布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

徹夜の楽しみだった庚申講の今

2007-05-12 | 歴史
柏印西線の手賀東小学校入口付近の道路脇に百庚申塔が整然と写真のように立ち並んでいる。同様な百庚申塔が柏市川線の南増尾付近にもある。江戸時代、娯楽の少ない庶民の楽しみとして、これらの地域で庚申講がいかに盛んであったかを現しています。
さて、この庚申塔・庚申講とはどういうものかを紹介します。
人間の体には、三尸の虫という虫が住みついていて、庚申の日の夜にその住みついている体内から出て、その人の悪事を60日に1回、天帝に報告に行くという道教の教えに基づいているらしい。天帝はこの報告に基づき寿命や天罰を決めるというので、人々は、この報告をさせないように一晩中寝ないで、この虫が体内から天に出ないようにしたとのこと。
あまり古いことは、別にして、室町時代になると仏教と結びついて、3年18回連続して庚申待ちをしたら供養塔を、つまり庚申塔を建てるというきまりも出来たようです。塚の上に、石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を行なうので庚申供養塔とも呼ばれる。でも、一般にひろまったのは江戸時代初期(寛永期以降)頃からです。
この布瀬の百庚申が建てられたのは、文政7年(1824年)から明治8年(1875年)までの51年簡に集中し、全部で105基あります。この庚申塔には、青面金剛や帝釈天を彫り込むものが多いのは、道教や仏教の影響で、猿田彦を彫り込むのは、神道とのつながりと見られるが、これらを彫り込むのは、これらの祭神に祈ってなんとしても三尸虫が天帝に告げ口に行かせないという素朴な願いが込められているという。庶民は60日に1回、村々で集まり、いつしかこの宗教的意味合いのほかに、共に一晩寝ずに飲食し、語り合う、息抜きの場とするようになり、講を結成し、永く続け、地域の結束力の強化を図って行くのである。これは、集まりを禁止されていた江戸時代の中で、いかに楽しみを見いだして行こうとする庶民の知恵の賜なのでしょうね。
お気づきの方もいると思いますが、庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多く、これは道祖神など他の路傍の石仏にはみられない庚申塔の特色ともされています。
しかし、明治になると、明治政府は庚申信仰を迷信と位置づけ、この街道筋に置かれているものの撤去を進めたといわれ、こうして多くの庚申塔が消えていくのである。だから、現在、残存する庚申塔の多くは、交通量の少ない街道脇や私有地や寺院の境内に置かれているのである。これだけ、信仰の厚かった布瀬地区も、既に庚申講の集まりはなくなっております。また、布施弁天のある富勢地域でも同様に講は既になく、ただ、地域のあちらこちらに青面金剛の庚申塔がぽつねんと残されており、時の流れを無言で現しています。
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