季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

科学者

2008年05月17日 | その他


分子生物学者でノーベル賞受賞者の利根川進さんは野蛮なひとだ。詳しく知らないけれどきっとそうだ。顔からしてそうだ。大急ぎで付け加えると、僕は野蛮なひとが好きである。ついでに付け加えれば、上品な人も同じように好きだ。お上品なひとは苦手である。

僕の好みに話がそれないうちに戻すけれど、僕は科学に嫌悪感なぞ持っていない。それどころか、知識は乏しいが、大いに関心を持っている。わけの分からぬ量子論の本を読むとよく眠れる。時にはなにも頭に入らぬうちにもう寝入ってしまう。そのくらい好きだ。わけも分からぬから、夢でうなされる心配もない。

利根川さんと評論家の立花隆さんが対談していて、これが面白い。これも正確に言わないといけないな、立花さんは怖ろしいほどの勉強家だ。きちんと質問する事柄についての知識と理解を持っている。僕はちんぷんかんぷんで、そのちんぷんかんぷんを楽しんでいる、と言った方がよい。

どうです、こうやればあなただって、楽しめますよ。

利根川さんの野蛮さとは、彼が何でもかんでも物質の解明により理解し尽くす時代がやって来る、と断言するような時に顕れる。

例えば僕たちが幸福感に浸ると、セロトニンという物質が脳内に出る。そのメカニズムも分かっている。それならば(うん、書いた途端に思い出した。近頃こういうとき「ならば」と書くでしょう、新聞などで。いただけないね。ならば問いかけよう、とか。僕はそれを見るたびにイライラしてしまう。では、とかそれでは、とかいくらでも言えるでしょう。口だけとんがらせて、議論は任せろ、という顔が丸出しじゃないか)

カッコが長くなりすぎたので、書き直す。メカニズムが分かっているのなら、理論上は人間の気持ちでさえコントロールできうる。

生物が自己を認識する際の物質も正確に分かっているのだから、みんなが芸術だとか、何だとかわめいていることも、ある物質の化学作用に過ぎない。現在はまだ解明できなくとも、将来は必ず解明できる。

簡単にいえば利根川さんはこういう信念を持っている。立花さんは、それは極端だ、と常識人としての反応をする。

僕は常識人だから、立花さんと同じような反応をする。ただ、こんな「常識はずれ」の断言をする利根川進という人を面白いとは思うのだ。

立花さんが「精神現象というのは一種の幻のようなものではないか」と言うと利根川さんは「その幻って何ですか。そういう訳のわからないものを持ち出されると、僕は理解できなくなっちゃう」と応じている。

本当に訳が分からず途方に暮れるといった感じがよく出ていて、僕はそこに一番感心する。彼が正しいとか正しくないとかいうより、その信念の強さに感心する。

そのことはそのこととして。

自己とは、他から自己を識別する物質が出ることにすぎない、というのは果たしてそうか。ミミズが他から身を守る際の自己認識と、「僕」の自己認識が同じことだとは、どうやっても思えない。

朝起きてみたら虫になっていたという小説はあるがね。僕がミミズと同じだという小説はまだない。僕をミミズと同じだ、というやつはたくさんいるだろうが。

「僕」が僕を唯一無二の存在として感じる、その感じること自体は、物質レベルを越えるのではないか。さもなければ、自己を認識する物質は人間の数だけ多様であることになり、その時点で科学の範疇を越えるであろうから。つまり汎用性を否定してしまうから。

それについて利根川さんは何というか、僕は分からないが、話は平行線を辿るように思う。科学者のあり方も当然一様ではないけれど、彼らの話に耳を傾けるのは面白い。それは請け合っておく。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿