季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

戦後民主主義

2010年03月21日 | その他
「トバク」という記事を書き終えたとたんに思い出したことがあった。

僕は小学校入学の少し前に川崎市へ引っ越した。そこにはもう住んでいない。今となっては信じられないことだが、我が家の前を流れる溝辺には芹が生え、そのほとりを毎日牛が通り、近所には肥溜めがいくつもあった。肥溜めは僕が高学年になってもあった。

当時コリーを飼っていて、その子が散歩中に落ちてしまい、往生したことがあるからよく覚えているのである。

いわゆる近郊型住宅が形成されつつあったころで、僕の学校は人口の急激な増加に対応して僕の入学と同時に開校した。急ごしらえの学校は教室が足りずに、初めのころは2部授業だったこともある。当時からだらしなかった僕は、学校に着いたらもう自分のクラスは授業が終わっていたりした。

田舎の保育園で、登園中に小川に入ってドジョウすくいをしたり、山に入ったりして、みんなが昼寝をしているころようやく到着し、罰として弁当を取上げられるような幼児時代を送った僕は、小学校に入ってもそのくせが抜けず、近所の子を誘って登校中に遊びに行ってしまったりしていた。

他方、今にして思えば教師たちは、また多くの大人たちは、戦後民主主義という(たぶん)漠然とした高揚感の中で胸躍らせていたのではあるまいか。

教室の一番後ろには板で囲った砂場がしつらえてあった。休み時間にはそこで仲良く箱庭ごっこをできるという、平和を希う思いが形となって表れていた。大人たちはこの素敵なアイデアに夢を託したのではあるまいか。

教師および親たちの優しい思いやりは、しかしあっというまに破壊された。僕たち餓鬼共は何ということか、授業中に喧嘩をはじめ、箱庭の砂を投げ合って暴れたのである。僕がその中にいたのか、それとも傍観していただけだったのか、今となっては思い出せない。

入学式の時にもひと騒動があった。

前述のように、所謂農村部が多く、そこでは多くの児童が親戚だったり、古くからの帰属意識が残っていたりした。

れっきとしたよそ者である僕は、入学式の日、何人もの悪餓鬼に囲まれてポカスカやられた。言葉で殴る蹴るというと凄まじいでしょう。でも多寡が6歳児だ、別段何事もないのだ。

もちろんギャーギャー泣かされたが、僕もついでに何人かを泣かした。面白いのはやはり旧村民系?でありながら、よっちゃんという近所の子が僕に加勢をして、一緒にポカスカやられてくれたことだ。一緒に遊んでいるもの同士は血縁よりも強い(子供社会だよ)ことを物語っているでしょう。

こうした日常がありながらも、僕も曲りなりに年を重ねた。誰でも大人になることができることを証明しただけのことだ。

箱庭のアイデアは子供の凄まじいパワーの前にわずか1学期で姿を消した。僕らはそんなことすら気付かずに、相変わらず窓を乗り越えて授業中に小用を足しに行ったりする有様だった。

箱庭的な平和を絵に描いたような甘ったるい雰囲気は今も形を変えてあると僕は思う。

大人が自分もかつては子供であったことを忘れはて、大人が見た「理想の子供像」を求める。なんと愚かなことか。

優れた童話はそれとまったく反対の態度から産まれる。思いついたからそれについては近日中に書く。
コメント
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