽きると思うんだけど、我が家のしょぼい画面では、迫力が千分の一くらいになっちまって、あとはシナリオの粗さとストーリーの素朴さがいたずらに際立つばかりであった。劇場で鑑賞した時は、べつに3Dでもないってのに、見てるこっちまで大波に呑みこまれそうな気分になって、ポニョの爆発的な思いのたけ(ただの我がまま?)に圧倒されたもんですが。

 いまシナリオの粗さと書いたけど、どうも『ハウルの動く城』、いやいや、すでに『もののけ姫』の後半部あたりから、宮崎駿さんはお約束の筋立ってものに興味を失っているようで、難しくいえば脱構築とか、ポストモダンということになるんだろうけど、「英雄」が「協力者」の助けを借りて「龍=魔物」を倒し、「囚われの姫」を救い出すという、『天空の城 ラピュタ』で完成させたエンタテイメントの王道を、自らの手で破壊し続けておられる。『千と千尋の神隠し』では、千尋のアイデンティティーはまだしも一貫していたものの、湯婆婆と銭婆(両者はもちろん同一のものだ)の性格が、物語の前半と後半とで、「恐るべき支配者」から「優しい庇護者」へと変貌を遂げる。

 「純文学」的に見るならそれは、人間と人生の複雑さを表現していると評価できるし、だから宮崎アニメはディズニーよりも高尚なものには違いないのだが、エンタテイメントとしてはじつに危ういってことも事実だ。『ハウル』では、ついにその複雑さがヒロイン本人にまで及んでしまって、ソフィーお婆ちゃんは大騒ぎして城を壊したかと思うと慌ててまた造り直したり、友人でありハウルの魂の一部でもあるカルシファーを不用意に消火しかけたり、いったい何がしたいのか、どうにもわけがわからない。だれかあの女性の言動を完全に理解し、きちんと感情移入できた方はおられるだろうか。ぼくは三回見直したけど、どうしてもやっぱり無理だった。

 で、ここにきて宮崎ヒロインは、元気いっぱいで我がまま放題の童女と、お行儀の悪いヤンママと、すべてを抱擁し、肯定するかのごとき大いなる母性に分裂してわれわれの前に現れたわけだが、もちろんぼくは、それら三者のどれにも感情移入できなかった。ただ、所ジョージが「もしあの少年が受け容れてくれなかったら、ブリュンヒルデ(ポニョ)は泡になってしまう。」と必死で訴えるのに対して、「あら。わたしたちはもともと泡から生まれたのよ。」と事もなげに応じるグランマンマーレの台詞はちょいと凄かった。あの台詞だけは忘れがたい。色即是空。だから彼女を「観音さま」と認識した船員さん(宗介の父)はまったく正しいわけで、あの作品のシナリオは、エンタテイメントとしては粗いけれども本筋はきっちり踏まえているのだ。当たり前だけど。

 しかし、もののけ姫サンさんみたいに色濃く面影を宿したヒロインを見ても、ソフィーお婆ちゃんやポニョやグランマンマーレみたいに似ても似つかぬヒロインを見ても、とかく思い起こされるのはナウシカのことで、いまや宮崎アニメの新作を見るという行為は、ナウシカの不在に繰り返し直面しては、その魅力を懐かしむという逆説的な儀式と化しているのかも知れない。精神分析学が専門で、小説や映画に関しても鋭い批評を書く斎藤環さんは、ナウシカ(に代表される戦う少女)のことを「ファリック・ガール」と定義づけた(『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫)。だいたいまあ、「少年性と少女性とを併せ持つ両性具有者」くらいの意味で、汎用性の高い概念だと思う。

 なるほどナウシカは半分くらい男の子であり、それが彼女の個性の大きな部分を形づくっているのは間違いない。だけどぼくは、この概念を提示されたおかげでもっと多くのことが分かった。ナウシカがあれほど魅力的なのは、彼女が女性の持ちうるほとんどすべての属性を併せ持っているからだ。「少年性」はそのうちのひとつにすぎない。まず彼女はグライダーに乗って天空から登場し、われわれの前にふわりと着地する。すなわち、まずは優秀な飛行家であり、さらにいうなら地上に降りた天使=天女にほかならない。それから腐海の奥へと入り、フィールドワーカー、冒険家、自然科学者、そして文学少女っぽいロマンティストとしての相貌を次々に見せる。そして、彼方からの一発の銃声を耳にするや否や、一転して俊敏な戦士に身を変える。

 怯えて猛るキツネリスを手なづけるあの有名な場面はもちろん母性の発露だし、それは巨大な蟲たちを含めた他のあらゆる生物へと及ぶ。ただし王蟲との交感は、むしろ巫女的な資質のたまものというべきか。これはいったん怒りに身を任せると、敵と見なした相手を容赦なく殺戮してしまう激烈さとは矛盾しない。異界への憑依も狂戦士としての昂ぶりも、ヒステリーのふたつの側面に違いないからだ。もとより彼女はそもそも姫=高貴なる血筋の者なのだが、常日頃は労働者として耕作にも従事し、「風の谷」の住民にとってはむしろ共和主義的なリーダーとよぶべきものだ。いうまでもなくジャンヌ・ダルクでもあるが、奉じるのはカトリックの神でも王権でもなくて、大いなる地球の生態系そのものである。このような調子で連ねていけばキリがない。プロットのそれぞれの場面において、さながら陽光を浴びたプリズムのように、ナウシカは目映いほどにその属性を変幻させていくのである。

 そしてあの「少年少女名作劇場」めいた、気恥ずかしくも感動的なラストシーンで、彼女はまさしくゲルマン神話的な伝説の英雄と一体化し、名実ともに少年というか、逞しき青年の属性をすら身に纏うのだが、いっぽう、謂集してきた村人たちに揉みくちゃにされて「きゃ、きゃ、きゃ。」と島本須美さんの声ではしゃぐ彼女は、まるっきりもう、そこいらへんの女子高生である。どの仮面(ペルソナ)がというのではない、これらすべてが渾然一体となりつつ、臨機応変、適確無比に前面に現れるがゆえに、ナウシカはあんなにも魅力的なのだ。

 だけどまあ、監督としての宮崎さんのお立場も何となく分かる気がするのである。十代で「巨匠たちのタッチ」を身につけてしまったピカソじゃないけど、『カリオストロの城』を経て、劇場用第二作でいきなりこれほど完成度の高いものを作ってしまった以上、あとはそのヴァリエーションを紡ぐのでなければ、定型を壊していくしかないわけだ。それに、年齢を重ねて五十、六十になって、相も変らず戦闘少女でもあるまい。自分に呪いをかけた憎っくき魔女すら平然と介護してしまう、ソフィーお婆ちゃんのキャラクターこそ、正しく壊れたナウシカの、21世紀の進化型であるとは思う。感情移入はできないけれども。


宮崎駿の「風立ちぬ」

2015-02-20 | ジブリ
 たまたま今日、宮崎駿の「風立ちぬ」がテレビ初オンエアということなんで、2年まえ、劇場に見に行った直後に書いた記事を再掲することにしました。




 宮崎駿の『風立ちぬ』。(初出 2013年9月12日)



 前回は罵言を連ねたけれども、『風立ちぬ』は誠に良い映画なのだ。ぼくが20代の頃のように体力があって図々しくて、総入れ替え制でなかったら、朝いちばんで映画館に出かけて最低でも3回は繰り返し観たと思う。それくらい好きだ。こんなに夢中になるのはたんにストーリーの面白さだけでなく、その作品の醸し出す世界そのものに惚れ込んだ証拠である。その空気の中にいつまでも浸っていたいと切に願ってしまうわけだ。同じような感慨を抱く観客は少なくないのではないか。そして、じつはその点にこそもっとも注意を払わねばならぬとも思う次第なのだ。
 『風立ちぬ』が描いているのは1916(大正5)年から敗戦の年1945(昭和20)年までのニッポンである。たしかに緑は今より豊かだったろうし、時間もゆっくり流れていたろう。しかし、関東大震災、治安維持法、金融恐慌、世界大恐慌、満州事変、五・一五事件、二・二六事件、と打ち続くこの時代がそれほど懐かしく見えてしまうのは本来ならばおかしいのだ。「その空気の中にいつまでも浸っていたい」などと呑気なことを言っていられる時代ではなかったはずなのである。実際には。
 つまりこれは郷愁の涙に潤んだ瞳に映る戦前・戦中の日本の姿なのだ。宮崎監督はかつての日本を美化している。それはまた、ゼロ戦という戦闘機をつくった「堀越二郎」(堀越二郎氏は実在の人物だが、宮崎さんが描くのはあくまで虚構の存在だから、「」付で表すこととする)を美化することにも繋がっている。さらにいえばその延長で、日中戦争~太平洋戦争へとつづく先の大戦全体もまた美化されているのかもしれない。「戦争を美化している」という紋切り型が言いすぎであるというならば、「戦争のもたらす惨苦をあえて描いていない」と控えめに換言してもいいだろう。それは高畑勲監督の『火垂るの墓』と比較するなら一目瞭然であろう。
 「飛行機は美しい夢だ。しかし呪われた夢でもある」という意味のことを、「二郎」の夢に現れる「カプローニ伯爵」は繰り返し述べる。しかしその「呪われた」部分をこの映画は正面からは描いていない。設計士でもパイロットでもない、ただの民間人のぼくたちにとって、戦闘機とは何よりもまず頭上に飛来して爆弾を落とす恐るべき脅威なのである。『火垂るの墓』ではそうだった。あれは飛行機から爆撃を受ける側に立った作品だ。しかし、『風立ちぬ』にそんな視点はない。爆撃を受ける側の視点を入れたら作品全体がたちまち瓦解してしまう。それほどに儚い、そしてそれゆえにこそかくも美しき映画なのである。
 そもそもぼくは前回どうしてあれほど怒ってたんだろう。オリンピック招致の狂騒ぶりにほとほとうんざりしていたことがあり、それが『風立ちぬ』のベネチア賞取り報道と相まって、なにか国威発揚の儀式の一環のように思えてしまった。しかも映画の題材が題材である。そのような理由がひとつある。もうひとつ、直近の「ポニョ」「ハウル」(どちらも映画館で観た)の支離滅裂さにずっと腹を立てていた、ということもあったようだ。たんにデタラメだったらまだいいのだが、こちらがあれこれ補完し、断片を繋ぎ合わせて解釈すればいくらでも深読みが可能な作品であり、それがいっそう苛々を募らせていたらしい。しかし『風立ちぬ』はあのような放埓さとは縁がない。すっきりとまとまった端正な大人の映画である。
 ぼくはむしろ後期の宮崎さんにはこのような作品をあと2、3本つくっておいて欲しかった。引退宣言がつくづく残念だった。前回の記事で、「武器とは何か、兵器とは何か、殺戮とは何か、破壊とは何か、戦争とは何か。具体的には、先の太平洋戦争、そしてそれに先立つ日中戦争とはいったい何だったのか。そういったことを宮崎駿が我と我が身を振り絞るようにして考え抜いたことはない。」と記したくだりは、八つ当たり半分とはいえあまりにも僭越で、やはり撤回すべきかもしれない。確かに『風立ちぬ』という映画は、ここに羅列したような問題についての見解を示したものではない。しかし、だからといって宮崎さんがこれらの問題を切実に考えていないと決め付けることはできない。作者は自分の考えや意見のすべてを作品に投影するわけではないからである。しかもそれが商業映画で、さらにアニメーションともなれば、制約の上にも制約を重ねることになるのは当然だ。失礼なことを述べてしまった。
 作品の半ば、軽井沢の「草軽ホテル」(「三笠ホテル」がモデルらしい)に宿泊した「二郎」は、カストルプ(トーマス・マンの『魔の山』の主人公と同じ名前)という謎めいたドイツ人からこう言われる。「ここはとても良い所。ここは魔の山。モスキート(蚊)いない。クレソンおいしい。何もかも忘れる。不景気わすれる。満州事変わすれる。国連脱退わすれる……。何もかも忘れる……」。 一度しか観てないし、シナリオが手元にないので正確ではないが、おおむねそんな意味だったと思う。このドイツ人はリヒャルト・ゾルゲではないかと多くのサイトが指摘しており、げんに「二郎」はこのあと都会に戻ってから特高にマークされることとなるのだが、この草軽ホテルは彼が菜穂子と再会してお互いの愛を確認し、のちの求婚へのステップとなるとても大切な場所でもある。ふたりの交流はこのうえもなく清冽に、しかも情感ゆたかに描かれている。ぼくはこの映画を観ていて4回涙が溢れ出したが、その一番目がここだった。
 しかし、「下界」ではカストルプの言うとおりすでに満州事変も起こっているし、五・一五事件も起こっているし、ドイツではナチス政権が成立しているし、日本は国際連盟を脱退しているのだ。「二郎」と菜穂子には、まるでそのようなことは関わりがない。いわばふたりは、別の世界を生きているのである。それはこの「魔の山」の山頂にいるからではなく、「下界」に戻った後もなお、二人にはずっとこの二人だけの別の時間が流れているとしか言いようがないのだ。
 それはやはり、「堀越二郎」という人物の特異さに大きく与っていると思われる。「二郎」は「三菱内燃機株式会社」で戦闘機の設計に携わっているのだが、同期であり大学以来の親友でもある本庄に向かって「どこと戦争するつもりなんだろう……」という問いを何度かつぶやく。入社当初はまだいいとして、日中戦争が始まって、太平洋戦争が間近に迫ってからもなお同じことを言っているのである。ゼロ戦の設計者ならずともそれはあまりに浮世ばなれが過ぎるというべきで、じっさいに本庄のほうは「……中国、イギリス、オランダ、それにアメリカだろうな」と正確なことを答えている。
 ふつうのインテリならばそれくらいは常識であるはずで、やはり「堀越二郎」は(念のため言うが、実在の堀越氏ではなく、宮崎さんのつくった「堀越二郎」のことだ)尋常の人ではないように思う。ずば抜けた英才であり、優秀な設計士であり、「義を見てせざるは勇なきなり。」といった真っ当な正義感を持った人格者であり、適度の社交性もあり、好きな女性を一途に想う純情かつ高潔な青年なのだが、しかしこの人はまともではない。宮崎さんの企画書に、「狂気」という文字が見えるけれども、「堀越二郎」はとても精密で静かな狂気に浸された人のようにぼくには思えた。そのような意味で庵野秀明氏の声は怖いほど「二郎」に合っていた。それは現代社会の病理を一身に集めた「エヴァンゲリオン」という作品の「設計者」にしか出せない声なのだ。
 全編にわたってほぼ棒読みで台詞を語る「二郎」すなわち庵野氏が、「やむにやまれず」といった具合にぐぐっと感情を込めてしまうシーンが二箇所ほどある。そこで自らの感情を揺さぶられる観客も多いことだろう。それがどこかはここでは詳しく書かないが、いずれも菜穂子との交流に関わっている。菜穂子との交流を持つときに、「二郎」はもっとも人間らしくなるとも言える。ゆえに、病床に臥す菜穂子の手を握り締めながら、「片手で計算尺を扱うコンクールがあればぼくは一番だね。」などと言いつつ淡々と戦闘機の設計図を引く「二郎」の姿は一種の戦慄をそそる。一見すれば微笑ましく、しかし菜穂子の病状を思えばひどく切ないシーン……。されどよくよく考えてみれば、こんなに怖いシーンが他にあるだろうか。ひとりの女性にこれほど優しく情愛を注げるひとが、一方の手で殺戮兵器を作っている。あのシーンに戦慄を覚えるか否かで、この作品に対する評価は大きく変わってくるように思う。少なくともぼく個人にとっては、ゼロ戦の残骸が散らばるラストシーン以上に、この場面のほうがショッキングだったし、「兵器」というものに対する宮崎さんの葛藤を垣間見たように思えた。
 ゼロ戦の設計者である堀越二郎と共に、「堀越二郎」に面影が投影された実在の人物は作家の堀辰雄である。この二人はほぼ同年で(堀越は1903=明治36年、堀は04年の生まれ)、ご覧のとおり名前も似ている。しかしその他の共通項は東京帝大卒ということくらいで、接点もない。対照的といってもいいほどだ。そのような二人を重ね合わせる着眼点は非凡としか言いようがないが、「二郎」と菜穂子との清潔で哀しく切ないラブストーリーのほうは、この堀辰雄の作品および生涯から着想を得ている。ただ、『風立ちぬ』は堀辰雄作品の中でもっとも名高い代表作だが、この作のヒロインの名は菜穂子ではなく節子であり、『菜穂子』という作品は別にある。玄人筋にはこちらのほうが評価が高い。高原のサナトリウムを無断で抜け出すという大胆さもまた、「節子」ではなく「菜穂子」のものだ。
 『風立ちぬ』は映画に合わせて新潮・角川・集英社文庫などで版を重ねているようだが、『菜穂子』はいま岩波文庫版しか入手できない。けれど青空文庫で読むことはできる。名作だから読んでおいて損することはけっしてない。とはいえ、愛しさに駆られて会いたい一心で恋人のもとを訪れる情熱や、映画で描かれたあの息を呑むほど美しい「嫁入り」の情景はこの「原作」には書かれてはいない。あれは映画作家・宮崎駿のオリジナルである。実写たるとアニメたるとを問わず、あの「嫁入り」と「初夜」ほどに綺麗な場面を見たことはあまり覚えがないように思うし、あのシーンを見るためだけでも映画館に足を運ぶ値打ちはあるんじゃないかと個人的には思っている。批判すべき点はたしかにあろう。しかしそれでも、もういちど繰り返すけれど、『風立ちぬ』は誠に良い映画なのだ。

 ここで言及されている「前回の記事」も、参考までに再掲しようかと思ったんだけど、いま読み返すとあんまり感情が表に出すぎていて、自分でもイヤになりました。よって掲載は控えておきます。



追記)
 劇場で『風立ちぬ』を観てから6年が過ぎ、近代史の勉強をし直すなどして、いろいろと考えが深まったので、改めてじっくりこの作品について考察し、7回かけて書きました。よろしければご参照のほど。

「ひきつづき、『風立ちぬ』のこと。①」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/a513e094a5fb87d0e2c2e9aca516d4ab