季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

2つの訳

2008年12月11日 | 音楽
フルトヴェングラーの「音と言葉」はすぐれた論文集である。はじめて読んだのはいつだったか、高校生のころだろう。新潮社からでている、芳賀檀さんの訳だった。

ドイツ語の原本から数編が省かれていて、順序も替えてある。巻頭に「すべて偉大なものは単純である」が置かれている。

数年後に、白水社から完訳が出た。こちらも購入して読んだのだが、どうも馴染めない。新潮社のでは読めなかった数編が入っているのが有難かったけれど。

翻訳の難しいところだ。語学が堪能でも駄目なのである。

白水社版のどこがまずいのかを書く前に、芳賀檀さんの訳がどう好ましいかを書いておこう。

この本を手にした人は、巻頭に「すべて偉大なものは単純である」というフルトヴェングラーの最後の論文を見ることになる。原著では執筆年順に並んでいるので最後に置かれている。

もちろん芳賀さんが意識してそうしたのだ。この論文こそが本全体を代表するトーンになっているという認識だ。

それは訳の文体にもよく表れる。「ヒンデミットの場合」は新聞紙上に、ナチの文化政策への非難として載ったものだから、である調だが、ほかはですます調になっている。結果、論文集は人の心に染み入るような訴えとして表れる。あとで例を載せよう。

さらに本書の特徴ををよく表しているものが訳者あとがきである。少し引用しよう。

ベルリンやウィーンで、しばしばフルトヴェングラーの名演奏をきくことができたのは、今は幸せな思い出となりました。殊にベートーヴェンの「第5」「第9」など。あの鮮烈な感銘は今なお耳の底に鳴りひびいているような思いがします。演奏が終ってもなお感動して、立ち去ることが出来ない聴衆がハンカチを振って別れを惜しんでいた光景をなつかしく思い出します。

  中略

(フルトヴェングラーの演奏も)三十年代にきいたのと、四十年前後にきいたのとでは、ずい分違った感銘をうけました。たしかに、フルトヴェングラーはひどく苦しんでいたのです。この「音と言葉」をよんでみると彼が何を苦しんでいたか、がよくわかります。

新訳の後書きも紹介しよう。

前略

最後に、全篇に一貫して流れ、時代とともに明確化されているフルトヴェングラーの基本的な音楽観ないしは芸術観について二、三の点を指摘しておきたい。まず第一に、音楽とは音を通して語りかける芸術である。すでに本書のタイトル「音と言葉」がそれを示唆するものでなかろうか。

中略

これら現代音楽界のさまざまな危機を摘発することにかけて、フルトヴェングラーは飽くところを知らない。それはいずれも科学・技術文明の人間支配による芸術破壊の相を示すものにほかならないが、この憂うべき事態は、とどのつまり芸術における全体性の喪失、つまり有機体生命の中核、人間の「生物学的」本能の衰退ということに帰するのではなかろうか。

後略

一見いかめしい論文のようにすら見えるが、その語調は固く、すなおに読者の心に届かない。芳賀さんの文体が平明でいながら、実感がこもるのと大きな差がある。そこから訳全体のトーンの差が生じる。

語学という観点からいうと新訳のほうが正確だと思う。芳賀さんの訳には減7の和音というべきところを、減少された「7の和音」といったような珍語もある。これは芳賀さんが音楽関係者の助言を受けていなかった可能性をしめすけれど、そんなものはご愛嬌だといってよい。

白水社のまずいと思うところを書こうとしたが、芳賀さんの仕事を褒めただけで良いだろう。つまり、芳賀さんの長所としてあげたものが白水社の本には欠けているのだ。正確だが肌の温もりがない。





コメント
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