季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

楽器は見ただけで分かるか 3

2009年10月08日 | 音楽
ある調律師から聞いた話では、楽器店勤めの調律師の仕事の大半はピアノ磨きに費やされるという。とくにスタインウェイなど、所謂一等ブランドを扱う店ほどそこに気を遣うらしい。

少しの傷でも見つかると買い手がつかないし、購入後であっても返品されるという。

これはちょっと考えれば筋の通らぬ話である。そんじょそこらのピアノとは違う、クォリティーの高い音を求めようと願って店に来て、自分で選んで帰ったのだろう。かけがえのない音に満足して帰ったのだろう。それを傷ひとつで返品するということは、音で選んだということが嘘であったと白状したも同然だ。

気取った仮面はすぐ剥げる。

以前、刀剣を扱う業者の「刀を持つ手つきでその人の目が分かります。あとは何を仰っても無駄でございます」と何とも凄みのある言葉を紹介したけれど、楽器商もこれくらいの自信を持ってもらいたいね。傷ひとつで返品を要求するような人が言う音への好みや要求は真に受けなくてよい。それくらい断定できないと、あっちへフラフラこっちへフラフラして、結局自分でも分からなくなるぞ、と言いたい。

中古のピアノというが、中古のストラディヴァリウスとはいわないね。ここいら辺も人々の心理をうまく受け止めているなあ。

その中古ピアノであるが、1920年代、30年代辺りのものともなるとさすがに弦は錆び、塗装も薄くなって、フェルト部分など擦り切れている。中古市場ではこれを新品同様に再塗装して、隅々まで磨き上げないと売れないのだという。

弦の錆は音に直接関係しているから分からなくはない。もっとも僕は錆のある弦を新しくすればより良くなる、と信じて疑わない人を疑問視する。

もうひとつある。

そもそも古いピアノに再塗装した時に美しく甦ったと感じる審美眼についてだ。僕は、すでに書いたように、古民具に愛着を持っている。古民具を再塗装して売る骨董屋がいるだろうか。やたらに磨く店はあるらしいが、それだって嫌だね。

歳を重ねた道具の美しさはまた格別である。ピアノだって同じように見たほうがはるかに綺麗だと思うのだが。

例えば僕の所有しているベヒシュタインのコンサートグランドは戦後すぐにドイツから送られてきたのだという。故豊増昇先生の所有だったのを譲っていただいた。

1903年あたりに製造されたものである。ドイツでどこにあったのかは分からない。それでも、どんな狭い会場にでもフルコンを競って置く現代日本とは違う。コンサート会場でも、それなりに大きなホールにあったと考えて見当は外れないだろう。

そして、そのようなホールで演奏するピアニストは(これまた今と違って)錚々たる面々だったに違いない。

今日僕の部屋にあるピアノの鍵盤にケンプが、ラフマニノフが、シュナーベルが触れたのかもしれない。そういう空想をするのは実に実に楽しいことではないか。

それもこれも黄ばんだ象牙、埃が染み付いたフェルト、所々木の地肌が出てしまっている塗装が語りかけてくることではないだろうか。

古道具のもつ美しさとその面白さはそこにある。古い楽器の良さの中にこうした古い外観まで含めたほうが良い。

再塗装したものが良い音ならばそれはそれで構わないけれど、できれば古い外観を留めておくほうが望ましいし、それを望ましいと感じる趣味を持ってもらいたい。

古いヴァイオリンを再塗装してピカピカにして綺麗になったと喜ぶ人はいないのに、ピアノだとどうして同じように振舞えないか。

ヴァイオリンは工芸品、ピアノは工業製品というイメージがそうさせるのだろうか。

最初に挙げた小林秀雄さんの放言も、希代の目利きの言と思えば、あながち暴論ではない。少なくとも冷笑の対象になる性質ではない。

冷笑するより、ここまで脱線していけることを面白がった方がよっぽど気が利いている。



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