季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ふたつの編曲

2010年07月08日 | 音楽
カンタータ147番の有名なコラールにはピアノ用に編曲したものがある。正確にいえばこのコラールは編曲のおかげで有名になった。話が逆なのであった。

怪しからんというのではない。ただ、世の中には「原典主義者」「原曲主義者」というのが必ずいる。それも結構いっぱいいる。

最近もある人から、この人は精力的に小学校などで子供に音楽を体験してもらおうと活動している人だが、編曲したものを演奏したところ「騙された気分」といわれたと聞いたばかりだ。

こういう話を聞くと気が滅入る。音楽をいたずらに難しくしている人もいたずらに軽々しくしている人も僕は好かない。(音楽について書くと、この種の書き込みをして注意を促さねばならないのが癪の種だ。)
このコラールが有名になるのは大いに結構だ。ここからこのコラールを含むカンタータ147番全曲を聴いてみる人が出れば嬉しいし、さらにカンタータの美しさに目覚めて1曲また1曲と聴きすすめるひとがきっと出ているだろう。

ディヌ・リパッティがマイラ・ヘスの編曲を録音していたのも、この曲がいつの間にか有名になったことに一役買っているかもしれない。ところでつい先ごろまではリパッティの名を知らぬ人はないといったふうだったが、最近は若い人に聞くと知らないと答える人が増えた。大変若くして亡くなったピアニストです。CDが5枚ほど出ているから知らない人は聴いてください。

編曲したマイラ・ヘスはイギリスの名ピアニストです。この編曲はとてもオーソドックスになされていて、ヘスの演奏そのものだといえる。

リパッティとヘスの紹介はここまで。僕が今日紹介したかったのは、147番のコラールにはもうひとつ、ケンプによる編曲があるということだ。こちらの編曲はかなり大胆に書かれているけれど、ピアノを濃淡をつけて演奏できる人にはよりスケールが大きく伸びやかにできると思う。

それはケンプの演奏自体と密接な関係がある。この人の演奏はきわめて自由度の高いものだった。ポリフォニックな曲において、まるで大道芸で玉をいくつも宙に放り投げて自在に操るさまを思わせた。

編曲は律儀というよりは全体の響きの奥行きを増すためにペダルを多めに使用したほうがよい、重厚なものである。演奏はこちらのほうが難しい。響きに対する勘がないと汚くなりやすい。

ケンプの思い出話で僕が気に入っているものをひとつこの機会に紹介しておこうか。

ある時マルセイユだったか、とにかくフランスの港町で演奏会があった。その客席にシュヴァイツァーがいて、終演後楽屋に来たという。ケンプはこの「珍客」を食事に誘うためにその晩のすべての予定を断った。バッハの大家との邂逅を喜び、話を聞きたかったのだという。

その時に発したケンプの質問が僕は好きなのである。「博士、私はバッハを活き活きと弾きすぎたでしょうか?」

活き活きと弾きすぎたか、誰がそんな問いを発せられるか。ケンプはこんな質問ができるピアニストであった。人となりが実によく表れている。

編曲はこのような人の手によるものである。他にもいくつかが出版されている。楽譜は幸い容易に手に入るから(ヘスのも)弾き比べてみたらいかが。

ここでヘスの演奏動画を見つけたから紹介しておこう。本文とは関係ないけれど、この機会にぜひ。

http://www.youtube.com/watch?v=UNlyxn2Y4_E



コメント (3)
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