季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

連帯感 2

2015年11月07日 | その他
教育とリスクとの狭間で、というが、連帯感とは教育するものなのだろうか?

それが前の記事の最後で記したことである。

それを問い直さず、いかにも難しい問題だといった空気を漂わせる、いかがわしい題名だ。

他にも人間ピラミッドの起源をギリシャであることを紹介し、危険な技をクリアすることによって市民は感動して熱狂した、という物知りもいた。みたまえ、選ばれし民が危険な技を、とあるではないか。学校全体で取り組む性質ではない。

この御仁は体育祭での事故を受けてやめた方が良いという意見だったようだが。なにぶん、馬鹿らしいので飛ばし読みで、結論なぞどうでも良いのである。

僕は連帯感というものは無いとか要らないとか言っているのではない。 それはある状況下で自然に生じるものだろうと言っているのだが。

普段の生活において、例えば友人と、僕で言えば生徒とは連帯感で結ばれているのか?

違うだろう。僕は今目の前にいる生徒に対し真剣に教え、話をするだけだ。

だけだと言うが、それこそが大切なのではないか。それに対し生徒は僕を信頼して接する、それが無ければ僕から去れば良い。

人間の関係はこの相互関係の濃淡だと言って差支えないだろう。集団として生きてはいない。

集団としての関係自体は当然ある。会社、地域、あらゆる集団。

そこではチームワークが必要であるのは言うまでもない。

それはほとんど自然に発生すると言っても間違いではないだろう。ただし目前の人との関係を(濃淡を含めて)誠意をもって取れるということが前提とされるけれど。それも出来ずに謳われる連帯感は、異様だと言っておく。

ではそうした、人との関係は教えられるものだろうか。

教えること、授業のような形で教えることはこれ又不適切である。

また、関係というのは、ウマが合わないということも含まれることを忘れてはいけないだろう。

ウマが合わない人と「仲良く」する必要はない。むしろウマが合わない人と無礼にならぬような距離を保つこと、それが社会のごく普通の在り方ではないか。

あれもこれも、画一的に「教育」しようとするから、いびつな連帯感、達成感、友情、希望、ぺんぺん草、などが声高に叫ばれるばかりで、その効果は何十年にもわたって上がらない。