空想という言葉が安く見積もられるようになってしまったのは残念だ。空想イコール非生産的、あいつは空想ばかりして実行の伴わない奴だ、といったふうにしか通常は使わない。
僕は空想力に重きを置いている。人間を人間たらしめている要素のひとつだと思っている。それもきわめて重要な。
以前書いたけれど、人類学上の人間発祥を、遺体を埋葬するに至ったときだとする説がある。遺体が腐り、野生動物に食い荒らされるのを想像するから埋葬するようになったのだろうか。
死後の世界という空想も案外同じころに宿り始めたのではないか。してみると宗教という人間にとってもっとも大切なもののひとつを導き出したのは空想する力だといってよいのだろう。
宗教といえば仏教やキリスト教など特定の宗派を信じない人は、自分にとって宗教は大切ではない、と反論もしようが、僕のいう宗教とはもちろんそうした宗派を意味しない。それらの宗派の歴史なんてたかだか数千年だろう。
誰しも宇宙のことに思いをはせて不思議だと感じたり、言葉に尽くせない感動を味わう際にちらっとある種の謎めいた心の動きを感じたことくらいあるだろう。人類がきっと大昔から味わったのだろうこの気持ちを宗教的なものと呼んで一向に差し支えないと思われる。
こんな大問題に深入りするつもりで書き出したのではなかった。
科学の進歩だって空想力に支えられている。鳥のように飛べたら、大空から見た地上の様子はどんなだろう、馬のように速く走ることができたらどんなに素晴らしいだろう等々、日常的な出来事に関してもつまるところ空想力の産物である。
人に読めるような字が書きたいものだという悪筆家(僕のようなやつのことだよ)がついにキーボードまで発明してしまうのさ。
女の声よりなお高く、男の声よりなお低く、風邪をひこうがなんだろうが歌えるようにならないかと意識したかどうかは別だが、そういう関心からピアノなんて生まれてきたに違いない。
それでも昔のひとがどう感じたかを想像するのは大変に難しい。
リコーダーのように素朴を極めた音から、バロックという巨大なエネルギーを持った時代を想像する難しさを考えてみればよい。ルーベンスの巨大なエネルギー、僕には何だか悪趣味でぴんと来ない世界であるがともかく凄まじいエネルギーだけは感じるが、その傍らで同じ時代の人々がほぼ似たような心を持ってリコーダーやガット弦の弦楽器で演奏していたわけだ。その音自体は現代でも聴くことができるけれど、そこからルーベンスを産み、幾多の壮麗な建築を産んだ精神との同一性を感じ取るのは難しいと思う。少なくとも僕にとっては。
あるいはまた平安時代の恋愛ならば容易に想像できるように思い込むのも、源氏物語をはじめとする文献があってこそだろう。
文献の残っていない時代にも当然恋愛はあったわけだが、いったいどんな様子だったのだろう。きっと今と大して変わっていなかっただろう。ドキドキしたり、告白をためらったり、途中で嫌になったり、またまたためらったりを繰り返していたのだろう。
ここでも、僕たちの空想はすでにリアリティーを失っていることを認めざるを得ない。縄文人の恋愛、容易に空想できる人は黙っていては勿体ない。小説にしなさいよ。もっとも売れないと思うけれどね。今年下半期の芥川賞は縄文時代の恋愛をリアリティー豊かに描いた「土器の秘密」に決定しました、なんて絶対にないな。まあくやしかったら書いてみなさい。
権力闘争ならばもう少し想像でき易そうであるがそれだって結構難しいよ。
日本での最初の大政変は蘇我氏と物部氏の戦いだろうが、大将が榎木に跨って矢を射ること雨の如し、なんてよく考えてみれば現代のガキのけんかじゃないか。それで日本の歴史が変わっていくのだからね。
僕は空想力に重きを置いている。人間を人間たらしめている要素のひとつだと思っている。それもきわめて重要な。
以前書いたけれど、人類学上の人間発祥を、遺体を埋葬するに至ったときだとする説がある。遺体が腐り、野生動物に食い荒らされるのを想像するから埋葬するようになったのだろうか。
死後の世界という空想も案外同じころに宿り始めたのではないか。してみると宗教という人間にとってもっとも大切なもののひとつを導き出したのは空想する力だといってよいのだろう。
宗教といえば仏教やキリスト教など特定の宗派を信じない人は、自分にとって宗教は大切ではない、と反論もしようが、僕のいう宗教とはもちろんそうした宗派を意味しない。それらの宗派の歴史なんてたかだか数千年だろう。
誰しも宇宙のことに思いをはせて不思議だと感じたり、言葉に尽くせない感動を味わう際にちらっとある種の謎めいた心の動きを感じたことくらいあるだろう。人類がきっと大昔から味わったのだろうこの気持ちを宗教的なものと呼んで一向に差し支えないと思われる。
こんな大問題に深入りするつもりで書き出したのではなかった。
科学の進歩だって空想力に支えられている。鳥のように飛べたら、大空から見た地上の様子はどんなだろう、馬のように速く走ることができたらどんなに素晴らしいだろう等々、日常的な出来事に関してもつまるところ空想力の産物である。
人に読めるような字が書きたいものだという悪筆家(僕のようなやつのことだよ)がついにキーボードまで発明してしまうのさ。
女の声よりなお高く、男の声よりなお低く、風邪をひこうがなんだろうが歌えるようにならないかと意識したかどうかは別だが、そういう関心からピアノなんて生まれてきたに違いない。
それでも昔のひとがどう感じたかを想像するのは大変に難しい。
リコーダーのように素朴を極めた音から、バロックという巨大なエネルギーを持った時代を想像する難しさを考えてみればよい。ルーベンスの巨大なエネルギー、僕には何だか悪趣味でぴんと来ない世界であるがともかく凄まじいエネルギーだけは感じるが、その傍らで同じ時代の人々がほぼ似たような心を持ってリコーダーやガット弦の弦楽器で演奏していたわけだ。その音自体は現代でも聴くことができるけれど、そこからルーベンスを産み、幾多の壮麗な建築を産んだ精神との同一性を感じ取るのは難しいと思う。少なくとも僕にとっては。
あるいはまた平安時代の恋愛ならば容易に想像できるように思い込むのも、源氏物語をはじめとする文献があってこそだろう。
文献の残っていない時代にも当然恋愛はあったわけだが、いったいどんな様子だったのだろう。きっと今と大して変わっていなかっただろう。ドキドキしたり、告白をためらったり、途中で嫌になったり、またまたためらったりを繰り返していたのだろう。
ここでも、僕たちの空想はすでにリアリティーを失っていることを認めざるを得ない。縄文人の恋愛、容易に空想できる人は黙っていては勿体ない。小説にしなさいよ。もっとも売れないと思うけれどね。今年下半期の芥川賞は縄文時代の恋愛をリアリティー豊かに描いた「土器の秘密」に決定しました、なんて絶対にないな。まあくやしかったら書いてみなさい。
権力闘争ならばもう少し想像でき易そうであるがそれだって結構難しいよ。
日本での最初の大政変は蘇我氏と物部氏の戦いだろうが、大将が榎木に跨って矢を射ること雨の如し、なんてよく考えてみれば現代のガキのけんかじゃないか。それで日本の歴史が変わっていくのだからね。