goo blog サービス終了のお知らせ 

 季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

直訳

2018年01月06日 | その他
英語が(外国語が)堪能だったら翻訳は出来る。

これは正しいだろうか。

ひとつ実例を。探さなくとも偶然見ていたボクシングの記事で充分だ。

日本の選手が圧倒的な強さで勝ったことを伝えるフランスのメディアだそうだ。
曰く、格の違いはあまりに巨大だった。

もうひとつ別の記事、同じ日本人選手の活躍を期待したイギリスの記事。
曰く、ボクシングファンの食欲を大いに刺激したのだ。

ここまでおかしいと誰でも分かるだろう。最初の例は、あまりにも大きかった、あるいは単に大き過ぎたでも良い。

二番目の例にしても、ヨーロッパ言語では直訳すれば確かに食欲を刺激するという言い回しがある。

しかしこのような表現は日本語ではまったく使われないのだから思わず笑ってしまう人もいるだろう。

ニュースになるためには速さを求められる、推敲する暇なぞ無いと言うかもしれないが、そんな高級なことではあるまい。単なる日本語の拙さだ。

このように翻訳においてはむしろ日本語の能力が問われるわけである。

ところで訳者は普段からこのような珍妙な日本語を使っているのだろうか?はなはだ疑問である。

誤訳ではないか、とかの様々な批評から身を遠ざけたいという気持が大きいと文芸作品はいざ知らず、無難なところで簡便に扱うのではあるまいか。

その手の自動化された訳業を繰り返すうちに日本語とはかけ離れた、原語で書かれた文章や単語を無反省に訳すことになったのではないか。

雑誌などでよく見かける、私は私はと主語を頻発させる、これまた日本語にはそぐわぬ文章などを見るにつけ、そのような憶測をせざるを得ないのである。