季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

中田選手

2008年07月18日 | Weblog
サッカーの中田英寿選手について、デビュー当時から密着取材していた女性記者が書いた本を立ち読みした。

印象は変わらなかった。やっぱりそうだったのだ、と得心がいった。

この人はシャイな人懐こさをもった人なのだ。それは、彼が時折見せる笑顔で分かっていた。その上で、いわゆる日本人的なところが少ないのだ。

いわゆる、を付けないと日本人というのは分かりづらい人種なのだろうか。河上徹太郎さんの「日本のアウトサイダー」という本は非常に面白い。

アウトサイダーという語はインサイダーの対語としてある。河上さんは、中原中也、河上肇、内村鑑三らの評伝を通して(彼らをアウトサイダーに見立てて)日本のインサイダーを見抜こうと試みる。

そして、日本にはインサイダーと呼べるものがないのだという結論に至る。ちょうど土星の輪にあたるのがアウトサイダーならば、土星本体はすっぽりと抜け落ちて、周りを取り巻く輪に照らし出される空気とでも言おうか、それがインサイダーのような役目を果たしている、というのだ。

これは日本の特徴を非常に良く捉えていると思う。

左翼学者の論客丸山真男さんは、日本には保守がいない、と指摘する。これが日本の悲劇だと言うのだ。つまり、守るに足りるものがない、という意味だ。その点では、河上さんの論と同心円を描くと言ってよい。

中田選手は、判で押したような、何の意味もなく繰り返されるインタビューに、次第に批判的な態度を募らせていった。メディアは、これ幸いとばかり、ジコチューなる形容を与え、その言葉の範疇で彼を理解しようとした。いや、理解しようとしたことを演じた、と言うほうが日本の低級なメディアには相応しいか。

日本代表監督だったトルシェも彼を見損なったひとりである。トルシェはそもそも、日本を理解しようとしなかった。そこから中田選手への誤解が生じたと僕は思っている。

記者団に対しトルシェはこう語ったそうである。「フランス代表のジダンは本当にサッカーが好きな男だ。諸君がもし公園で彼を見かけ、一緒にサッカーをしよう、と誘ったらすぐさま応じるだろう。諸君が中田を見つけて、同じ声をかけたならば、彼はすぐさまマネージメントに電話をして、いくらでならプレーしてよいかを訊ねるだろう」

誤解自体は、よくある話だ。それについて中田選手は「それを聞いたとき、悲しかった」と言っている。こういう情緒を表す言葉を、彼は時折使う。その時の、気持ち自体は押さえ込んだような表情を見れば、この人を誤解することはないだろうに。

監督がジーコに代わったとき、代表からは引退しようと固く決意していたそうだ。ジーコはそれでも彼を選出した。

中田選手は、ジーコと直接話しをするためだけに帰国したという。そして、トルシェの誤解(正確にいえば、トルシェの中田理解だ)に、傷つけられたことも話した。ジーコは中田選手について、トルシェとはまったく違った見方をしていると言い、自分のチームには絶対に君が必要だと説いたそうだ。

直接話を聞くために、わざわざ帰国したというのがこの人らしい。もしも何かをしたり考えたりするには、伝聞などでは気がすまない、という気持ちなのだろう。

僕が中田選手を弁護したりする必要はない。嫌いな人がいても当然だ。ただ、中田的な(ついでに言っておく。私的には、という言い方をする人が多くなったでしょう、あれは僕的にはいやだな)正直さを持った人が浮き上がってしまうのがこの国の弱いところだと思う。


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