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 季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

HPへの案内

2016年05月18日 | その他
本ブログを見て、講座等の情報が載ったHPへ行きたくても見つけにくいという人が少なからずいる、という。
毎回記事を投稿する都度、クリックだけで跳ぶような案内があったら便利で助かるというのはなるほどと思った。
今回はその予告だけである。

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作者の言いたかったこと

2016年05月15日 | その他
だいぶ前の「作曲家の意図」へのコメントで「国語の問題で作者の言いたかったことは何かというのがあるが、それと演奏は似ているようだ」といった趣旨の箇所があった。そうだったな、国語の問題はそんなのが多かった。今でも大差あるまい。

あれこれ一度に思い出す。例えば。小林秀雄がどこかで書いていた。金に苦労している男が志賀直哉の「暗夜行路」を読み、時任謙作の金遣いの荒さに不愉快を感じたとする。その鑑賞は、では間違っているか?誰もこうした読書をとがめ立てできないのである、と。

もう一つ。白洲正子が青山二郎に原稿を見せたところ、次から次にこれは余計なこと、とダメ出しが入り最後に「これはあんたが一番言いたいこと」と消されてしまった話。

青山はなぜ一番言いたいことを消せと言ったのだろう、言いたいことを書くのが文章ではないか、と不思議に思う人は多いかも知れない。

青山が言うのは、言いたいことを書こう書こうとすると文章は力が入り過ぎて生硬なものになる、ということなのである。生硬な文章、幼稚な文章は人に訴える力がないから、これは避けなければならない。それに大上段に構えたものは粋ではないし。

そこで文章家は様々な工夫を凝らして、自分の言いたいことを再構築する。それが文章というものである。

作者の言いたいことは何か、という国語の問題が出来上がる余地がこうして生じる。

ここで前に紹介した小林秀雄の文章に戻ってみると、作者の工夫は結局役に立たないではないか、とさへ思われる。

むろん小林はそんな主張をしてはいない。

作者は工夫を凝らして自分の世界を言葉に乗せて人に訴える。

読者もそれを理解しようと努めるのだが、どんな人間も自分の理解するようにしか、したいようにしか理解しない。当たり前のことだ。

これは懐疑主義とは無縁なのである。

例えば当ブログは百万人の読者を持ち、ほぼ全員が僕の書くことに賛意を示している。極端に少ないコメントがそれを証明している。

あるいは僕の講座の立錐の余地もない熱気をみて、僕が自分の言わんとすることを正しく理解されたと思ったらそれは大間違いだ。

誰もがその時の自分が置かれた状況で自分が理解できるように、したいように理解する。それを片時も忘れてはならないのである。

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奇々怪々

2016年04月11日 | その他
ブログランキングなるものに(何のことかも知らず)参加した。今ではそれが何か位は分かっているが。

当ブログの下を見てもらえば一目瞭然だ。ピアノ関係ランキング?をクリックしてもらえればそのランキングサイトに行く仕組みである。

で、左側のは僕が訳も分からず登録して、直ぐに重複する愚に気付いて抹消したものだ。

ところがこれがふと気づくと復活しているではないか。しかも、ジャンルがその日によって違う。

僕が復活に気付いたのは数日前で、教育問題!のジャンルで、しかもえらく上の順位であった。

また抹消手続きを済ませたら良いのだが面倒でそのままにしてある。

この復活劇はいったいどうして起こったのだろうか?僕が寝ぼけて再申請したとでも言うのか?

別段被害も何もないが、ネットの仕組みなんて分からないや、という点で気持がよろしくない。第一毎日のようにジャンルが違うとはどんな仕組みなのだろう。

ランクを競っている訳ではないが、もしも私もそう思うな、という方は右側のランキングボタンを押して貰えたら有難い。

左側だと何かの災いが降りかかるかもしれないヨ。

読心術

2016年01月19日 | その他

日本の昔話に、人の心が何でも読めてしまう、得体の知れない生き物が出てくる。

人に出会うと「お前は今、これこれこういうことを思ったな」と、すべてを分かってしまい、皆気味悪がっていた。

オチは、そうやってからかわれていた桶作りの職人が、竹を曲げてタガを編んでいたところ、手が滑り竹ヒゴが魔物の顔を打ちすえてしまう。

人間の考えることは全て分かると思っていたのに、分からぬこともある、人間は薄気味悪い生き物だ、と山奥に逃げ去る、そんな話だった。

さて、前置きが長くなったが。


人が心で思うだけで解読することにある大学が成功したそうだ。ニュースになっていたから知っている人も多いだろう。今のところ簡単な幾つかの単語しか解読出来ないが、将来はもっと複雑なことまで可能になるらしい。

話すことが出来ない病人などを念頭に置いた研究だという。それは実現したら素晴らしい。

昏睡状態の人に意識が無いと誰が断言できるだろう。眠りから覚めた人が、それまでも意識はあったという報告はごく少数では無い。

これらを全て真実だと認めることは難しいだろうが、科学の名前のもとに否定するのもまた非科学的だろう。

仮に昏睡状態の人にも意識があるとする。その人達が自分の意思を伝えることが出来るのならば、これは画期的なことではないか。

でもここでまた、人間は善意でばかり動いてはいないと言わざるを得ない。これは凄いと膝を打っているあなた、この装置?は一歩使用法を間違えたら恐ろしいですよ。

どうぞゆっくりなさって下さい(早よ帰らんかい)
まぁ、可愛い赤ちゃん(子ブタのピグリンじゃない!)

こんなになったらどうします?あらゆる発明は人類を変化させて来たが(発展させたかは疑わしい。でも変化だけは確実にさせた)同時に諸々の不便さ、不都合さももたらした。

今の所僕は面白がってニヤニヤしている。他人事のようにね。本来の目的以外に使われないことを祈る。テレビの馬鹿げたコメンテーターみたような意見?を開陳して終わっておく。

典型

2016年01月17日 | その他
高校サッカーで今年二連覇を達成したチームがある。

僕は試合を見ていないが、試合と無関係な所でネット上の話題となった。

試合後のインタビューでインタビュアーが「この連覇を今後どう活かしていくのですか?」と尋ねたところ、キャプテンの子はしばし沈黙の後、マイクから顔を反らせて「質問を変更して貰えますか」と言ったそうだ。

その言動に対して批判の嵐で、僕の目にも止まったわけである。

生意気だ、自分を何様だと思っているのだ、この手の非難は放っておくしかない。

僕がため息をつくのは次のような見方がかなり多かったことにある。

-そうですね~○○を見据えて今後に繋げていきたいと、え~そう思っています的な
中身ない返事しておけばええねん–

-そこで適当な言い方も出来ずに就職活動の面談なんかできるはずないだろ-

こうした「人生経験を積んだ」意見が目立ち、やれやれと思うのだった。

確かに何も言わないことがまずいこともあろう、同様に何でも感じたことを言って良いはずもない。時と場合によることがあるのは当然だ。

借問する。この質問のような、紋切り型に返答出来ず言葉が出ないのはそれほどにまずいことか。世間智のついた生徒なら「中身のない」返答を返せたのかも知れないが、むしろそれを美徳として恥じない大人?の方がよほど問題ではないのか?まあ、こうした意見に対して説得しようと試みても無駄なのは承知しているが。

人間はみんな仲良くした方が良いと思います式の、それこそ中身のないものを意見と称してあがめる幼稚な精神はこんな所にも顔をのぞかせると僕は思う。

もしも入社試験の面談がその手の口先だけの答弁によって左右されるのならば、その会社の将来は先細りさ。請け合っておく。口先だけの言葉にころりとだまされる奴が次の人材を確保にあたっての責任者ならば、将来を期待するのがどだい無理なのさ。

数少ないが、次のようなコメントも散見した。

ー甲子園でもそうだけど、取材する側が勝手に選手像みたいなのを作り上げて、それに沿って答えを求めているよなー

これはこれまでに僕が何度も繰り返し書いてきたことと呼応する。そしてこれはサッカーなどスポーツに限ったことではないと僕は思う。


新年

2016年01月01日 | その他
明けましておめでとうございます。
今年こそは今年こそは・・・
後が続かない。

テクニックについてのHPも、ひとつは動作を詳述することが困難を極めるため、もうひとつはそれを補うべく動画を増やそうとしても、楽器が狂いすぎていたり上手く録画出来なかったりで、未だに完結しない有様だ。

救いになるかも知れないのは、ここ数回の講座が全部録画されていたこと。そしてこれらの一部を切り取って貼り付けることを手伝ってくれそうな人が出てきたこと。

今年こそは、はご覧の通り人頼みである。

講座の動画だって?目線を入れるかモザイクをかけろ、声も変えておけ、そんな要望もある。

でもそれでは○○容疑者への取材みたようではないか。

年賀状を書くことをしなくなって四十有余年、とうとうこんな横着をすることを思いついた。呆れたものである。

年の瀬

2015年12月29日 | その他
あっと言う間に今年も暮れる。
年賀状の返事を書かなければ、と気にしているうちにもう次の年がやって来る。

そのようなわけで、とうとう返事も書かずに終わってしまった。

本ブログを読んで下さっている方で該当する方にはごめんなさい、と謝ります。


連帯感 2

2015年11月07日 | その他
教育とリスクとの狭間で、というが、連帯感とは教育するものなのだろうか?

それが前の記事の最後で記したことである。

それを問い直さず、いかにも難しい問題だといった空気を漂わせる、いかがわしい題名だ。

他にも人間ピラミッドの起源をギリシャであることを紹介し、危険な技をクリアすることによって市民は感動して熱狂した、という物知りもいた。みたまえ、選ばれし民が危険な技を、とあるではないか。学校全体で取り組む性質ではない。

この御仁は体育祭での事故を受けてやめた方が良いという意見だったようだが。なにぶん、馬鹿らしいので飛ばし読みで、結論なぞどうでも良いのである。

僕は連帯感というものは無いとか要らないとか言っているのではない。 それはある状況下で自然に生じるものだろうと言っているのだが。

普段の生活において、例えば友人と、僕で言えば生徒とは連帯感で結ばれているのか?

違うだろう。僕は今目の前にいる生徒に対し真剣に教え、話をするだけだ。

だけだと言うが、それこそが大切なのではないか。それに対し生徒は僕を信頼して接する、それが無ければ僕から去れば良い。

人間の関係はこの相互関係の濃淡だと言って差支えないだろう。集団として生きてはいない。

集団としての関係自体は当然ある。会社、地域、あらゆる集団。

そこではチームワークが必要であるのは言うまでもない。

それはほとんど自然に発生すると言っても間違いではないだろう。ただし目前の人との関係を(濃淡を含めて)誠意をもって取れるということが前提とされるけれど。それも出来ずに謳われる連帯感は、異様だと言っておく。

ではそうした、人との関係は教えられるものだろうか。

教えること、授業のような形で教えることはこれ又不適切である。

また、関係というのは、ウマが合わないということも含まれることを忘れてはいけないだろう。

ウマが合わない人と「仲良く」する必要はない。むしろウマが合わない人と無礼にならぬような距離を保つこと、それが社会のごく普通の在り方ではないか。

あれもこれも、画一的に「教育」しようとするから、いびつな連帯感、達成感、友情、希望、ぺんぺん草、などが声高に叫ばれるばかりで、その効果は何十年にもわたって上がらない。

連帯感

2015年10月21日 | その他
運動会で人間ピラミッドが崩れ、生徒数名が骨折など重軽傷を負った。

この「行事」が危険だというのは以前にも書いた。その後も時おりアンケートサイトなどで注目していた。

それらのアンケートで問われるのは、この催しをやめた方が良いか否かである。

存続させた方が良い、という声が止めるべきだ、を上回っている。

今回、事故があった直後だから、そのようなアンケートの結果は、多少の変動があるものと思われる。

しかし、止めるべきだとする人の理由を見ると、最近の子供は骨が弱いからムリだ、のようなものも目立つ。

存続を求める人の挙げる理由は、達成感がある、連帯感を感じるようになる、見る側からは感動する、このようなものである。

「保護者席からは歓喜の声があがり、たいへん感動的なものでした」

これはさる幼稚園のブログだそうだ。ピラミッドの波は幼稚園にまで及んでいるらしい。

それに対し「感動を離れてリスクに目を向けよう」という主張も出始めている。リスクと教育の狭間で、という記事もある。

ほとんどの人がこれらの意見のどちらかを支持するのだろう。

少し横道に逸れるがここでもう一度言っておきたい。感動という言葉をこんなところに使うものではない、安っぽくなるだけではないか、と。

さて僕がもうひとつ注目するのは、存続するべきだとする人たちの挙げる理由のうち、連帯感を感じる、強めるというもの。

オリンピックや世界大会で日本を応援したくなる。何故だか分からないけれどそれを不自然だと思う人がいたら、その人こそが不自然だと言えよう。

そのような心の動きを連帯感と呼んでも差し支えないだろう。

こうした心の動きは、僕たちは何処かで習ったのだとでも言うのだろうか?

連帯感という、確かにあるのだが、漠然としているものを学校で教えるものなのだろうか。そんな芸当が可能だと本気で思っているのだろうか。

余計な事をしてはいけない、と僕は思っている。こんなことを存続するべき理由に挙げている人は胸に手を当てて考えたら良かろう。いったい自分は何を感じているのかを。

その点に言及している意見が殆ど見当たらないのは奇妙だ。

長くなるかも知れず、行き先不明の文章だからとりあえずここで投稿する。


学校と事件

2015年07月14日 | その他

またしても中学生が自殺した。
色んな人が色んなことを言っているだろうから、僕は次の点だけ書いておく。

担任との間のノートに関してである。こうした形式について、ずっと前に河合隼雄氏を難じた記事を書いた。

そこでは生徒が教師を信頼しないのにノートを書くのは二重の心の隠蔽をすることになると書いた。

今回の件はそれともまた違う。生徒は必死に教師に訴えている。教師を信頼する人と見做したのだろう。にもかかわらず話題をそらせるかのような反応しか返ってこない。子供の心はそこで折れてしまった。

教師の責任を言うより、僕としては次のように思う。

絵に描いた餅のような、きれいごとの思いやりを出自とするノート、こんなことはやめたほうが良い、と。ノートをやめたところでいじめはなくなるはずもないし、自殺者がなくなる訳でもない。だが人の悩みを受け止めることなぞ、そう簡単に出来ることではない。力に余ることを無責任に引き受けることは、結局のところ次の悲劇を生むばかりだ。

空想的な原則論から一歩も動かないから、何一つ実際には変わることもなく、いつしか記憶が薄れていく。

以前やはり学校でのいじめを苦にして自殺した生徒が出たおり書いたが、投稿する気持ちにならぬままうっちゃっておいた文章を(つまり完成もしていないのだが)この際一緒に投稿しておく。うっちゃっておいて途中書き足したりしたものだから少し分かりづらい。



埼玉県の中学校で女生徒が自殺した。遺書には数人の実名を記しいじめられていたことが綴られていたという。こうした事件があると可哀想にという感想しか出てこない。

そして、事件のたびごとに感じるのは、学校というところは何か、ことを隠蔽したがる性質を持っているということだ。

第一に断っておきたいのは、僕は学校に責任があると主張したいのではない。それははっきり言っておきたい。

その上で、今までの数々の生徒がらみの事件、事故で常に感じてきたことを今回も感じると言いたいのである。

亡くなった当人がこれこれこういうことがあったと言っており、家族も不幸にして起こった出来事を知りたいと願った。そのときに、学校側の言い分、つまり亡くなった生徒は自殺の前日に親に叱られたこともあるのではっきりとした因果関係は認められない、という。このような言い方はいったいどこから出てくるのだろう。何と言えばよいのか、非情とでも言おうか心がない。

あったことはあったことで、調べて公表するなりすればよいではないか。それをしない理由に、他のことがらを(この場合には親に叱られたこと)挙げているのが解せない。

何をそんなに心配するのか。まさか学校はこの世における唯一の「地上の楽園」であり、清く正しく明るくあるべし、と思っているわけではあるまい。それともそうあるべきだと自ら演じているのか?

どれもこれも、反応がビクビクしていて僕には不愉快である。


ここまで書いて放っておいたからこの話題はとっくに忘れ去られているはずだ。

こうした事件は昨今の特徴かといえばそうではない。なぜか知らないけれど昔からある。学校を舞台にしたものも数多くある。

昔は(戦前)同級生を殺してしまうような事件がかなりあったようだ。そしてあろうことか、子供のけんかだからと注意しただけでおしまい、なんてことが普通だったらしい。いや、普通ではなかったかもしれないが、少なくとも非常にたくさんあったのは、当時のあらゆる地方新聞まで丹念に調べ上げている人の本、およびサイトで得た知識である。

理由は分からないけれど、人間はそういう動物なのかもしれない。ヒトという猿は最も残酷なサルだ。チンパンジーのある種は、ヒト同様仲間を殺すという。知恵の代償なのだろうか?

しかし今日、これだけ色々意識も変わったのだから、少なくとも学校の対応くらいは大人のそれになってもらいたい。

学校側以外にも色々問題はある、それも承知の上である。僕はただ、対応は血の通ったものになるべきだと言っているに過ぎない。

おわび会見に校長か教頭が出る。彼らは伝聞でしかことを知らされていないわけで、言葉に実感がこもらないのは、ある意味で当然なのである。だから、困惑しているのならば素直に困惑する姿を見せた方が良いのではないか。

閉ざされた社会で、人間という猿はどんな行動を取りやすいのか。それは冷静に観察されなければならない。


以上、今回の事件と関係ないことまであるのだが。