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 季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

森の人

2015年07月10日 | その他
僕のパソコンからのメールには「森の人」という署名が入っているはずである。

ふむ、重松はロマンチストなのだなぁと思った人はお人好しである。

これはもうお分かりかもしれないが、オランウータンの邦語訳だ。僕が機械に弱いのを見て家族が設定してしまった。

ままよ、当たらずとも遠からずだ、とそのままにしている。イメージを膨らませて後、本人に接した人にはお気の毒さまと頭を下げるしかない。


スタンフォード監獄実験

2015年06月27日 | その他
地位は人を作るという。なるほどその通りだ。

地位だけではない、環境も人を作るのではないか。

誰もが漠然と、でも当たり前なことのように思うことを、ある環境下で実験する試みがかつてあった。

スタンフォード大学で、無作為に選ばれた人たちを囚人役と看守役に分けて2週間にわたり観察することにした。

すると何日も経たないうちに囚人役は本当の囚人のように、看守役も本物の看守のように振舞うようになった。

看守役は囚人役に暴行を加えたり、人間の尊厳を傷つけるために素手で便器を洗わせたりした。また、囚人役は幾人かの例外を除いて、その命令に唯々諾々と従ったのである。

目に余る看守役の暴行に耐えかねた数人が実験の中止を申し出たが、被験者も、果ては実験を行っているはずの教官までもが、興奮のあまり継続を支持する有り様であった。

結局、2週間という実験期間を全うすることなくわずか6日間で実験は中止された。それ以後この手の実験は許されていない。

中止に際し、看守役の被験者たちは約束が違うと不服を申し立てたそうである。











部活について

2015年06月11日 | その他
つい先ごろ、学校の部活でまったく知識、経験のない分野で顧問を務める問題、ストレスについて、教師から様々な声が寄せられているとの記事があった。たしか名古屋大の何とか先生よる纏めだった。

当然といえば当然だ。

とは言え、僕にはこのレポートの要旨が掴みかねた。

その分野分野の専門知識を持っている教師を配置すべきだと主張しているのか、教師が多忙を極めている実態を訴えているのか、等々。

調査に協力した教師にしても、何を訴えるのだろうか?

外部から専門知識を持った人をクラブ活動のために呼びたいのか、見合った手当を欲するのか。

どうも釈然としないのは、何れにせよ部活自体の存在だけは自明なものとして扱われているようにしかみえないことである。

その視点まで言及しないからあらゆる声が単なる愚痴にしか聞こえない。

部活が無い学校生活は考えにくい、というのはずいぶん根強い意見らしい。ちょっとちがう角度から見たら、部活はずっと学校にあったのだから考えにくいのは当たり前だろうに。

でもこれこそ議論の俎上に載せる価値がある話題ではないか。

こうした事を話すこと自体に及び腰なのはどうしたことなのか。

話し合いが何にも増して大切だと繰り返し説かれる。でもそれは建前に過ぎないのではないか、とすら思われる。

と書いている間に、スポーツの観点から問題提起があり、それにも首をかしげざるをえなかった。それについては改めて書く。

以上は少し以前に書いて、投稿しようとした矢先に柔道事故などが次々起り、タイミングを失した。しかし僕はスポーツ自体を書きたいのではなく、音楽も含めたあらゆることがらにまたがる今日的事象を指摘しておきたいので今投稿する。




部活事故

2015年06月02日 | その他
柔道部でまた死者が出た。

このところ人間ピラミッドに関する話題が再燃しているようで、それについて改めて感想を書いている最中だった。

亡くなった女の子には哀悼の意を表することしか出来ない。

原因として基礎をおろそかにする風潮、国際化する中で柔道が変質している、等々が挙げられている。

一つ一つはなるほどもっともだと、つい思ってしまう。しかし例えばフランスは柔道人口がずっと多いのに死亡事故はないという。学校内での死亡数が100を優に超えるのと余りにも違う。それを知ったら何かが根本から違うと思うのではないだろうか。

こうした事故の後に何とかしなければ、と掛け声はかかる。当然だ。

ただそれも月日が経つにつれ消えていく。対策はせいぜいが上記のように
基本をしっかりを徹底する、と確認するくらい。

原因は、フランスの例との余りにも大きな差を見ても、そう単純なものではないだろう。

それが何であるかを追求するのは大切だが、その間にも次々と事故は起こり得る。

ひとつ質問を。万全な対策を探しあぐねるほど危険でもある競技を学校という場でする必要があるのだろうか。

その手の疑問は多分多くの人が持つと思われる。しかし疑問は疑問のまま放置される。疑問をなお深く追求するには、学校に部活は必要か?というタブー化した問いかけに足を踏み入れることにもなるから。

結局この時点で足踏みしてしまうのがあらゆる局面における日本の最大の問題点ではないだろうか。

昨日もPTAにほとんどの親が疑問を感じているにもかかわらず、存続は不要とする人はたった4%だとあった。親と学校が無関係なのはまずいという「良識」が不要と断じるのをためらわせるのだと思う。

これにしても不要か必要かを含めて徹底的に論じずに(在り方に疑問ならね)うやむやに先送りするだけ。何十年後にも同じ不満と問題提起だけがあるだろう。

そもそも教師と親の関係が必要かという質問設定がいけない。常識的に答えれば必要に決まっている。それが今のような形でなければならないか?という話にならなければいけないではないか。

部活の事故対策にしたところで、部活は必要だと結論だけがある。その理由は学校は勉強の場だけではいけないのでは、という「良識」である。つまり社会を学ぶ場でもあるのでは、という漠然とした雰囲気があって、結局うやむやになる。

これだけ死亡事故が多発する柔道を体育の授業にまで(ほとんど)必修の形で取り入れる理由は一体何だろう?

間違えないで貰いたいが、僕は柔道という競技を否定しているわけではまったくない。

続きは人間ピラミッドについてやFIFA(国際サッカー連盟)についてで。




















本末顛倒

2015年05月24日 | その他
絶対に弛まないネジを作る会社があるそうだ。今では新幹線や橋など、最も信頼性を要求される場所で使われているらしい。

開発のエピソードも読んで中々面白かった。旧国鉄に売込みに行った時、そんなに弛まないのならば保線区の仕事を奪うから、と断られたという。

この手の、傍目には馬鹿馬鹿しく映ることは沢山あるのだろう。

抜け道

2015年05月21日 | その他
毎日散歩をする。歩いて気持ちの良い町に住んでいるわけではないが、そうでもしないと健康を保つことができないのである。

僕の住む町は神奈川県でもとりわけ一戸あたりの面積が狭いそうで、そんな知識なしでも気が滅入る建て込み方だ。

退屈を覚えるとわけのわからぬ路地に入ってみる。袋小路になり、舌打ちと共に戻るしかない通りも少なくない。

ふと「車両の通り抜けできません」という立看板が目に入った。車は無理というならば人は通れる道理だ、とずんずん進んだら、果たして人ひとりようやく通れる隙間があり、無事彼岸まで辿り着いた。

とおりぬけ
むようでとおり
ぬけがしれ

という川柳を思い出した。

僕が中学2年だったか3年の国語の教科書に載っていた。

教師がこの句の意味を問い、僕をはじめ悪童たちが次々と珍解答を発表するのだが正解しない。

今のような進学塾のない時代である。便利なノウハウを教えてくれる人がいるわけではない。

しばらく頭を捻っていたが、ふと5,7,5の区分けにこだわらずとも良いのではないか、と気付いた。なんだ、意味がはっきりと理解出来るではないか。
通り抜け無用 で 通り抜けが知れ 通り抜け禁止という立て札のおかげで通り抜けられることが分かった。つまり僕が散歩中に発見した抜け道と同じことだ。

もちろん正解である。僕が楽曲のアーティキュレーション、フレーズ、リズムの相互の関係に気付いたのはそれより少し後だったと思われる。両者は似通ってもいる。とは言え、これは後づけの知恵である。



歳を取れば取るほど

2015年05月11日 | その他
作品と作者の関係くらい不思議なものはない。

僕たちは立派な作品を見聞きすると、自然に作者の人格まで立派だと信じてしまい易い。

いや、信じたりはしないという人はいる。それらの人は逆に、君子の隠された弱点を見つけて喜ぶ傾向にある。作者と作品の関係について考え抜いた訳ではないという点では、人格まで信じてしまう人と大して変わらない。

例えば僕は生徒諸君よりずっとエレガントに弾ける。処が当の本人は(僕のことさ)エレガントとはまったく縁のない男だ。生徒諸君は僕に比べてどれだけ上品なことか。

これは一体どう説明できるだろう。

では演奏は本人とまったく無関係だろうか?無関係だと断じるのはためらわれるだろう。これも常識的にそう感じる。

適当な辻褄合わせの理屈は不要だ。例えば僕の裡の何処かにはエレガントな要素があるからだ、とか。このような説明はいかにももっともらしいが、もっともらしいだけだ。

この難問は歳を取れば取るほど、解くことのできない不思議さとして目の前に現れるようになった。

いったい作品(演奏でも同じだと思って良い)と作者(演奏家)の関係は何だろう?


農耕民族

2015年04月26日 | その他
何かにつけて、日本人は農耕民族だからと言う人がいる。農耕民族だから大人しく、争いを好まないといった具合に。

でも、そんな風に単純なカテゴライズをするならば、農耕民族はむしろ好戦的だとも言える。あるいは戦いを余儀なくされていると言っても良い。

狩猟民族はある時には近隣の村と協調して森の獣の保全までしなければならないが、農耕民族は作物をより多く得るためには他所の土地を奪い取る必要があるのだから。

要するに我田引水はよろしくないということだ。しかもたった一つのキィワードであさっての方向に向かってしまう。気をつけたい。

教育実習は必要か

2015年02月28日 | その他
ちょっと前にピアノ教育法なんぞ役に立たないのではないか、ということを書いたが、話の序でにもうひとつ同工異曲を。

毎年教育実習期間があり、ただでも少な過ぎるレッスンのうち2回乃至3回がつぶれる。

僕はこのような教育ごっこは早いところなくして貰いたいものだと思う。

以前登校途中に常勤の教師と出会い、話をする機会があった。

ちょうど教育実習の期間で、話題はそのことになった。教授連は受け入れ校へ出向き挨拶をしなければならず、忙しい、 忙しいとボヤいていた。

僕は単刀直入に尋ねた。一体そんな儀式は必要なんですかと。教授は、そうなんですよねー、先方だって学生はともかく、私たちまで行ったらきっと迷惑なんですよ、と正直に答えた。

実習期間中のセレモニーは上記の通りだが、実習から帰って来た学生に感想を聞く。すると大抵は楽しかった、思い出になったという言葉が返ってくる。

思い出だって?僕は一度だけ吉野家の牛丼を食べたことがあるが、それだって思い出だぜ。マージャンで役満を振込んだ思い出だってある。

冗談はさておいて、こんな場合に思い出という切実な言葉を使うだろうか。

僕の中学は男子校だった。ある年、教育実習生として女学生が来た。最終日に僕達と一緒に記念撮影をしたらしい。記憶にはないが写真はあり、僕も写っている。

歳をとって偉そうに女学生が、などと書いたが、当時はむさ苦しく臭い男子校に華やかなおネェちゃんが来たという感じだったに違いない。

色気づいた中学生どもの中に僕もいたのだろう。だが記憶はまったくはっきりしない。思い出そうとすれば、何人かの同級生の声が蘇るばかりだ。

もっとも実習生のおネェちゃんたちにとっては、記憶はもっとはっきりしたものかも知れない。でもそんなものは他愛ないことだ。同じ時期に他のことをしていればそれが思い出になっただろう。

思い出作りといった言い方が昨今ではあるようだが、僕は好かない。作ろうとした思い出なんぞ高が知れているではないか。

教習生は確か3人いたように覚えているのだが、あの中で一体何人が教職に就いたのか。

教職に就いた人は本当に実習が役に立ったと言うだろうか。甚だ疑問だ。いざ実際に教職に就けば否応なしにあらゆる現実に対処することになる。そしてそれは多くの場合、楽しかったなどの感想とは程遠いだろう。

教師なんて、教育実習楽しかった、ひとつ教職に、というわけでなるものではないだろう。

他の職業ならば、職場を見て実状を知ることがあるのかもしれない。だが学校という場は教師と生徒という立場こそ違え、誰もが知っているではないか。職員室の実際だけは知らないだろうが、それに関しては上記のように、実習でわかる種のものではない。

それにもかかわらず、思い出のみが残る実習はいつの間にか必須のものとなる。それを僕は先生ごっこと呼ぶので、そんなもののためにレッスンが3回ほど抜け、加えてその間練習出来ない、というデメリットを容認するのは出来かねる。

大体、他の国はいざ知らず、日本の教育は絵に描いた餅とでも言おうか、カタログのようなきれいごとが多すぎるのではないか。僕の率直な感想である。

因みに、僕の学生時代にも教職を必ず取るように指導があった。だから僕は取らなかったのだが、別段困ったこともなければ、思い出に事欠くこともない。


交通標語

2015年01月18日 | その他
何のためにあるのか、交通標語を代表とする標語看板。車を走らせるとよく見かける。でも真面目にとると笑ってしまいそうだ。

何のためにと書いたが、目的はもちろんはっきりしているさ。

例えば「ダメ、ぜったいに」と覚醒剤(だったかな)の危険を訴える看板がある。

この看板の目的が分からない、という人はまさかおるまい。覚醒剤はいけませんという、反論の余地もない訴えだ。

でもこの看板で深く納得する人もまたいないだろう。この滑稽感は一体何だろう?

「ダメ、ぜったいに」「あ、そうなの。オレ止めるわ」とはならないのが誰の目にも明らかだ。こんな看板はダメ、ぜったいに、なのさ。

覚醒剤の怖さを至る所でアナウンスするのは必要だとも言える。しかし、この標語がいけないのは、6年2組女子の黄色い声、を想起してしまうことではなかろうか。

僕は仮に看板で訴えるならばストレートにした方がはるかに良いと思う。こんな風に情緒に訴えるからバカバカしさばかりが目立つ。

「君の帰りを母が待つ」なんて安全運転を訴える看板も同様だね。浪花節じゃあるまいしさ。

暴走行為の途中、この看板を見つけて「あぁおっかさん」と反省する姿を空想してごらんなさい。

浪花節的では若い人に訴える力がない?そうか、では「可愛いあの子が君を待つ」「じゃあ今回はそれで」

こんな話合いをでっち上げても、あまり違和感がないではないか。

この手の看板は情緒に訴えずストレートにとは言ったものの、ここではストレートに安全運転を訴えても虚しい気がする。ということはこんな看板は気が散るだけで邪魔な代物だと結論するしかない。

最初の例に戻って、覚醒剤撲滅を目指した看板ならばストレートな表現にするのは可能だろうか?

考えてみるとこれがなかなか難しい。まさか中毒患者の様子を出すわけにもいかないし、長い文章では走る車から読むのは困難だ。熟読した日には三途の川を渡りかねない。

そこで標語は短くあるべし、というリアリズムに行き着く。するとあら不思議、又しても「クルマとケンカ 君の負け」式の滑稽感満載標語が出来上がる。

この様に、どこから考えてもこの手の看板は不要だという結論に達してしまう。

必要性のないものは必要性のない考察(僕のこの無意味な考察のことさ)を呼ぶ。