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 季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

空想

2008年12月07日 | Weblog
空想という言葉が安く見積もられるようになってしまったのは残念だ。空想イコール非生産的、あいつは空想ばかりして実行の伴わない奴だ、といったふうにしか通常は使わない。

僕は空想力に重きを置いている。人間を人間たらしめている要素のひとつだと思っている。それもきわめて重要な。

以前書いたけれど、人類学上の人間発祥を、遺体を埋葬するに至ったときだとする説がある。遺体が腐り、野生動物に食い荒らされるのを想像するから埋葬するようになったのだろうか。

死後の世界という空想も案外同じころに宿り始めたのではないか。してみると宗教という人間にとってもっとも大切なもののひとつを導き出したのは空想する力だといってよいのだろう。

宗教といえば仏教やキリスト教など特定の宗派を信じない人は、自分にとって宗教は大切ではない、と反論もしようが、僕のいう宗教とはもちろんそうした宗派を意味しない。それらの宗派の歴史なんてたかだか数千年だろう。

誰しも宇宙のことに思いをはせて不思議だと感じたり、言葉に尽くせない感動を味わう際にちらっとある種の謎めいた心の動きを感じたことくらいあるだろう。人類がきっと大昔から味わったのだろうこの気持ちを宗教的なものと呼んで一向に差し支えないと思われる。

こんな大問題に深入りするつもりで書き出したのではなかった。

科学の進歩だって空想力に支えられている。鳥のように飛べたら、大空から見た地上の様子はどんなだろう、馬のように速く走ることができたらどんなに素晴らしいだろう等々、日常的な出来事に関してもつまるところ空想力の産物である。

人に読めるような字が書きたいものだという悪筆家(僕のようなやつのことだよ)がついにキーボードまで発明してしまうのさ。

女の声よりなお高く、男の声よりなお低く、風邪をひこうがなんだろうが歌えるようにならないかと意識したかどうかは別だが、そういう関心からピアノなんて生まれてきたに違いない。

それでも昔のひとがどう感じたかを想像するのは大変に難しい。

リコーダーのように素朴を極めた音から、バロックという巨大なエネルギーを持った時代を想像する難しさを考えてみればよい。ルーベンスの巨大なエネルギー、僕には何だか悪趣味でぴんと来ない世界であるがともかく凄まじいエネルギーだけは感じるが、その傍らで同じ時代の人々がほぼ似たような心を持ってリコーダーやガット弦の弦楽器で演奏していたわけだ。その音自体は現代でも聴くことができるけれど、そこからルーベンスを産み、幾多の壮麗な建築を産んだ精神との同一性を感じ取るのは難しいと思う。少なくとも僕にとっては。

あるいはまた平安時代の恋愛ならば容易に想像できるように思い込むのも、源氏物語をはじめとする文献があってこそだろう。

文献の残っていない時代にも当然恋愛はあったわけだが、いったいどんな様子だったのだろう。きっと今と大して変わっていなかっただろう。ドキドキしたり、告白をためらったり、途中で嫌になったり、またまたためらったりを繰り返していたのだろう。

ここでも、僕たちの空想はすでにリアリティーを失っていることを認めざるを得ない。縄文人の恋愛、容易に空想できる人は黙っていては勿体ない。小説にしなさいよ。もっとも売れないと思うけれどね。今年下半期の芥川賞は縄文時代の恋愛をリアリティー豊かに描いた「土器の秘密」に決定しました、なんて絶対にないな。まあくやしかったら書いてみなさい。

権力闘争ならばもう少し想像でき易そうであるがそれだって結構難しいよ。

日本での最初の大政変は蘇我氏と物部氏の戦いだろうが、大将が榎木に跨って矢を射ること雨の如し、なんてよく考えてみれば現代のガキのけんかじゃないか。それで日本の歴史が変わっていくのだからね。

命の教育に続きがあった(ブタがいた教室)

2008年12月04日 | Weblog
ちょっと前に教室で豚を飼っていた学校のことを非難した。そうしたら今日生徒から、その美しい話は「ブタがいた教室」という映画になっていて、ふたたびニュースで取り上げられたと聞いた。

僕の意見は重複するだけなので繰り返さない。記憶がいい加減だったことも判明した。「花子」なんて書いたが「ピーちゃん」だった。

件の教師はその素晴らしい授業成果をひっさげて講演会に忙しいという。事業成果の間違いかと思ったがね。

報道によると、自分の「教育」のもたらした結果に自ら感動していたそうだ。それは分かりきったことだから捨てておく。子供たち、今や大人になったかつての子供たちの中には、素晴らしい体験だったという人と、顔にモザイクまでかけて、今でもどうしたら良かったのかとトラウマになっているという人とが混在するという。

これも予想されたこと。

命が大切なことはいうまでもない。僕自身はそれを「教える」ことなぞ必要ないと思うけれど。面倒なのはそう発言すると、僕が(あるいはそう発言した人が)命は大切ではない、と言ったように曲解するおっちょこちょいが必ず出ることだ。

「教える」ことが大切だと力みかえる人は、よく考えて欲しい。こうしたことは教える性質のものかを。人を好きになることと同じように、ひとりでに覚えるものだろう。そこでは感受性だけがものをいう。これなくして命なんて分かるものか。うそ臭い友情、団結、片方でそんなことをしながら豊かな感受性を育む教育を標榜するのだろうか。

もうひとつは、もしも教えなければならないものだとして、是が非でもこういった方法を採らなければならないのか、ということ。宮沢賢治の「なめとこ山の熊」でも読ませておけばすむだろう。徹底的な討論だけでもすむかもしれない。

いや、実地でしなければ効果はない。なるほど、では危ない場所に行ってはいけない、と教え込むより危ない場所に行かせるほうがよっぽど教育的だろう。やってみたらいいじゃないか。

精肉業者がどうやってつぶすかまで見せたらいいじゃないか、そんなに実地実地と騒ぐのならば。

仮によく効く薬があったとする。たいへん効果はあるが1割程度、副作用で死者が出たとしよう。死者ではなくてもよい、重篤な副作用でもよい。社会的大問題に発展するだろう。トラウマになっている生徒が仮に数人だけ出たとしても、負の副作用が出ているわけだ。それを捨てておいて、なにが命の教育だ。偽善にもほどがある。

僕は平等とか自由という言葉が嫌いである。ここでも間違えないでもらいたい。こういう種類の言葉は、人前で滔々と口にするものではない、口にしただけでうそ臭くなってかなわない、という意味だ。それを口に出す人の口調による、と言っても良い。

ここまで書いて検索をしたら、その教師は今、さる大学の教授だか、准教授だかになっていた。顔を見て声も聞いたが、少しの迷いもない単純な声である。僕は人を声で判断する。

記者の理想的な教育者像とは何か(この質問自体、この国にありがちな陳腐なものだが)という問いに遅疑なく「それについては自分にはかなりはっきりしたものがある。自立した人を作ることだ」と答えていた。ご立派ですと答える以外ない。

信念というものは頭に宿るのではない。頭に宿っただけの人は声でわかる。この人もクラスでピーちゃんの処遇を討論しているときに涙を見せる。だが、これはセンチメンタルな涙だ。

福沢諭吉に「痩せ我慢の説」という文章がある。勝海舟と榎本武揚に対する疑義を表わしたものだ。生前発表はされずに、ただ対象の二人に示されただけだった。

榎本武揚に対して福沢は言う。
函館五稜郭にあなたに従って立て籠もった兵士たちは、新政府に異議を唱えるあなたを慕って死んでいったのである。それなのにいったん投降した後に新政府の高官に取り立てられるのはいったい義があると言えるであろうか。なるほど人は時が経つにつれ意見が変わることもあろう。

しかし自分に従って命を捨てた人を思えば、新政府の要職を請われたといえども、また自分にその職を全うする能力があると自負したとしても断るのが人の情であろう。あなたはそれについてどう思うか。

簡単に言えばこういうことだ。きわめて簡略な、福沢という人の心の動きを伝える文章である。

僕は件の教師が今は大学教員に「昇格」したのを知ったとき、すぐこの文章を思った。この人が本心から教育現場において子供と接し、生命について語り続けたかったのであれば、断固現場に残るべきであった。本当に子供とともに迷ったのであれば、是非はともかく、今も小学校に留まっていたであろう。

僕のこの意見はこの若い人に対しては厳しすぎるのを承知する。ただ、この種の話に表面上の感動を覚える人に対し、また、この人が教員を目指すより若い大学生に自らの体験を素晴らしいものとみなして必ず見せていると言うのであえて書く。


スーパーレッスン

2008年12月01日 | 音楽
スーパーピアノレッスンだったか、そんなタイトルの番組がある。なんという題名だ。このことひとつとっても、NHKのセンス及び目指しているものが浅はかだと想像がつく。ひとつ口に出してみたらよい。ケンプのスーパーレッスン。僕、重松はコンラート・ハンゼンのスーパーレッスンを受講etc.

本屋に行けばテキストが平積みされていることは立ち読み専門家としては承知していた。開くまでもない本というのはあるもので、これはそちらに属するものだったから横目でちらっと見ただけだ。ただ、買う人が多いからあんなにたくさんあるのだな、とは思っていた。

現在はピレシュ(僕が若い頃来日した折にはピリスと表記していたから同一人物であることに気づくには時間がかかった)のシリーズが再放送されているらしい。

ある人がそのうちの何回分かを録画して貸してくれた。ピレシュは巨匠だそうである。時間を見つけて少しだけ見た。結論といおうか、胸が悪くなった。とてもぜんぶ通して見る気にはなれず、場面場面を切れ切れに見ただけである。

オカルトの世界、いやいやオカルトはユングが研究をしているくらいだからな、怪しげな新興宗教の世界だ。見るからに怪しげな助手だか何だかの男性ピアニストまでが色々口を挟む。というより、むしろ曲の具体的な注意、盛り上げてだとかフレーズの構成については彼が猫なで声で歌って助言する。

女性がよく、嫌いな男からなれなれしくされて気持ち悪かったと言いますね。男である僕はその気持ちが本当のところでは理解できていないのだろうが、音楽家として、この助手?の歌い方は(よくあるのだけれど)気持ち悪い、女性の心理もかくばかりか、と思わせる。

肝腎のレッスン、いやスーパーレッスンであるが、ほとんどがピレシュの人生訓めいた話に終始する。「あなたは何とかしようとする欲があるの。だから緊張するのよね。いい?すべてをただ受け容れるの」およそこのような感じで話が進む。なにぶん気持ち悪さのあまり全部見る気力もなく、もう一度確認をするのも嫌なので細かい言い回しは違うだろうが、そこは勘弁してもらおう。

言われたほうは、確かにそのとおりだという自覚がある。当たり前だ、欲求というか、こうしたいという気持ちはあるし、緊張もする。ものごとをあるがままに受け容れなければならぬ、というのは古のありがたい坊さんたちも言っているような気がする。

ピレシュはその点で悟りを啓いたのかもしれない。だが音楽は?演奏はどうなったのだ?さとりを啓けば演奏がまともになるのか。

その伝でいけば、フィレンツェの多くの壁画はフラ・アンジェリコが描く必要はなかったではないか。フラ・メンコでも良かった。坊さんたちはみんなみんな悟りを啓いていたのさ。

さてそこで儀式が始まる。ピレシュは生徒の頭を彼女の肩に乗せ、身を任せるように指示する。物事をあるがままに受け容れるための準備らしい。生徒の手は助手が弾かれるべき位置に置いてくれる。生徒は目をつむり、口を半開きにしてよいよいのような表情でほにゃほや弾く。

こうやって2人1組でやるから、新興宗教の洗脳じみている。「そう、良くなったわ、今彼の音は解放されている」といったって僕の煩悩いっぱいの耳には何の変化も聴き取れない。

こんなレッスンがどうして特別評判になるのだろうと思うが、裏を返せば日本ではレッスン自体がおそろしく窮屈なのだろう。質問をする雰囲気ではなく、生徒は先生の言うことを傾聴するだけ。へたに質問しようものなら私に質問とは10年早い、と叱責される場合もあるというからな。

そういうものが音楽のレッスンだと頭から思い込んでいた人たちにとっては、ピレシュの「やり方」は自然で素敵、と感じるのかもしれない。飾らぬ、いばらぬ人という意味ではまさにそういう人だろう、ピレシュは。

極めつけは「音色を変えることがコツなのよ」と言うところだ。レッスンというからには音色を変えるコツを教えてもらいたいのに。これは楽だよなあ。この曲は美しく弾くことがコツなんです。感動的に弾くことがコツなんです。万事に通用しそうだ。

100メートルを8秒台で走るのが金メダルのコツだ。誰か僕を陸上連盟のコーチに雇ってくれないか。疲れてしまった。今ピアノを弾いたら口を半開きにしてよいよいの演奏ができそうだ。