季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

風呂場にて

2010年03月10日 | 音楽
風呂に最後に入ることが多い。最後に、浸かりながら浴槽の栓を抜く。湯は少しずつ減り始めるが、排水管から溢れるのだろう、一度洗い場の排水口から逆流してくる。

洗い場の床がひたひたと浸されて行く。石鹸垢が混ざって決してきれいな眺めとは言いがたい。しばらくすると排水管を通る量が釣り合うのか、ふたたび床の水位は下がり始め、最後にはすっかり元のままになる。

僕は毎回これを眺めている。最後の水が一気に排水口へ吸い込まれていく瞬間が気持ちよい。

馬鹿のようなものであるが、眺めながらワーグナーの「神々の黄昏」の最終場面を思い描いていることもある。

最終場面でブリュンヒルデは長い長い独白の後、愛馬グラーネと共に燃えさかる炎の中に飛び込む。やがてラインの水がかさを増し、その中をライン乙女が、3日前の「ラインの黄金」の最初の場面と同じように泳ぎ回る。聴いている我々は今、長い円環が閉じようとしているのだとはっきり感じる。

知らない人のために書き添えておく。「ニーベルングの指輪」は「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」の4部からなる。つまり上演には最低4日かかる。「ワルキューレ」また稀には「神々の黄昏」は単独で上演されることもある。

彼女たちは今、奪われていた指輪を取り返しにきたのだ。指輪を手に入れようとあれこれ画策してきたハーゲンは我に返って、それを止めようとするが溢れかえる水かさに手も足も出ない。

遠くの背景では神々の城、ワルハラが炎上し、指輪は神話の中へ帰っていこうとしている。

ライン乙女は退いてゆく水と共に去って行く。

ワーグナーはなんという奴だろう。ひたひたと寄せるラインの水、そして再び退いてゆく描写の確実なこと!

ニーチェはワーグナーを「あらゆる微小なものの天才」と呼んだ。悪意をもってなされた発言ではあるけれど、描写力という点から見た場合これほどぴったりの指摘はないのである。

「ラインの黄金」の冒頭、低い変ホ音が通奏されると僕たちはあっという間にライン川の水底の暗い世界へ誘われる。その上をバスクラリネットによって変ホ長調の音階がミファソラシミソと低く演奏される。ここでもニーチェの言葉を思い起こす人はいるだろう。

その音型は執拗に繰り返され、次第次第に楽器が加わり、装飾的な経過音も増えていくが転調は一度もなく、聴き手は息を詰めて聴き入ることを強いられる。

最後に全楽器が渦巻くように響き、これ以上いったいどうなるのだと不安になったその瞬間どん帳が開き、そこではライン乙女が歌いながら水中を泳ぎまわっている。フォルテッシモから休符もなく、急に薄くなったオーケストラの中でいきなりファミドシラミラシラと変イ長調に飛び移って歌声が現れるこの場面は、ワーグナーの舌なめずりを感じる。分かっていても鳥肌が立つ。この音型は冒頭主題の反行型であることに、音楽をしている人は注目してもらいたい。

これ以上の簡明さと効果はいったいあり得るのだろうか。

「神々の黄昏」の最終場面でライン乙女はこの冒頭の場面と同じメロディーに乗って現れるのである。ただし今度は歌声なしで。

聴き手はいやでもはるかかなたに消え去った旋律を思い出す、そういう仕組みになっている。

そしてすべての水が浴槽から流れ出した後、僕も入浴中だったことを思い出すのである。


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