季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ワールドカップ 3

2010年07月14日 | スポーツ
今回のドイツチームは強い。ドイツはいつでも強豪国として認知されてきた。

僕が住んでいたころも優勝したし、印象にいまでも残る試合がいくつもある。

しかし今回のチームはそれまでのチームとはまったく性質が異なる。国全体の印象も変化しているのではと思えるほどである。

どう違うのか。僕がいた当時のプレースタイルは一見鈍重ともいえるものだった。

守りは堅実で強く、攻める場合はゆっくりパスを回しながら機をうかがい、それは見ている僕らに真綿で締めあげていくような圧迫感を与えるものだった。そして一瞬の隙をとらえて仕止める。

当然派手さはなく、世界的強豪にも関わらず人気が薄かった。ひいきして観戦する人もジリジリする思いだった。

なにが強かったのかと問われても門外漢には本当には分からず、和声学や対位法のしっかりした作品のようだったとでもいうしかない。

今回のチームは確実な個人技の上に組織だった鮮やかさが目立つ。チーム紹介でも組織がしっかりしているということが強調される。

そうすると日本チームと同じような印象を与えるらしい。個人の鮮やかさがないからと人気が薄い、そんなことだろう。

現にドイツのプレーは組織組織でおもしろくないという書き込みが日本のサイトにたくさんあったが、勘違いも甚だしい。これは組織という言葉に反応しただけだと思う。

今のチームは個人技も非常に高いレベルにある。昔はリトバルスキーのドリブル等は個人技の代名詞的存在だったが、といってメッシのような鮮やかさはなかった。

ではなぜ人気が出ないのか。ドイツの選手の個人技は常に全体の中に収まっているというのがいちばん妥当な答えだと思う。

個人技をメロディに例えると、対位法的に緻密に書き込まれたドイツに比べ、いわゆる個人技に秀で人気のある選手は、イタリアのカンツォーネである。あるいはオペラのアリアである。

さて僕が住んでいたころのドイツチームについては書いたとおりであるが、実はそれよりもっと前のチームは個人の力が圧倒的な選手が大勢いた。

ベッケンバウアー、ミュラー、ブライトナー、フォクツ、オベラートといった面々である。一騎当千という選手たちだったが、それにもかかわらず全体の中で機能していた。その特徴は今回もはっきり見て取れる。

では以前のチームと今回のチームの違いはなにか。ベッケンバウアーのころの強さをバッハのブランデンブルグ協奏曲だとしたら、今回のチームはリストのピアノソナタ、そんな感じに違う。一種の派手さがある。

いまドイツ国内リーグは、外国人監督が多いのかもしれない。例えばトップチームであるバイエルン ミュンヘンに外国人監督が君臨して高い評価と尊敬を受けている。以前は考えられないことだった。

プレースタイルが大きく変わったのはそうしたことも影響するのだろうか。

ところで、この記事はここまでは準決勝前に書き始めたので、現時点ですでに大会は終わっていて、ドイツの三位が決定している。

にもかかわらず、何一つ変更する必要を認めない。三位決定戦で再逆転したあたりにかつての面影を見いだすけれど。

人気がない理由はメディアの取り上げ方にもよる。一次リーグから例のドンチャン騒ぎを含めて全試合中継がありながら、三位決定戦だけは放送がなかった。スカパーはあったけれどね。

ドイツのオンライン新聞によればじつに力のこもった好試合だったという。大会全体のMVPに、この試合に負けたウルグァイから選出されたことからもそれは窺える。

もう一つ、準決勝前に主将のラームが、今回怪我で出場ができなかった本来の主将バラックに代わってずっと代表キャプテンを務める用意があると発言して、賛否両論が(選手間からも)上がったことは日本ではまずお目にかからぬ出来事だった。

このレベルまで真似をする必要があるとは思わないけれど、シュートを打つ精神構造とはほど遠いという僕の意見を裏打ちするような例である。

日本選手は不満は親しい記者に漏らすという形しかない。何だか「首相周辺によれば」なんて記事ばかりの政治記事そっくりでしょう。

そう思いを巡らせば、日本は監督をすげ替えても今以上は強くなれない。なにひとつ変わらないだろう。それでも代えていかねばならないという希望のない交代劇もなにかこの国の政治劇をみているようでしょう。

それにしてもドイツのこれだけ鮮やかな世代交代を見せつけられると羨ましく思う。
コメント
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